1985年2月 北陸本線東滑川
スハフ422029 履歴票 1951年5月 川崎
改造歴
電気暖房改造 1964年8月4日 土崎工場
近代化改造 1964年10月2日土崎工場
体質改善工事 1974年9月9日
新製配置新潟1951年5月30日 最終配置直江津1980年10月22日
全検1983年6月16日長野工場
1985年2月 北陸本線東滑川
スハフ422029 履歴票 1951年5月 川崎
改造歴
電気暖房改造 1964年8月4日 土崎工場
近代化改造 1964年10月2日土崎工場
体質改善工事 1974年9月9日
新製配置新潟1951年5月30日 最終配置直江津1980年10月22日
全検1983年6月16日長野工場
1961年9月9日に土崎工場でスハ4338のTR47台車をTR23に交換して落成。1969年9月13日に電気暖房改造されオハ472022となる。電気暖房改造されているためいっとき山陰本線以外で運用されたこともあるのかもしれない。車体は青、アルミサッシ改造されている。廃車は1986年3月31日。
客車の近代化改造は軽量客車ナハ10の登場以降、旧態依然とした印象となったそれ以前の客車の室内を改造したもので白熱灯を蛍光灯、ニス塗りの車内を化粧板で明るくし、窓はアルミにした。後に扇風機も取り付けられて急行列車用として新型車に比べてもそん色ないものとなった。1963年度から1971年度の長期にわたって行われている。
ただし43系は1963年度改造車は、窓枠や扉は在来のものを再利用したものもあり、車体色もブドウ色1号だったとされる。(軽量客車10系も当初ブドウ色だった)
車体外観が大きく変わるのは1964年「車体標記方式規定」改正総裁達512号で接客設備が改良された客車は青15号に塗り替える。
座席車ではナハ11、オハ36、スハ40、スハ44、スハフ43、ナハフ11 近代化改造が済んだ、ナハ10、ナハフ10、オハ35、オハフ33、スハ42、スハフ42、スハ43、スハ45、オハ46、オハ47、スハフ44、オハフ45があった。
体質改善工事とは1970年に新しい検査方式を導入し、新型車両導入で部品の信頼性が部品の信頼性が向上したことから車両の検査周期を延長して保守の合理化を図る狙いで機関車から貨車まですべての車両で検査方式の見直しが行われた。旧型客車については必要な改良を加えることで検査の回帰延長を可能にする工事であった。
12系と20系はそのままの検査回帰、スニ40と41は若干の改造で旧型客車はこの改造が終わったものが新回帰となる。鋼体化客車とスハ32系は行われず、旧回帰のまま廃車としていくこととなった。
座席車では近代化改造済みが体質改善B、近代化工事されていないものが体質改善Cとされた。
近代化改造が接客設備改善が目的、 体質改善工事は合理化が目的だった。このあたり時代背景が大きく異なる。前者は拡大期、後者は縮小期という違いである。
現在この区間はあいの風とやま鉄道の路線で521系の電車で運転されている。長くても4連くらいと思われるので当時でも破格の長大編成であった。
客車は全て青い車体のものが運用され緩急車はオハフ33またはスハフ42、中間車はオハ46、オハ47、スハ42、スハ40といった内容。この列車にはスハ402102が入っていた。
EF70はこのころ3両だけの稼働とされていて13、18、1004が通常動いていた。ただしEF81の運用に入っているものもありあと数両動いていたようだった。この列車はEF81運用にEF70が入っていた。
いずれも廃止まで一か月を切っていて最後の早春を駆け抜けていた。
1985年2月24日 北陸本線東滑川 230レ スハ402102 新ナオ
この写真は再掲載している。
運用終了まで一か月を切っていた北陸本線客車列車。 最後1両残ったスハ40をとらえることができた。かつていた残り2両の方は1982年11月ダイヤ改正で長野工場で鉄塊に帰り、スハ402102だけが残存していた。
この客車の履歴票を調べたことがあり記録をここに記す。
1950年10月18日 日本車輛 スハ42 102として登場。1960年3月31日 土崎工場 で軽量化改造がされオハ36102となる。スハ42はオハ35のTR40台車を用いて重くなったもので車内もオハ35と同じ、オハ36に改造する際に内部は軽量化された。扉もナハ10系と同じものとなっている。座席は43系と同じとなり快適になったと言われている。
1938年5月30日に長野工場で電気暖房改造がされ重量増加でスハ402102となった。
1950年に落成した際には宮原に配置、1952年に品川、1953年に新潟 以降新潟管内を渡り歩き1980年10月22日に酒田から直江津に転属している。
碓氷峠の通過可能工事は1964年9月30日に長野工場で、体質改善工事は1977年7月25日 酒田配置時代に土崎工場で施行されている。トイレの締め切りは1983年7月31日に行われた。
客車履歴票の書き写しは苦しいが(ただ手を動かすだけのため)記載が完了した際は発見が多くあり感動ものだった。
ただ、窓の向こうを変わった列車が通り過ぎて行ってもただ眺めて過ごすだけであったが。
この履歴票調査の「所作」については鉄道ピクトリアル2002年7月 №719特集スハ43系ⅡP28「客車履歴票」との関わりあい雑感 勝村彰氏 で詳しく語られている。ご関心ある方は一読をください。
この勝村氏の文章中に「窓の外を行き来する客車にカメラを向けることなく、履歴票の書き写しをするのは根気を要するものだった」という記述がある。撮影活動と調査活動の分水嶺を垣間見ることができる。いま客車研究会へ文章を一篇を書き上げ送っており数日前にゲラが送られてきた、この研究会はプロ級の方の集まりであり当方の駄文が掲載されることは非常に心苦しいがどのようになっているか不安と楽しみが交錯するところである。
昨日の写真を編集して客車を目立たたせてみた。形式は左側オハフ33、茶色はオハ35、右手の切れているものはスハ40のようだ。
スハ40はオハ35のアップグレード版と考えられる。1948年から製造開始。車内の構造はオハ35と同様だが台車が重いTR40に代わったためスハ42という形式があてがわれた。緩急車はスハフ41という同様の構造の車両だったが、一等寝台車へ台車を交換して重量が軽くなりオハフ33となって形式消滅した。
スハ42は1960年前後に車体を軽量化してオハ36と改められるが電気暖房化することで重くなりスハ40となった。このためオハ36には電気暖房の2000番台は存在しなかったが標記の記載ミスでオハ362000の番号を持ったものが一時あったという。
スハ40の外観は扉が軽量客車10系のものと同じ「日の字」窓、窓がサッシ、台車TR40で区別がついた。
急行「妙高」9号と10号の石打疎開と廃車回送は2編成あり、この回送はスハ40の組まれた位置でオハフ332329、オハ352601、スハ402105、オハ352046、オハフ332530だった。石打への疎開は11月13日。この日の急行「妙高」はオハ35系ばかりでほとんど普通列車レベルの急行だった。
もう1編成はオハフ332438、オハ532793、オハ472238、スハ402084、オハフ332034で11月14日に石打に疎開がされている。
直江津にはスハ40がもう1両あり、スハ402102が北陸本線旧型客車普通列車の電車置き換えまで走り続けることになる。
雑然とした見映えのしない写真であるが事実関係を深く追求すると意外なことが見えてくることを感じた。
何も考えずにここでやってくる列車を待っているとEF81牽引の旧型客車が通過していった。
すでに10時近く。まだ12月にならないのに屋根には雪がたくさん積もっていた。
すでに定期客車列車はなくこのような列車が走っていることが不思議であった。
細かく見ていると客車の号車標差しにサボが差し込まれていて、急行列車などに使われていた形跡がある。
古い鉄道雑誌を調べていくと1982年11月13日に定期列車の急行列車「妙高」10号で上野に到着した列車が当日中に石打駅へ疎開し、その後長野工場へ送る措置がとられているが、その長野工場への廃車回送だったようだった。
2024年2月11日 直江津駅
先週末はねうまラインにET127系の夜行列車が運転されたという。この件についてはえちごトキめき鉄道のサイトを見ていただくとして、国鉄時代に旧盆期間や、年末年始の臨時夜行急行でロングシート車両が使われたものがあったらしい。
予備車をかき集めて臨時列車を出していた昭和の頃。12系などが増備される前通勤仕様のものが一部連結され使われていたようだった。
参考までに1980年版国鉄車両配置表の客車配置表P113秋田運転区にオハ41(通勤型客車)が3両 2002、2053、2101 があり普段は奥羽本線、男鹿線で運用されていたが年末年始など臨時列車が多数運転の際は使用された可能性を否定できない。あくまで憶測であるが。12系がこの頃あったので1980年代では旧型客車の臨時急行は運転されることはなかったのでそれ以前の時代にさかのぼらなければならないが。(手っ取り早く客車研究会の先輩メンバーに質問するのが早いかもしれない)
新潟県内では夜行列車ではないが新潟を夕刻に発車していく短距離ローカル急行列車に通勤型車両が混結されていたことが時々あった。もちろん急行料金は必要だった。
ロングシートの夜行列車 想像しがたいが足を伸ばせる分ボックス席よりは楽だったかもしれない。近郊型の115系電車の上野発長岡行き夜行列車は1985年3月のダイヤ改正まで運転されていた。
転換式クロスシートの異例の2扉電車213系5000番台を愛でる旅。置き換えで数年後にはこの世からいなくなると言われている少数派の車両。まだ誰も眺めている者は私のほかにいなかった。JR東海の区間ではそれなりに記録に励む方はおられるのかもしれないが。
先達の関西急電クモハ53を思わせる2扉の車体はその後80系湘南型、153系湘南型などの優等型と近郊型ながら117系「新快速」型に進化をしていった。
213系の本来の配置先の関西本線、近郊型で3扉の211系などが相当であるところ当該形式があてがわれたのは競合する近鉄への対抗手段だったと言われている。国鉄末期に造られた岡山地区配置の213系のアップグレード版として登場したが2扉では客扱しにくく、JR東海の新鋭313系などに交代して飯田線で余生を送ることになった。
戦後関西本線自体が名古屋~伊勢、近畿への名阪ルートでは主流ではない時代が長く続き「栄光の時代」と言えるものではなかった。そこから飯田線への転用。人知れず生まれ人知れず移転して人知れず消える。213系5000番台の生涯は「栄光」とは無縁となりそうである。
残照を側面に受ける211系。中央本線普通列車は高尾まではこの形式が主流。211系は1986年から東海道本線、東北本線、高崎線で113系や115系の置き換えとして登場。現在はE231系、E233系に置き換えられ中央本線や高崎地域の北東部の区間に活躍の舞台を移している。いわゆる都落ちである。こちらはまだ後継形式への置き換えの話題はない。
列車は塩嶺トンネルを抜け塩尻へ。来るときはバタバタして何も見ることはできなかったが、1981年春に急行「ちくま」で来たときは旧駅(塩尻大門)でここでスイッチバックした。駅舎もホームもくすんだ感じで蒸気機関車がどこかにいそうな感じだった。篠ノ井線に入りリンゴ畑の中を進むころすがすがしい信州の空気を感じた。
1983年冬に塩尻に来たときはすでに現在の駅になっていた。急行「ちくま」で降り立ち、新宿行き普通列車115系横須賀色で中央東線に乗り換えた。まだ塩嶺トンネルはなく旧線経由だった。東塩尻で交換が行われた記憶がある。
塩尻で特急「しなの」に乗り換える。14分の時間内にトイレに行って、列車内で食べるものを買う。特急「しなの」車中からは暮れなずむ北アルプスの山塊が間近に望めた。手前に梓川が流れさらに手前に国道19号が走り、新旧の建物が並ぶ。国道19号と20号の分岐点は塩尻にあり左手「東京・甲府」右手「名古屋・木曽福島」の標識(当時)を見たときは旅情を感じた・・・
姨捨の手前から眼下に善光寺平の街灯りが広がる。函館の夜景には及ばないかもしれないが見事な夜景が迫ってくる。383系特急「しなの」はカーブが多い山腹に車体をくねらせ善光寺平に降りていく。鮮やかな光景が終わって篠ノ井に着き、信越本線に入って長野到着。
長野での383系 クモハ383‐13長野での乗り換え時間も短くすぐに新幹線乗場に。
w7系金沢行き「はくたか」 長野駅
わずか9分の乗り継ぎ時間で「はくたか」517号に乗り換え。ホームは混雑しておらず、その中を列車が到着。長野ではかなりの人が降りていった。
列車は18時9分定刻発車。この列車はJR西日本のW7系で「北陸浪漫」のメロディが流れ自動放送が流れた。新潟県中越に住んでいるとJR西日本のエリアは大糸線であり普段はかかわることがないエリアになっていた。もちろんJR東海も。北陸新幹線開業後は日本海縦貫線が消滅して他社とのつながりが絶たれ、孤立した。遠距離の移動は新幹線だけが現状。在来線は新潟支社のものしか見かけなくなってしまっている。この点においては在来線で首都圏や名古屋、豊橋などに出かけることが可能な中央本線沿線の地域がうらやましい。
飯山ではスキーに向かうアメリカ人が多数下車。山の彼方にスキー場の明かりが見えた。志賀高原や斑尾高原は人気が高いようだ。USA飯山シティといった印象だった。
列車が動くと「北陸浪漫」のメロディが流れる。今は亡い谷村新司の曲のアレンジ。
上越妙高駅は13時31分着。ここで帰路の2分の1が終わる。さらに残り2時間を普通列車で乗り継いで帰宅した。「東京へ行くより遠い」長野県諏訪地域への訪問が終わった。
JR東日本中央本線をまたぐ高架道路。左手は東京・諏訪E20の標記、右は名古屋・飯田E19の標記。東西の分かれ目である。
中央自動車道は木曽路を通らずに天竜川沿いに飯田まで走り、中津川で国道19号と接近して名古屋に向かう。
岡谷駅舎と岡谷ジャンクション 谷を効果でまたぐ。
岡谷を通過する松本方面行き特急「あずさ」 岡谷は中央本線みどり湖経由の現本線と辰野経由の旧本線との分岐点。
1983年7月にみどり湖経由の新線ができるまでは辰野を経由して塩尻に向かっていた。大八回りという地元政治家にあやかった呼び名で知られる。我田引鉄の典型として知られるが当時の土木技術では塩尻峠にトンネルを通す(または線路そのものを敷く)ことが不可能だったため辰野を経由したなどの説がある。
辰野経由の旧線は現在飯田、豊橋方面の列車が中心である。そのためJR東日本でJR東海の213系5000番台を愛でることができるわけ。
新幹線を持たない長野県諏訪地域 1時間に1から2本の特急「あずさ」、211系の中央東線普通列車、JR東海飯田線直通の313系など活気があり楽しい区間。ここから都心までは220キロくらいで新潟県より近い。名古屋も同様と考える(塩尻で乗り換えであるが)
ただ近年の傾向として同じ系列の車両が行ったり来たりなので単調に感じるかもしれない。
(ミニ新幹線沿線とどこか似ているように思う)
211系普通列車は長野、松本方面と、上諏訪、茅野、小淵沢、甲府、塩山、大月、高尾とバラエティーに富んでいる。普通列車で越境できるの面白い。諏訪地域と山梨はそれほど離れていないようだ。
飯田線直通は豊橋への直通があることが楽しい。数年で引退すると思われる213系5000番台と主力313系 。
貨物列車はあまり見かけずEH200の石油返空を見ただけだった。このあたり貨物列車が局地輸送に限られるためかもしれない。
同じ長野地域でも長野・上田地域は新幹線と第三セクターしなの鉄道に挟まれて旧信越本線区間は普通列車での越境は できなくなった。上りは軽井沢で線路が途切れ、下りは妙高高原ではねうまラインと乗り換えのためである。
高尾行き普通列車を見ているとかつて存在した長岡~上野間の長距離普通列車を思い出す。
自由席は先頭の8号車と7号車の2両。
特急「しなの」は381系の時代から見ているが乗車は初めて。
長野を出た特急「しなの」は北陸新幹線を左に見つつ篠ノ井まで信越本線を走り、安茂里付近では松本へ向かう国道19号と並走し、川中島へ。この付近多数のりんご果樹園を車窓にながめて篠ノ井へ。篠ノ井でしなの鉄道線と別れて単線で山伝いに進んでゆく。三大車窓「姨捨越え」が近づく。稲荷山で盆地から山間に分け入る。右手は険しい山岳地帯、左手に雪が残る善光寺平が望め、列車は振り子を効かせて高度を稼いでいく。
桑ノ原信号場を通過したあたりで車内改札(自由席のみ)さらに進んでスイッチバックの姨捨を右手に左手は善光寺平の眺めが広がる。そこを過ぎると冠着へ向かっていく。篠ノ井から松本までは時刻表では停車しない(しなの8号)が坂北では上り列車と交換で数分の運転停車があった。昭和の時代には長野自動車道がまだ完成していなかったが現在は高速道路が並走し印象が変わった。県道が国道となり403号の標識があった。新潟~松本間の国道であるが全線走破は難しそうである。
383系も姨捨や冠着、坂北付近ではそれほど速度は上がっていないようだったが、平坦区間ではかなり速度が速くなったように感じた。
西条を過ぎて新たなトンネルでかつてあった信号場をスルーして明科へ。ここから住宅が密集し右手に梓川その奥に安曇野さらに北アルプスを眺め(電線や樹木で撮りにくい)、田沢駅を通過し松本に入る。
松本の手前に大糸線北松本駅がありここに戦前型電車が多数配置の北松本支所があったがいまは痕跡もない。 姨捨は昭和の頃まではよく訪れた場所だったが平成になると転職したこともあって時間がとりずらくなり来ることもなくなった。松本駅もおよそ38年ぶりに見たことになる・・・・
今回は新潟県内はツーデー、越境部分は普通切符とした。時間の関係で北陸新幹線「はくたか」と名古屋行き「しなの」を乗り継いで塩尻に向かうことにした。
信越本線始発とはねうまラインを乗り継いで 上越妙高に着いたのは8時27分。いったん降りてみどりの窓口へむかう。現在は指定券の発行できる自動券売機が主流となりみどりの窓口の閉鎖が急速に進んでいる。地方だけではなく東京もかなり減少していた。先月訪れた中央線「西八王子」山手線「大崎」の駅も窓口はなかった。
上越妙高駅みどりの窓口の女性に上諏訪までの普通乗車券、新幹線自由席特急券 、乗り継ぎの在来線特急券を購入。女性はキーボードを操作して切符が出てきたのは1分以上経過してから。
それでも思案しながら自動券売機を操作するよりは早いかもしれない。
帰りは同じ経路をたどるため往復購入した。帰りは乗り換え時間が10分未満となっているスケジュールだった。
さて在来線特急の自由席特急券「乗継 」の表示がされ、600円となっているがこれは新幹線と在来線特急を乗り継いで購入した場合在来線特急の料金が半額となる制度である。
この制度もいまでは忘れられた制度となり活用されていないと言われ3月16日のダイヤ改正で終了することが決定している。
かつてこの制度を利用して特急料金を半額にしたことを思い出した。ここ10年近くは在来線特急に乗ることが無かったので忘れていたが・・・・
列車撮影の合間に諏訪湖を遠望できる場所に。雪を頂いた八ヶ岳の峰々と諏訪湖。数日前に降った雪はまだ残り日の当たらない場所は相当な積雪があった。
わずかな平地と緩い斜面には建物がひしめく。列車の沿線からは都会に見えるが実際は平地が少ないため密集地が目立つことを知る。山国の特徴的風景。諏訪湖周辺地域の人口は20万人を少し下回るくらい。
上諏訪、岡谷とも特急が多数停車する駅のため利用者は多い。普通列車も甲府や高尾まで行くものも多い。飯田線方面は豊橋へ行くものある。
上諏訪駅電留線で夕方まで待機する。背後のビルはホテルなど。諏訪地域は諏訪湖、諏訪大社、温泉など観光地に恵まれ、精密工業が発展し、味噌や蕎麦などの食料品の生産も盛ん。
中央本線沿線は特急「あずさ」が東京への足となり211系の普通列車が周辺地域への足として活躍する。JR東海の車両は伊那、飯田地域へつながりさらに遠く愛知県豊橋まで運用されている。
台車はTR225B、DT50B ボルスタレス台車。 213系5000番台の配置は「海カキ」つまり大垣車両区。
クモハ213-5013の表示 背後にはマンションやホテルが多く立ち並び都会の風情となっている。
クハし213-5013のトイレ付近。関西本線時代はトイレは設置されていなかったが、飯田線転用のため設置がされた。トイレは大型化されている。トイレを出たところには座席はない。車いすスペースとなっている。
長野色211系と並ぶ。
213系はJR西日本の「マリンライナー 」での活躍が知られている。国鉄の末期に登場し、岡山に配置。211系と同様な近郊型ながら2扉で車内は転換式クロスシートの異例の車両。瀬戸大橋線の花形として後継形式が現れるまで走り続けた。
その213系の設計を引き継いだ転換式クロスシートの5000番台が1989年(平成元年)登場した。本形式は2連が14編成28両の少数派。あまり話題になることない形式。当初は関西本線の165系を置き換えて近鉄に対抗した。のちに313系が投入されると飯田線へ転属して119系に代わって運用される。
上諏訪駅の留置線 左手は211系ロングシート車 お昼頃上諏訪に到着し一旦休息213系5000番台がJR東日本中央本線に乗り入れていることが判明したので見てみたいと思っていた。転換式クロスシートとは無縁のJR東日本管内で走っているということで乗車してみたいと考えていたがなかなか実行に移せないでいた。実は213系5000番台は1996年の夏に豊橋付近の東海道本線で見かけているが211系と誤認し記録できなかった。
飯田線は40年前までは戦前製の旧型国電が多数走ることで知られていたが1983年に119系電車に置き換えられた。以降は極端に古い電車が走ることはなくなった。しかし119系も単行運転可能なように改造されたり、213系5000番台のように前職を追われた車両が配置される路線のイメージが付きまとっている。213系5000番台も2扉で戦前製のモハ53あたりを思わせる。しかしJR東海関西本線ローカル用の213系5000番台に関しては華々しい歴史はない。211系の変形車てきな印象である。
この213系5000番台は315系電車の増備でねん出された313系などに置き換えられて姿を消す時が近いと言われている。
現在は211系の置き換えが行われているがそれが終ると本形式に置き換えが及ぶと言われている。
この213系5000番台の 諏訪地域での記録はだいぶ前から考えていた。
昨年夏に諏訪や伊那を訪れることを検討したが台風などで運休が早々に発生し手が出せなかったが、ようやく時間が取れたので記録に出ることにした。
新潟から長野県諏訪地域は東京に行くより遠い。信越本線始発で乗り換え2回で上越妙高。ここで北陸新幹線で長野まで行き特急「しなの」で塩尻。さらに中央線乗り換えで岡谷着が11時過ぎ。岡谷から上諏訪まで213系5000番台に乗ってJR東日本区間での転換式クロスシートに着座して諏訪の風景を眺め、上諏訪で入れ替え作業と211系との並びを見聞して上諏訪名物の足湯につかり、午後の2本を岡谷で見聞、記録し、来たコースをたどって帰るスケジュールとした。往路5時間30分、復路4時間20分、結構な長旅だったが充実した時間を堪能した。
見ることがかなった213系5000番台は以下の3編成
219M岡谷11時58分、上諏訪12時8分 上諏訪15時26分豊橋行き570Mに充当岡谷15時36分発。213系H13編成
223M岡谷15時着 豊橋行き568M岡谷15時46分着 213系H6編成
225M岡谷15時55分発上諏訪16時5分、茅野16時12分着 213系H5編成
他にJR東日本211系長野色も多数見聞できた。
1987年より運転開始。大阪~金沢間「雷鳥」に無動力で連結。金沢から和倉温泉まで単独運転。1991年に七尾線が電化するまでこのような運行形態がされていた。
雪のない冬雨が容赦なく降り続ける中走る。この日はほかにDE10牽引の「能登」もあった。これは上野からの列車の延長運転で14系寝台と座席の4両が使われていた。
キロ65型「ゆうとぴあ和倉」は1987年1月1日金沢から吉田まで団体列車で乗り入れている。これは市振地区の漁業関係者の初詣列車だった。翌年「ゴールデンエクスプレスアストル」が落成するとこの編成に引き継がれ1月1日の越後線の花形となった。
1984年4月8日の電化当初は弥彦線は吉田~弥彦間115系2連。吉田~東三条間は通勤時間帯115系2連+4連、日中4連、早朝と夜間2連だったがJR東日本へ移行後は減車となり朝方の3往復が165系3連に置き換わった。(1993年12月改正では115系2連にさらに減車)
115系の4連は信越本線などに振り向けられて編成増強に使われていった。この傾向は各地に見られ閑散区間は165系、混雑が多い区間は113系、115系となった。
かつてキハ30、35の通勤型気動車が走り抜けて多くの乗客でひしめいていた路線に急行型が走る光景はこ利用者が相当に減少したことを物語っていた。
弥彦線も燕三条での接続がよくなく結果マイカー乗り入れが上越新幹線利用の中心となり、乗り換え客は多くない。
JR東日本移行時はワンマン化が行われたが一方で行楽時期の増発もされたことがあったが成果には結びつかなかった。
1メートルくらいの積雪。わずかな客を降ろして発車を待つ。弥彦線越後長沢~東三条間は輸送量が極端に少なく常に廃止が検討されていた。運転本数も朝2往復、夕方3往復。
越後長沢の周辺はこれといって何もなく水田と低山があるだけだった。そこに雪が積もると北海道のローカル線のような風景が展開していた。
弥彦線での急行型車両乗車は極めて難易度が高く乗車は難しかった。
この撮影場所は高架工事で廃線となり道路となっている。