2017年5月14日日曜日

頸城鉄道の呪縛

5月5日 上越市頸城区の「くびき野レールパーク」にて。頸城鉄道のホジ3型気動車。
この日は月1回の公開日でようやく念願かなって訪れることができた。
NPO法人の「くびきのお宝のこす会」が運営主体である。
ホジ3の内部。木目が美しい。この車両たちは1971年の頸城鉄道の廃止後神戸市の篤志家に引き取られ六甲山にて保管されていたが2004年にくびきの地に里帰りして保存活動が開始されたのである。
荷物郵便車のニフ1 復元車輛である。
ニフ1車内。机といすと児童向け図書の棚が置いてあった。
こども図書館という張り紙があった。
机といすの有る車内のレイアウトがなんとなく車掌車のような雰囲気に。

貨車と単車のハ6  動態保存の相方である。ハ6は明治時代の1911年(明治44年)製造で魚沼鉄道で走ったこともある。同系が新潟市中央区の自然科学館に保存されている。
単車の為線路の感触がじかに伝わってきた。貨物列車の乗心地を楽しめる。
コッペル2蒸気機関車。 明治44年(1911年)ドイツのオレスタイン&コッペル社製造
DC92ディーゼル機関車と並ぶホジ3 DC92は1954年(昭和29年)日本車両製造社製


頸城鉄道の存在は1978年10月に新潟日報事業社より刊行された写真集「新形の鉄道百年」でしっていたが1971年(昭和46年)全線廃止であり特段関心を持つことがなかった鉄道である。筆者が住む新潟県下越からも遠いこともあってなじみの薄い存在であった。

1981年7月長野県に向かう道中国道8号線柿崎から新井市(現妙高市)に抜ける県道を走行中に工事で通行止めの箇所があり右手(つまり西側)の道を迂回することになった。その途中駅舎があった。木造である。当然頸城鉄道のものであることが明白だったが急いでいたのでそのまま・・・・
ただその駅舎がどこのものかはわからなかった。
それから10年以上たった平成3年に頸城鉄道の廃線の跡を信越本線列車撮影の合間を利用してたどっている。このころは原型を残していることで有名な浦川原以外に収穫はなかった。

展示してある写真の中に駅舎を扱ったものがあり候補が明治村か百間町に絞られたが1981年(昭和56年)当時右に回ったような記憶があるのでおそらく百間町を見たのかもしれない。そしてバスの拠点として残っていたならば間違いないかもしれない。 つぎの公開の時にでも当時をご存知の方がおられたらいつころまで駅舎が残っていたのか質問したいとおもう。
5月5日の時点では明治村も有力候補と考えていたのであるが・・・


もう1点が長野県須坂市の廃車になった自動車を置いてある場所で見た客車のようなものの正体である。これも1988年(昭和63年)、1989年(平成1年)、1990年(平成2年)とその近くを通過しているが所用の為(つまり鉄道撮影以外の目的)でそこを通過していた。交通量が多く道幅もそれほどなく駐車できなかったのでうやむやになり掛けたが1991年(平成3年)その正体が頸城鉄道ハ3という客車だった。頚城村の大瀁小学校(おおぶけ)に保存されたが事情があって(劣化で児童がけがをする恐れなどがある?)で須坂市の業者に引き取られたようだった。そちらでも引き取り手を探していたようだったがその後はわからない・・・・・

筆者はてっきり保存されていた小学校が統廃合でなくなり車両も保存できなくなったためとおもっていたが・・・なんと「大瀁小学校」はしっかり存在していた。 もっとももともとの保存先は違うところにあり統合された後現行の名称を用いていることも考えられるが・・・・・
このあたりもうすこし突っ込むべきか・・・・・

この日は二軸客車ハ6とホジ3の乗り心地を存分に楽しんで、黒井(ここで石碑を)、直江津(リゾート列車雪月花の撮影)、糸魚川(ジオポケットに保存のキハ52と大糸線キハ120撮影)をおこなった。
一旦帰宅して会津若松にここで新たに仲間に加わったE721系や非電化区間でばんえつ物語撮影などをして後半は新潟市秋葉区の図書館で調べもの(新潟鉄道管理局三十年史など)をした。
ハードだが原点に立ち返ったゴールデンウイークだった。最終日は葬儀のため午前のみ弥彦線70系新潟色の115系撮影。