日没も遅くなって安定的に午後の貨物を眺めることができるようになった。
雪原を走るEF510貨物列車。気温が高いため雪が舞い上がらない・・・・
ことし(2025年)の雪の量も新潟県下越の平地では平年より少ないように感じる。
しかし時折重い雪が降って除雪に苦労させられる。2月は後半に暖かくなるという予報であるがその前に立春寒波が来るという。
日没も遅くなって安定的に午後の貨物を眺めることができるようになった。
雪原を走るEF510貨物列車。気温が高いため雪が舞い上がらない・・・・
ことし(2025年)の雪の量も新潟県下越の平地では平年より少ないように感じる。
しかし時折重い雪が降って除雪に苦労させられる。2月は後半に暖かくなるという予報であるがその前に立春寒波が来るという。
E231系は近郊型と通勤型を統合した一般型となった。一部にボックス席や二階建てグリーン車が連結されて近郊型仕様をアピールしている。 これらは新津で造られたものである。
用事を済ませ帰りの新幹線に乗るまでの間、日本海側では見られない(新製出場などを除く)長大編成の近郊列車をしばらくの間眺める。
都会を行きかう列車を眺め日没前の新幹線で帰路に就いた。
新秋津へ行くために乗り換えた電車。現在武蔵野線には209系500番台とE231系が用いられている。いずれもほかの線区からの転入であり、かつては205系や103系の時代もあった。
209系500番台はE231系への移行期の車両で車体が広くなっている。違いは機器の違いであり容易に見分けられない。E231系はそれまでの通勤型と近郊型を統合して一般型としたものでこれも前面スタイルにバラエティがある。
209系500番台とE231系は車体が同様で見分けにくい形式となっている。
下り秋田新幹線 「こまち」
1985年に通勤新線として開業した「埼京線」今年で開業40年を迎える。大宮~赤羽間は東北新幹線に並行して走る。東北新幹線の上野駅開業から本年で40年である。
車両は当初103系、205系と使われいまはE233系が走る。
行先は新宿 この車両は車籍はない。
掘割の中の不思議な小鉄道を横目に武蔵野線が行く。ここは新秋津駅から西に1キロいった場所。
この列車はかつて115系で残った時間帯の列車で吉田で1時間程度停車して柏崎に向かう列車だった。弥彦線とは接続も悪く待たされる列車だった。 利用は内野付近で空席が目立ちそのまま吉田へ向かう。
巻付近では雪山は遠くなりすぎてしまった。単調な冬枯れの風景を列車が行き来するだけである。午前中郷土資料を読みながら私鉄だった時代を思い起こしていた。
古い払い下げのタンクSLが二軸客車を牽引して走る時代。じつはそのころがスピリットに満ちた時代だった。大正時代沿線では大河津分水の工事が行われ、西山付近では油田が全盛期を迎えていた。弥彦へ線路が伸びると行楽客が集中して吉田は弥彦へ、巻は岩室温泉への連絡駅としてにぎわいを見せていた。
いまは油田もなくなり、並行道路が整備され、商業地も移転マイカー時代となり鉄道沿いの旧市街や町内の凋落が進んでしまった。それでも越後線は新潟と吉田の区間は電化後は列車本数の多い区間となっている。編成は短いものの信越本線と変わらない本数の列車が走っている。
昨年の春復活した「上沼垂色」ようやく抑えられた。かつて平成の時代に特急「白鳥」「雷鳥」「北越」などで活躍した485系に用いられていた色である。復活したE653系の編成は短いが雪の中を走破する光景は往時を思い出させる。できれば乗客がもう少し多ければいいが・・・・マイカー移動に押されて振るわない特急である。
気温は‐2℃くらい。しかし雪が固まっていて雪煙は舞わなかった。そのかわりパンタグラフから火花が散る光景が・・・・
EF510-506 3093レ 機関車次位に大型コンテナ。
このの午前は西蒲区の図書館で郷土資料の閲覧。午後は買い物にいくついでに14時台ゴールデンタイムを。他特急「しらゆき」は上沼垂色H02編成だった。
久しぶりに長々と郷土資料に付き合ったので目がしょぼしょぼである。
吉田町史資料編4 近代1 P194から
列車の運行は白山~吉田間 もしくは白山~地蔵堂間に1日往復4回混合列車とし、
機関車3両、客車12両、有害貨車12両、無蓋貨車12両をもってこれを充て、
常時客車列車の編成は三等車3両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じて、
増減せり。
柏崎~石地間列車の運行は開業当初1日往復5回の混合列車とし、乗客そのほか、諸種の状況
に鑑み1日往復4回として、機関車2両、客車8両、有蓋貨車8両、無蓋貨車8両をもって、こ
れに充て、平時列車の編成は三等車2両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じ増減せり。
当時の越後線、弥彦線の前身「越後鉄道」の 列車の概況を吉田町史の資料編から確認した。
編成のうち高等車とは二等車のことのようで、列車そのものも小型タンク機関車と小型の客車の編成だった。いまは貨物列車は運転されていないがこの時代は道路輸送は未発達であり、鉄道がすべてを担っていた。
越後線はのちにタンク機関車をテンダー機関車に更新し、タンク機関車は弥彦線で用いられることになった。
連日の雪がおさまってこの日は晴れ間がのぞいた。低山の奥には飯豊連峰の雪山が望めた。
寒い日ではあるが気温は高めで粉雪が舞う光景はまだ見られない。積雪も30センチ程度と少ない。雪が多く寒いという予報も訂正が入りつつある。それでも 電気、ガス、灯油は値上がりが続いて家計を圧迫している。厳しい冬であるが、朝晩の気温差は5月連休あたりまで続くので厳しい春もある・・・・
しばらくそんなことを忘れ雪の飯豊連峰を愛でる。
午前は荒れた天気だったが午後は回復した。冬の日を受けて雪原を行く貨物列車を眺めて過ごした。
復興マーク付き。恐怖の能登半島地震から1年経過。復興はなかなか進んでいないという報道がなされている。
遠く離れた新潟市西区も甚大な被害があったがまだ傾いた家が多数見受けられる。
さて、貨物列車も青森での豪雪でなかなかダイヤ通りにならなかったり当地も重たい雪でダイヤが乱れたりで貨物列車を見ることがかなり遅くなってしまったがようやく見ることがかなりうれしいところである。
連休2日目ということでコンテナは少なかったが幸先のいい始まりと考える。そして復興が進んでいくことを願い場所を後にした。
吉田の町内で所要を済ませて、図書館へ向かう途中の1カット。飯豊連峰がくっきり望めた。
先週降った雪が残っていたのでこの付近も白い世界になっていた。ただし三条市よりはかなり少ない。昨年12月は雨ばかりで師走のあわただしさと葬儀の残務整理で線路わきに立つことも少なかった・・・・
このあと越後線で弥彦山を入れて1カットを行い、吉田の図書館で各町村の資料を閲覧した。
菩提寺へ一周忌法要の予約をしに出向く際の撮影。この日の昼前に遺族が集結するので日程の連絡をしないといけない。撮影後足早に・・・・この日も雨で初日の出はない。前日はいとこに除籍謄本の写し(改製原戸籍含む)を届けて雑談ご帰宅して簡易なおせちを作って、雑煮汁(餅なし)、のっぺ、新巻きサケでかるく仏前で般若湯(酒)をいただいて、そのままばったり!日付が変わることに目が覚めたが、「喪中」のため二年参りもしなかった。朝は餅を食べ初撮りをおこなってという流れ。座敷は鏡餅もなくがらんとした状態。床の間に面子が集ったら配布するギフトを並べて置いた。お内仏は花を多めに飾り・・・・
菩提寺に着くと仮本堂の阿弥陀如来像にて参拝し、住職のいる部屋でお茶を頂いて、日程を予約する。朝9時と早い時間と思っていたらすでに先約があったようだ。
10月初旬に1周忌を、7月下旬に初盆をおこなうことにした。
帰宅してしばらくすると面子がそろったので、仏前に参拝をしてもらい、その後法要の日程を連絡し、雑談したり、記念撮影を行い散会となった。
午後からは戦前、戦後の時刻表を出して資料をまとめる作業を行い2日の午後まで行っていた。
これからは資料と向き合うことがメインとなる。資料は読み違えないよう注意する必要がある。出来上がった原稿は研究会へ出荷することとなる。この日は疲れたらリサイクル店を冷やかし、帰宅して入浴し普段通りの生活を心がけた。
3日ははねうまラインへ115系横須賀線色見聞に、4日は磐越西線と羽越本線のキハ110系の乗車を楽しんだ。115系はともかくキハ110系は身近なので押さえておく必要はあろう。他に現在は青森付近の豪雪でダイヤが乱れて運休気味のEF510も運用を抑えておく必要があろう。寒いので体は冷えまくってきつかったが楽しめた。はねうまラインは海外からのスノーリゾート人々でごった返し、信越本線柿崎~長岡間は帰省客の利用が多かった。各駅のホームでUターンする若いい人たちを恒例の親族が見送る光景がたくさん見受けられた。この区間はかつての「かがやき」「北越」時代の面影を残していた。ただし列車は2両ワンマン編成であり、利用もずいぶん減ったもんだと思ったがこんな光景が見れたことがうれしいと思う。
5日は葬儀関係の資料をファイルにまとめお内仏へ。不用品の整理をぼちぼちと行う。
6日から仕事始め・・・冬将軍到来で平野部にも雪が積もった。重くて腰に来る雪で往生した。
今後は不用品の廃棄と老朽ヶ所の整備、そこに第一優先の年忌法要の準備などが絡んでくる。 鉄活動では資料収集目的(事実関係、事実の真正重視で映える写真を撮ることは目的としない)での遠征なども考えているが実現可能性は低いかもしれない。なんでも値上がりのこの時世、不相当なことを行えないので。ガスも電気もガソリンも高くて参ってしまう。
結局ワンデーやツーデーの範囲+ということになろうか・・・・宿泊は無論不可で。
こんなことが本年の抱負であろうか。
回転式クロスシートが並ぶ車内。平日の通勤ライナー運用と週末のリゾート運用をこなす。
指定席運用に入らないときは回転クロスシートを窓側に固定してロングシートとして使う。
この列車の実体はE129系そのもので、普通列車用は0番台車である。
妙高高原についた115系臨時列車。降り立つ客はインバウンドの方々。閑散とした構内に英語が響く。USA妙高高原となったのか?
雪もたくさんありスキー場もにぎわっていたと思われる。なにより観光拠点の妙高高原駅に多数の観光客が集うのは往時をしのばせてくれる貴重な光景であろう。
上越妙高駅からの乗り継ぎの人、長野駅からの人、スキーを終えて長野駅に向かう人・・・
観光拠点の駅の活気を感じた。
妙高高原駅は駅前は土産物店が1件、他に観光案内所でも土産物は入手できる。スーパーやコンビニは駅前にはなく国道18号沿いまで500メートルくらい行く必要がある。
2025年1月4日 羽越本線 125Dになるための新潟車両センター新津派出出区のようす。
キハ40系shukuraとGV-E400が待機
ここは東西連絡橋の中で雨にぬれずに見分できる。架線もないためすっきりみることができる。新津のキハ110系も2連だけとなってしまった。3連や4連はGV-E400の運用である。
確認できた休車はキハ111‐201とキハ112‐201 ほかにもう1両あるようだ。
運用は新津から会津若松へ2往復と会津若松~野沢間、羽越本線の新津~新発田間の 区間運用のみとなっている。
JR型であるがトイレは和式、窓にカーテン、座席もシートピッチが1470ミリのキハ40系タイプ、車体表記は国鉄文字、国鉄の雰囲気を残した存在である。窓の黒い帯も急行型をおもいださせる。ちなみに只見線用に朱色5号1色のものもありキハ22のように見える。
キハ110‐202 水原行き普通 この日はこの編成が羽越本線の運用に入っていた。
キハ110系は1990年代に登場した。当地では羽越本線と磐越西線系統の運用であり、キハ40などと共存しながら運用されていた。ちなみに他線区は一気に置き換え共存にはしないことが通常だった。
キハ110系も30年以上の運用であり疲れが見えている。座席などは登場時のままであり大きな改修はされてはいない。もうこのまま引退することになるのであろう。