平原の彼方からEF510の前照灯の光が見えて、枯野を通り過ぎていった。このあたり華やかなものは何もなく冬を待つ水田と低い丘陵地帯。小さな集落が点在するだけ。
人の気配のない集落を貨物列車はいつものように通過して走り去っていった。毎日展開する光景。しかし季節は進んで師走となり1年が終わる時が近づく。荒れた天気が多くなり大地は雪に覆われる。
平原の彼方からEF510の前照灯の光が見えて、枯野を通り過ぎていった。このあたり華やかなものは何もなく冬を待つ水田と低い丘陵地帯。小さな集落が点在するだけ。
人の気配のない集落を貨物列車はいつものように通過して走り去っていった。毎日展開する光景。しかし季節は進んで師走となり1年が終わる時が近づく。荒れた天気が多くなり大地は雪に覆われる。
ふとみると線路わきに小さな柿の木が。実を付けていたが渋柿のようで誰も収穫されない。
渋柿は焼酎で渋抜きをしてしばらく置いておくと絶妙な味わいとなる。柿の木の脇には長ネギがたくさん。これもこの時期が本番の野菜。たくさん食べて厳しい冬を乗り切りたいものである。
通過した3098レは北海道の農産品を多数積載している。この列車の旬は秋でコンテナの積載が100%のことも多い。短い汽笛を鳴らし走り去っていった。
天候が下り坂のこともあり列車が通過後一気に暗くなりその後1時間経過したころ激しい雨が降ってきた。
2022年11月27日 下り「しらゆき」3号
昔買った上越線関連の写真集に渋川付近を走る特急「とき」183系が側面に斜光を受けて榛名山を背に右手にカーブを切り、ススキが斜光に白く輝く写真があった。先頭部はなく中間車両のみが反逆光の中を走る。上野を出て2時間平野から山間に入るあたり、乗客たちは何を思っていたか・・・・それらをイメージしたが短距離ローカル特急では難しいテーマである。短時間乗車で乗客も少ない。
2022年11月27日 「しらゆき」6号
E653系4連のあまりに短い編成で上越妙高までの短い区間を走る特急。利用者は少なく本来の目的である北陸新幹線連絡はほかの交通手段に持っていかれ、県内輸送中心であり、結局利用は伸び悩んで本年の3月ダイヤ改正で1往復が廃止されるに至った。
上越新幹線と北陸新幹線の接続特急も画餅に終わるように感じる。
わずかな客を乗せて走る短距離特急「しらゆき」と冬枯れ。車窓から見えるのは間もなくやってくる冬を前にした枯野。黄色い草原は稲の「ひこばえ」が枯れたもの。落葉した樹木と誰も食べない渋柿の実・・・
線路わきのすすきをあしらって。ここ数年は線路わきに雑草、雑木が目立つようになった。
すすきを右手に見ながら列車は走行する。
上りの3098レが通過すると一気に暗くなった。日没が早い11月下旬。雨の日が多くなり憂鬱な時期。
カジュアルなスタイルの方々が上越新幹線に乗車していく。多くは首都圏へ向かわれるのであろう。2時間程度の乗車で東京に着く。40年前は上越線特急「とき」で4時間越えの長時間の移動だったが現在はその半分まで所要時間が減った。冬は豪雪で運休は大幅遅れで悩まされたが上越新幹線開業により豪雪で悩まされることはなくなった。
上り普通 この季節この位置からは日差しを受けることはない。
小雨をついてEF510-6牽引の3093レが通過。日中は鮮やかに見えた背後の丘陵地帯の紅葉も茶色くくすんでもうすぐ散ってしまうことを告げていた。薄暗い景色の中機関車の赤が鮮明に見えた。
午前中に東京まで1往復して、午後の1往復の始まり。この列車の前に時刻表に無いE7系の編成が通過していった。
冬枯れの水田を前景に新潟平野を貫く上越新幹線の高架。高速で駆け抜ける新幹線列車。
1982年11月15日行動様式を変更することを迫られた交通革命がおこった日。首都圏は遠くの町ではなく、越後路は首都圏の移動範囲に取り込まれていく。
ただし上越新幹線が主役となったわけではなく、隣を走る高速道路がメインルートとして主流になっている。多くの人々は多少時間がかかっても費用が少ないマイカー移動を選ぶことが多い。
E2系J66編成 200系色を纏う 落葉が進む越後平野を走る。
200系色は落ち着いた配色で越後平野の風景に溶け込んでいた。本年は上越新幹線開業40年の節目。
1985年3月31日限りで廃止され、同年に国道289号バイパスに生まれ変わった弥彦線越後長沢駅跡。左奥のホームセンターの手前の道路が国道289号。その手前に越後長沢駅があった。
ホームセンターの隣には大手スーパーもあり買い物客でにぎわっていた。右手の建物は越後長沢駅があったころから存在している商店。信号の道路はかつての国道289号線で弥彦線に沿う形で三条市内まで通じていた。
廃止直後の弥彦線越後長沢駅に発着する列車は朝2本、夕方から夜間3本で、土曜日のみ弥彦線吉田方面からの間合い運用で1往復乗り入れていた。この列車が越後長沢駅方面列車で最長の5両編成で帰宅する高校生で賑わっていた。
越後交通長沢駅バス待合所 かつての駅後長沢駅の跡地に設置された。現在東三条駅から八木鼻温泉まで直通するバスが主流で日中この場所でバスを見かけることはない。
バス停の左手に国道289号がありさらに左にスーパーとホームセンターの駐車場が広がる。
この界隈では鉄道が廃止されたことで利便性がよくなった成功例と言える。越後長沢駅があったころは水田が広がるだけで北海道の原野のような風景が展開していた 。
五十嵐川対岸から越後長沢駅方向。鄙びた集落が広がるが実際は役場や信用金庫など金融機関、商店や、給油所がある下田村の拠点であった。今もその時代と大きく変わっていない。
五十嵐川の橋を降りると水田地帯。奥には休火山の守門岳。この日は噴火跡が見えた。火山活動は有史以前だったと思われ、地域史には記述はない。もしかしたらマグマが枯れたのかもしれない。
粟ヶ岳と低山 広がる集落 冬枯れの山。
国道290号の橋 右手を進むと丘陵地帯に入り加茂市に至る。
清流大橋 かつての弥彦線の橋梁跡に建設された。後ろを振り向くとイチョウの木があり紅葉真っ盛り。
14時30分過ぎ 西に傾いた太陽を側面に受けて
くは481リゾートやまどりは181系のサロ181‐1100型として1978年に特急「とき」の181系編成に入って1982年11月15日上越新幹線開業前日まで走り、ダイヤ改正後は本来の目的である485系のサロ481-1500 型として青森に配置「はつかり」などで走った。以降1989年には先頭車に改造されクハ481‐1100型となって特急「ひたち」で常磐線を走り、「ひたち」の運用がE653系に置き換わって運用が終わった後は高崎のお座敷電車の先頭車に改造、さらに現在の「リゾートやまどり」先頭車として運転されている。
新津駅の構内ではE001「トランスイート四季島」を出迎える人、最後の出発となる485系「リゾートやまどり 」を見送る人が交錯し祭りのようになっている状況が遠望できた。
駅構内は雑草だらけでまるで草原のようになっている。先日見た沼垂駅の構内と同様であり、こちらは現役の旅客駅であるため、草刈りなどをしてきれいにされることが望ましい。
小春日和の土曜日の夕暮れ。陽が落ちかけたころ貨物列車が2本通過する。下り3097レは落日を背に。上り3098レは落日に向かって走る。
貨物列車が通過して間もなく日は落ちて夜がやってくる。
入れ換えのための引き上げ線で待機するGV-E400を右手にゆったりと走る485系「リゾートやまどり」 モーターの唸る音もあまり聞こえず静かに視界から消えていった。
この485系「リゾートやまどり」の先頭車2両は1978年に造られた181系サロ1811100番代が前身だった。181系特急「とき」に組み込まれ1982年11月15日の上越新幹線開業後は青森に転じてサロ481-1500番代となって東北北部特急「はつかり」などで走った後国鉄分割民営化を迎え勝田電車区の特急「ひたち」用クハ481-1100番代となった。以降特急「ひたち」の運用終了後車体を一新してお座敷列車として高崎に配置、その後現在の「リゾートやまどり」に再編されたのであった。
特急「とき」の181系オリジナル車両とおなじく波乱に満ちた生涯となった。181系特急「とき」が消えて40年が経過した年に引退することに因縁を感じる。
週末の機関車差し替え。DD200は現在愛知機関区に集中配置である。東新潟から高崎を経由して差し替えがなされる。DE10に比べて華奢な印象だったDD200も見慣れると力強さを感じるようになった。
青空と高温が支配する初冬の週末。樹々の色づきは里にも下りてまもなく木枯らしが吹いて散っていく。 この日の気温は23℃であり、青空のもと紅葉目当てに散策する人も多かったようだ。この天気は荒れた天気の前触れであり周明け以降は気温が下がり雨の日が多くなる。
1984年11月に無料休憩所として設置された国鉄旧型客車スハフ42、スハ43、オハ47
シーズンオフは閉鎖されて眠っているが積雪が増えスキー場が開設されると多くのスキーヤーで賑わうことだろう。
農産品が多数入ったコンテナが満載な札幌貨物~福岡貨物ターミナル間列車。1988年9月臨時列車として登場し35年になる。1990年定期化され国内最長の貨物列車となっている。
陽が西に傾いた16時過ぎ通過。時雨空を背にわずかに残ったコスモスの見送りを受けて走り去っていった。
*北海道新幹線延伸に関連して、北海道~本州の貨物列車に不穏な話題がある・・・・
時折小雨が舞う天候。わずかな客を乗せて走る短距離特急。
まだ気温は高めだが立冬とともに気温が下がり雨の日が多くなる。水田が枯れた色に変わるまもなく雪の季節が忍び寄る。
弥彦公園の入り口 桜の紅葉