飯山線は十日町~森宮野原間は一日7往復の閑散区間となる。通学時間帯が終ると2両編成が主流になった。キハ20とキハ55の2連が長野まで走る。キハ20は1980年の配置表で確認すると、332、472、475、509~512、651が記載されている。1983年版ではキハ40の554~558と593、594ならびにキハ48559、1560が配置されキハ20は651だけになった。1981年版の配置表は所有していないので推定であるがすでにキハ40をこの日十日町構内で見ていたので1980年の秋ごろキハ40が入り始めていた可能性がある。キハ20332は1982年4月1日廃車となっているので472または475の可能性がある。500番代は愛称標差しと号車標差しがついているが画像の車両には見当たらないので該当しないと考えられる。
2023年3月31日金曜日
飯山線十日町郊外を走るキハ20とキハ55
2023年3月30日木曜日
十日町駅構内1982年
1982年6月 飯山線十日町 側道から構内を見る。
キハ55とキハ40の2連 キハ58などの編成、ワム7000などの貨車があちこち。十日町の構内は日本国内のローカル線の拠点駅を凝縮したような印象だった。腕木信号機が色灯式信号機に変わったが他は1979年に訪れた時と変わらず。このころまだほくほく線はなく(というよりも未成線として造られないであろうと思った)ひろびろとした構内は北海道のローカル線の駅の様だった。
列車の発着は少ないが次々車両の入れ替えが行われ見ていて飽きなかった。
キハ55は初期車が廃車になり代わってキハ58の非冷房車に置き換わった。またキハ20やキハ25もキハ40に置き換わりつつあった。
2023年3月29日水曜日
キハユニ26 9~十日町駅
1982年6月 キハユニ269 1959年10月20日東急 七尾に新製配置 1985年2月28日廃車
朝の通勤時間帯のため2連運用だったものをつないで4連にしたためキハユニ26は編成の中ほどに挟まれてしまった。飯山線のような本数の多くない路線でも朝方は混雑していたのであろう。キハユニ26は地方路線での荷物郵便輸送に多くもちいられ郡山(只見線など)、富山(大糸線など)にも配置がなされていた。長野ではほかに全室荷物車キニ56も配置されていた。
2023年3月28日火曜日
キハ55204~40年前の十日町
1960年8月15日富士重工で落成し高松に配置。晩年は長野に転入し飯山線で運用。廃車は1983年1月26日。一灯式シールドビームとバンパーが特徴。
当時は全く意識をしていなかったが長野のキハ55も一癖ある車両が多いようだった。初期車や変形塗装は姿を消したがこの時点でもバンパー付きがいたとは・・・
入れ替え作業で4連となりキハ55204のうしろはキハユニ26、キハ55191、キハ58となって通勤輸送を支えていたのであろう。日中閑散時間帯は2連が中心だったようだ。これらキハ55系も 1985年3月までには静かに引退している。キハ55を撮りに大勢集まったということもなかった。
1982年の十日町駅はほくほく線もまだなく効果ができるであろう場所はヤードが広がっていてワム70000らしき貨車が見えた。車庫にはDD16がいて出番を待っていた。
構内の腕木信号機はすでに消滅していたがローカル線の拠点の風情はまだ健在だった。
2023年3月27日月曜日
キハ55191~十日町
1960年3月30日新潟鐵工所にて落成し小郡に配置され、晩年は長野に配置され飯山線で運用。廃車は1984年2月8日。
1979年以来3年ぶりに十日町を訪ねた。キハ55は健在だったが初期車は廃車になり見かけなかった。
2023年3月26日日曜日
キハ55系南海電鉄~紀勢本線急行きのくに
1984年1月 紀勢本線 南海電鉄キハ5500型を連結した急行編成。この場所は新宮駅付近の海側から光が回る場所で寝台特急「紀伊」の回送を待っているときに遭遇したもの。新宮行きの普通列車でおそらく新宮12時発天王寺・難波(南海電鉄)行きの「きのくに」7号に充当される編成と思われる。
南海電鉄のキハ55は1960年から紀勢本線乗り入れように製造され1985年3月のダイヤ改正まで難波~新宮間で運用されていた。
2023年3月25日土曜日
キハ58441~北陸本線普通列車
キハ58441 1963年8月21日 日車 新潟に新製配置され、金沢、七尾、山形と移動し1983年1月12日富山第一機関区転入。国鉄からJR西日本に引き継がれて1993年12月10日に廃車となっている。冷房は取り付けられなかった。
これら気動車列車は直江津~糸魚川間などの短区間運用で見かけることが多かった。輸送量から考えると相当な編成であった。現在えちごトキめき鉄道ひすいラインとなったこの区間はほとんどが気動車の単行運転になってこの頃よりも輸送量は大幅に減った。沿線の人口減少と北陸新幹線開業で並行在来線となり、国道8号の整備、北陸自動車道の全通などで大幅にマイカーへの転移が進んだためやむを得ないことなのかもしれない。
2023年3月24日金曜日
北陸本線気動車列車キハ55254
1984年2月 キハ55254 有間川駅 428D
北陸本線普通列車の主力は客車列車であったが、気動車列車も数本あった。気動車は富山第一機関区(金トヤ一)所属のキハ52、キハ55、キハ58など。高山本線の車両と共通運用されていたかもしれない。
キハ52254は1961年2月7日新潟鐵工所落成、当初和歌山機関区配置だった。1984年4月28日に廃車となるので残された日はわずかだったがこのころはそんなことを知る由もなかった。
気動車2連が実際の北陸本線末端区間の輸送量に合致していたと考える。富山から直江津までは人口が少なく農村や漁村が中心。県境を越え人口が比較的多いのは糸魚川だけだった。この列車も直江津で乗った客は各駅で降車し、糸魚川手前で乗車が増え糸魚川を出ると降車が続くという流れが中心だったようだ。
2023年3月23日木曜日
EF81141~東新潟機関区時代
EF8198〔酒田〕が引いてきた237レの編成はEF81141〔東新〕が牽引する折り返し236レとなる。
EF81141は1979年日立水戸で落成し東新潟機関区に配置、1985年3月14日ダイヤ改正で長岡運転所に移動した。現在は配給輸送用として長岡車両センター(現訓練センター)に配置されている。
いまはえちごトキめき鉄道ひすいラインとなりET122形式がわずか1両で走るだけとなっているがこの1984年2月の時点では北陸自動車道が開通しておらず、国道8号だけ。北陸新幹線はまだ話題にすらなっていなかった。北陸本線で移動の流れも現在より多かったがそれでも客車5両は過剰編成であったようだ。
2023年3月22日水曜日
オハフ332349
1984年2月 オハフ33349として1947年11月新潟鐵工で落成 台車TR34 台枠UF116
電気暖房改造は1963年3月30日新津工場で行われ オハフ332349となった。近代化工事は長野で1965年8月25日、体質改善工事は1972年5月21日長野工場で施行。落成時は直江津配置で長岡、酒田、新津と移動し1980年12月8日直江津転入となっている。最終全般検査は1983年9月29日だった。
この撮影位置で車体番号がわからなかったが全般検査標記でオハフ332349と判明した。列車横に売店が見えるが現在直江津駅売店はすべてなくなっている。
2023年3月21日火曜日
オハフ332350 直江津駅
オハフ332350は1947年11月新潟鐵工で製造 電気暖房改造1963年5月10日で長野工場で施行。
直江津に新製配置され長岡、新潟、新津と移動し1980年10月20日直江津に転入。
原型の扉が特徴。台車はTR34 体質改善工事を1973年6月20新津車両管理所で行っている。
有間川でEF8198の牽引する237レに乗車し直江津に向かった。そこで客車などを見聞し、折り返す様子も眺めていた。
2023年3月20日月曜日
2023年3月19日日曜日
オハ472172 雪深い直江津駅で
オハ472172は1966年3月15日にスハ43350を土崎工場で台車をTR47からTR23に交換して誕生した。当時は新潟に所属していた。1966年7月10日電気暖房を新津で取り付けて2172となった。廃車は1987年3月31日。アルミサッシの客室窓とプレスドアの組み合わせ。手元の履歴票を控えたノートによるとオハ47になる際に近代化工事をしているが大方の客車はHゴムの扉になっているので意外な感じがする。車体は青であった。
2023年3月18日土曜日
オハ472102~直江津駅1984年2月
スハ43 34を1963年8月26日に土崎工場で台車振替で誕生。1966年11月24日新津で電気暖房改造され2102の番号となる。廃車は1987年3月31日。
北陸本線の普通列車が最後の活躍の舞台であった。豪雪の日も猛暑の日も日本海を眺め北陸本線を走り続けた。
2023年3月17日金曜日
踊り子と白鳥
1987年2月 信越本線 長岡操車場
石打へ回送途中の185系〔田町電車区〕と青森行きの特急「白鳥」との一瞬のすれ違い。
185系は寒冷地仕様の200番代で新前橋電車区で関東周辺の列車で運用されたが1985年3月改正で田町電車区の183系が中央本線に転属したため一部が新前橋電車区から田町電車区に移動したものである。雪景色の「踊り子」も新鮮な光景であった。この185系はシュプール上越(石打~横浜)に用いられた。シュプール号は国鉄末期のヒット商品でありJRにも引き継がれ冬の風物詩となっていたが新幹線の増強や高速道路へのスキー利用者の転移、さらに景気低迷などスキーの需要も減少し2000年代には運転されなくなった。
2023年3月16日木曜日
オハ472029 現役時代
木製の扉にアルミサッシの客室窓。車体は青塗装で近代化改装され、どこかちぐはぐな車両だった。車歴は3月13日のものを参照のこと。
1984年は昭和59年豪雪と言われ海岸部の直江津でもこれだけの雪があった。最後の冬を懸命にこのオハ472029は走っていた。
2023年3月14日火曜日
オハ472022~輸送力増強時代の立役者
1961年9月6日 国鉄高砂工場にてスハ4338の台車をTR47からTR23に振り替えて登場した。この時にオハ4722となり、1969年9月13日高砂工場において電気暖房を設置オハ472022となった。廃車は1986年3月31日。
1960年代はまだ鉄道での旅客輸送が活発であり輸送力増強が求められていた。すこしでも連結両数を稼ぎたい時代。TR47をTR23に替えることで2トン軽くなった。
最後は山陰本線で余生を送っていたが電気暖房を取り付けた真意は?おそらく北陸線方面への運用がありそれに対応したものだったのかもしれない。改造当時は向日町に所属しのちに福知山に移動している。
向日町にいたころ大勢の乗客でデッキまであふれた自由席の編成に組み入れられ走った時代。ある日は山陽本線、ある日は北陸方面軽量化と電気暖房を備えた本形式の本領を発揮した時代。それは1960年代だった。
2023年3月13日月曜日
越後中里の客車の車歴
越後中里の客車に直江津客貨車区に在籍したものがあることを知り見聞したが、資料が出てきたのでまとめてみた。オハ472027と2029で現在は番号も消され、屋根のベンチレータも撤去され車体も塗装が何回も繰り返され現役の頃とは異なりつつある。撮影は2022年9月10日である。
元直江津客貨車区のオハ47は2両とも窓枠がアルミサッシになっていたが現在では再
塗装され痕跡がわかりづらくなっている。(オハ47はスハ43の使用していたTR47台
車をオハネ17寝台車に出して代わりにオハネ17に改造する種車主に二重屋根スハ32
系のTR23Fに変更し軽量化を図ったもので、台車を替えることで2~3t軽くなった)
車歴オハ472027 (スハ4353 1951年日車)1962年1月18日(台車をTR47から
TR23Fに交換施工土崎工場オハ4727となる)1962年1月19日電暖オハ472027とな
る。最終配置直江津客貨車区1984年9月28日用途廃止
特長は窓枠がアルミサッシ、横軽対応扉は木枠
車歴オハ472029 (スハ43113 1952川崎車輛)1962年2月25日(台車をTR47から
TR23に交換施工盛岡工場オハ4729となる)1961年9月8日電暖オハ472029となる
盛岡工場最終配置直江津客貨車区1984年9月28日用途廃止
特長は窓枠がアルミサッシ、横軽対応、扉はプレスドアとHゴム大型
越後中里搬入は1984年11月(1982年9月12日新津車菅で整備) 参考文献鉄道ピクトリアル 特集スハ43系 2002年6月号
現状は残念ながら利用客減少でこちらの車両は使われていない。通常は1~
10号車のいずれかが使われこの車両は12~17号のため使われなくなった。スキー
シーズン以外は立ち入り禁止。見回りが頻繁に行われる。
2023年3月12日日曜日
蒸気機関車の記憶
昨日新潟市に出かけた帰路新津鉄道資料館に立ち寄ったら企画展示があり、1970年の新津駅が紹介されてた。当然蒸気機関車が羽越本線、磐越西線に残って輸送についていた。その傍らを信越本線の電車たちが通り過ぎていく・・・新津から蒸気機関車が消えたのは1972年10月のダイヤ改正である。
巨大な新津機関区でたたずむ蒸気機関車、扇形庫と転車台、入れ替え風景・・・消えゆく前の最後の輝きがモニタに映し出されていた。
2023年3月11日土曜日
厳しい春!
2023年3月5日 EF510-20 4061レ
放射冷却で気温は-2℃。水田は氷が張っていた。予報では 気温が上がることだったが、10℃台だった。3月から4月は朝は氷点下日中は15度を超える気温になることも珍しいことではない。気温が安定するのは4月後半あたりからだろう・・・・
寒い朝EF510-20牽引4061レがゆっくりと走り去っていった。
2023年3月10日金曜日
残雪粟ヶ岳~弥彦線
背後に雪を頂いた粟ヶ岳 標高1293M 新潟県加茂市と三条市にまたがる。
弥彦線は弥彦山のイメージでとらえられることが多いが実際は粟ヶ岳、守門岳、 飯豊連峰も車窓から望むことができる。ただ街中を走るローカル線のため表現しずらいだけである。
2023年3月9日木曜日
銀ガマEF510‐510
かつては栄光の時代もあったこの銀ガマもすっかり縦貫線に溶け込んでいる。車体の汚れは縦貫線での激闘の証拠。牽引している貨物も遠く九州福岡からのもの。長い旅路ももう少し。
昨日ひすいラインに赤いEF510と茶色の旧型客車が走ったが紹介サイトでは鮮やかな光景だったようだ。JR貨物の機関車と旧型客車の組み合わせもそうあるわけではないだろう。
2023年3月8日水曜日
快晴の空間
2023年3月5日 EF510-12 4060レ
雲が全くない空を背に赤い機関車に牽引された貨物列車が走る。早春の水田地帯はまだ人けもなく切株だけが残されていた。あと少しすると農事暦が動き出すのであろうか?
2023年3月7日火曜日
快晴弥彦線
中ノ口川を渡る弥彦線普通列車。背後にはステンレス工場がある。その後ろには飯豊連峰が。残雪の山塊を愛でつつ列車は走り去っていった。燕市の中心で付近には商店街もあるが人の流れは燕三条駅付近の大規模商業施設に移って久しく人通りは少ない。
昼下がりの静寂が広がる中、昨年不意に去っていったE127系を思い起こしながら主力E129系を見送った。
2023年3月6日月曜日
2023年3月5日日曜日
信越本線長岡~新津間の輸送密度
利用は振るわない。
E129系6連 442M 長岡行き上り普通
信越本線長岡~新津間輸送密度は2020年度で8362、前年の2019年度は11,012だった。
この区間は新潟市への結びつきが強く朝7時台は新潟方面4本となっている。通勤通学時間帯が終わると時間1~2本の本数の近郊路線ダイヤ。ある程度は使いやすい本数である。
同じような地方幹線としては山陽本線下関~新山口、糸崎~白市の付近と同等で現在デイタイムは時間1本となっている。輸送密度も7000人台。
拠点都市と拠点都市の隙間であってもある程度の人口の中小の町があれば利用は望めるということだった。すくなくとも当地の信越本線長岡~新津間は当面廃止の心配をする必要なしということだ。
普通列車6連、短編成ながら特急、長距離を走る貨物列車、首都圏からの入込で「四季島」、新津から各地への新車配給などまだまだ重要路線である。
土曜日午後のたのしみ
2023年3月4日 配8788レ EH200‐13とDD200-18
仕事から帰り、昼食を済ませ買い物に行く途中。ほかに下り「しらゆき」5号、EF510-503の3093レ、E129系6連442Mを眺める。土曜午後のゴールデンタイム。
2023年3月4日土曜日
2023年3月3日金曜日
春の淡雪
2023年2月26日 しらゆき4号 晴れ間が終わって雪が強くなってきた。再び白い世界が出現したがそれはひと時のことであり、雲が切れて日が差し、また雲に覆われて降ってくるの繰り返しだけであった。
この日の午後所属する客車研究会の会合にオンライン参加。
研究発表は戦前の2等3等合造車の北海道名寄本線での運用のことであった。現在は廃線となって現存しないがこの時代は貨物旅客とも需要があった時代。
戦前の時刻表や運用標などが多数資料として登場し発表者が説明を行いほかのメンバーのフォローが入るという方式で会合は進んでいた。
そのあと北海道新幹線開業で廃止となる函館本線長万部~小樽間の乗車記の解説もあった。かつては本州と札幌を結ぶ大動脈だったこの区間も旅客は航空機に奪われ貨物は平坦な室蘭線に移り国鉄時代の終わりには短編成の普通列車が走るだけの路線だった。
北海道は今も遠い土地で行くこともないが現状を聞くことができありがたいことであった。
2023年3月2日木曜日
2023年3月1日水曜日
昨年の今頃
昨年の2月終わりはまだ雪がたくさんあった。家の屋根にもたくさん積雪があり水田も白一色。この画像も雪の山の上から撮影した。
この後雪解けが急速に進んで春を迎えた。