この狭い道はその地域に通じる道路である。北越戊辰戦争で負傷した河井継之助もこの道を通って会津へ向かっているが八十里越えを降りた会津の塩沢で亡くなっている。
八十里越えは越後と会津を結ぶ街道で磐越西線開通前までは主要な街道だった。越後から会津へ人や物資が運ばれ(越後からは塩、金物、雑貨小間物、元結、渋紙、紬や反物、基金の際の救援米が 会津からは薬用人参、麻、真綿、蚕、煙草 ぜんまい 生糸 鳥もち)越後から日光へ参拝する人や大工、木挽、杜氏、医師、宗教者、農民、会津から越後に買い付けに行く商人や荷担ぎの人、会津から越後に帰る人等)
江戸時代は葎谷(この写真の場所より三条市内寄り集落)に人や物資の監視をする口留番所が設置され、八十里越えを降りた会津にも叶津口留番所があった。
会津藩の禁制品(移出禁止)は巣鷹、駒、漆、鉛、熊の皮、紙。ほかに女性の監視はきわめて厳しいことであった。(入り鉄砲と出女 )
明治以降は会津から越後 生糸、蚕種、麻寧、ゼンマイ、亜鉛、銅、熊毛皮、ウサギ毛皮
越後から会津 海産物、魚類、砂糖、天草、塩、油、反物、雑貨など。
明治27年に新道が完成後はビール、葡萄酒、牛缶、鮭缶、亀の子たわし、鉛筆。これらは高貴平銅山、飯井沢銅山の関係者用だった。
人の往来も会津からは新潟の大学病院、三条や栃尾の眼科、歯科医、弥彦参り、岩室温泉、新潟への遠足
越後からは商人、労働者(鉱山関係)など
1901年(明治34年)ひと月の通行者は18,500人だった。
以降磐越西線が全通するとそちらに流れが移行し八十里越えは衰退していった。
現在は国道289号線が工事を行っていて難所八十里越えも2026年には開通する見込みである。ただし𠮷ケ平は経由しない。
鉄道では越後鉄道が越後長沢から只見まで八十里越え経由で結ぶ構想を持っていたが実現することはなかった。