昨年の春復活した「上沼垂色」ようやく抑えられた。かつて平成の時代に特急「白鳥」「雷鳥」「北越」などで活躍した485系に用いられていた色である。復活したE653系の編成は短いが雪の中を走破する光景は往時を思い出させる。できれば乗客がもう少し多ければいいが・・・・マイカー移動に押されて振るわない特急である。
2025年1月21日火曜日
雪原を行くE653系「上沼垂色」
2025年1月20日月曜日
EF510-1 4075レ がんばろうマーク
左手の運転席わきにがんばろうマークが貼付されていた。
気温は‐2℃くらい。しかし雪が固まっていて雪煙は舞わなかった。そのかわりパンタグラフから火花が散る光景が・・・・
2025年1月19日日曜日
EH200-24とDD200-17 配8788レ
EF510-506 3093レ 機関車次位に大型コンテナ。
このの午前は西蒲区の図書館で郷土資料の閲覧。午後は買い物にいくついでに14時台ゴールデンタイムを。他特急「しらゆき」は上沼垂色H02編成だった。
久しぶりに長々と郷土資料に付き合ったので目がしょぼしょぼである。
2025年1月18日土曜日
越後鉄道 運転上の概況 明治44年~大正元年
吉田町史資料編4 近代1 P194から
列車の運行は白山~吉田間 もしくは白山~地蔵堂間に1日往復4回混合列車とし、
機関車3両、客車12両、有害貨車12両、無蓋貨車12両をもってこれを充て、
常時客車列車の編成は三等車3両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じて、
増減せり。
柏崎~石地間列車の運行は開業当初1日往復5回の混合列車とし、乗客そのほか、諸種の状況
に鑑み1日往復4回として、機関車2両、客車8両、有蓋貨車8両、無蓋貨車8両をもって、こ
れに充て、平時列車の編成は三等車2両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じ増減せり。
当時の越後線、弥彦線の前身「越後鉄道」の 列車の概況を吉田町史の資料編から確認した。
編成のうち高等車とは二等車のことのようで、列車そのものも小型タンク機関車と小型の客車の編成だった。いまは貨物列車は運転されていないがこの時代は道路輸送は未発達であり、鉄道がすべてを担っていた。
越後線はのちにタンク機関車をテンダー機関車に更新し、タンク機関車は弥彦線で用いられることになった。
2025年1月17日金曜日
雪晴れ飯豊連峰
連日の雪がおさまってこの日は晴れ間がのぞいた。低山の奥には飯豊連峰の雪山が望めた。
寒い日ではあるが気温は高めで粉雪が舞う光景はまだ見られない。積雪も30センチ程度と少ない。雪が多く寒いという予報も訂正が入りつつある。それでも 電気、ガス、灯油は値上がりが続いて家計を圧迫している。厳しい冬であるが、朝晩の気温差は5月連休あたりまで続くので厳しい春もある・・・・
しばらくそんなことを忘れ雪の飯豊連峰を愛でる。
2025年1月15日水曜日
雪原を走る
EF510-512 3097レ 黒井からのコンテナ車の配給輸送
午前は荒れた天気だったが午後は回復した。冬の日を受けて雪原を行く貨物列車を眺めて過ごした。
2025年1月14日火曜日
EF510-509 復興マークの4091レ
2025年1月13日 EF510-509 4091レ
復興マーク付き。恐怖の能登半島地震から1年経過。復興はなかなか進んでいないという報道がなされている。
遠く離れた新潟市西区も甚大な被害があったがまだ傾いた家が多数見受けられる。
さて、貨物列車も青森での豪雪でなかなかダイヤ通りにならなかったり当地も重たい雪でダイヤが乱れたりで貨物列車を見ることがかなり遅くなってしまったがようやく見ることがかなりうれしいところである。
連休2日目ということでコンテナは少なかったが幸先のいい始まりと考える。そして復興が進んでいくことを願い場所を後にした。
2025年1月13日月曜日
雪晴れの飯豊連峰と弥彦線
2025年1月12日 弥彦線 下り東三条行き 西燕付近 E129系
吉田の町内で所要を済ませて、図書館へ向かう途中の1カット。飯豊連峰がくっきり望めた。
先週降った雪が残っていたのでこの付近も白い世界になっていた。ただし三条市よりはかなり少ない。昨年12月は雨ばかりで師走のあわただしさと葬儀の残務整理で線路わきに立つことも少なかった・・・・
このあと越後線で弥彦山を入れて1カットを行い、吉田の図書館で各町村の資料を閲覧した。
2025年1月12日日曜日
2025年の抱負など
2025年1月1日 しらゆき2号 52M 次のダイヤ改正では下り1号がお昼前になる。朝の現1号は廃止、また夕方の8号も17時台になる。
菩提寺へ一周忌法要の予約をしに出向く際の撮影。この日の昼前に遺族が集結するので日程の連絡をしないといけない。撮影後足早に・・・・この日も雨で初日の出はない。前日はいとこに除籍謄本の写し(改製原戸籍含む)を届けて雑談ご帰宅して簡易なおせちを作って、雑煮汁(餅なし)、のっぺ、新巻きサケでかるく仏前で般若湯(酒)をいただいて、そのままばったり!日付が変わることに目が覚めたが、「喪中」のため二年参りもしなかった。朝は餅を食べ初撮りをおこなってという流れ。座敷は鏡餅もなくがらんとした状態。床の間に面子が集ったら配布するギフトを並べて置いた。お内仏は花を多めに飾り・・・・
菩提寺に着くと仮本堂の阿弥陀如来像にて参拝し、住職のいる部屋でお茶を頂いて、日程を予約する。朝9時と早い時間と思っていたらすでに先約があったようだ。
10月初旬に1周忌を、7月下旬に初盆をおこなうことにした。
帰宅してしばらくすると面子がそろったので、仏前に参拝をしてもらい、その後法要の日程を連絡し、雑談したり、記念撮影を行い散会となった。
午後からは戦前、戦後の時刻表を出して資料をまとめる作業を行い2日の午後まで行っていた。
これからは資料と向き合うことがメインとなる。資料は読み違えないよう注意する必要がある。出来上がった原稿は研究会へ出荷することとなる。この日は疲れたらリサイクル店を冷やかし、帰宅して入浴し普段通りの生活を心がけた。
3日ははねうまラインへ115系横須賀線色見聞に、4日は磐越西線と羽越本線のキハ110系の乗車を楽しんだ。115系はともかくキハ110系は身近なので押さえておく必要はあろう。他に現在は青森付近の豪雪でダイヤが乱れて運休気味のEF510も運用を抑えておく必要があろう。寒いので体は冷えまくってきつかったが楽しめた。はねうまラインは海外からのスノーリゾート人々でごった返し、信越本線柿崎~長岡間は帰省客の利用が多かった。各駅のホームでUターンする若いい人たちを恒例の親族が見送る光景がたくさん見受けられた。この区間はかつての「かがやき」「北越」時代の面影を残していた。ただし列車は2両ワンマン編成であり、利用もずいぶん減ったもんだと思ったがこんな光景が見れたことがうれしいと思う。
5日は葬儀関係の資料をファイルにまとめお内仏へ。不用品の整理をぼちぼちと行う。
6日から仕事始め・・・冬将軍到来で平野部にも雪が積もった。重くて腰に来る雪で往生した。
今後は不用品の廃棄と老朽ヶ所の整備、そこに第一優先の年忌法要の準備などが絡んでくる。 鉄活動では資料収集目的(事実関係、事実の真正重視で映える写真を撮ることは目的としない)での遠征なども考えているが実現可能性は低いかもしれない。なんでも値上がりのこの時世、不相当なことを行えないので。ガスも電気もガソリンも高くて参ってしまう。
結局ワンデーやツーデーの範囲+ということになろうか・・・・宿泊は無論不可で。
こんなことが本年の抱負であろうか。
2025年1月11日土曜日
北しなの線SR1-102 軽井沢行き
回転式クロスシートが並ぶ車内。平日の通勤ライナー運用と週末のリゾート運用をこなす。
指定席運用に入らないときは回転クロスシートを窓側に固定してロングシートとして使う。
この列車の実体はE129系そのもので、普通列車用は0番台車である。
回転クロスシートの様子。一部にテーブルがセットされてトキ鉄の455‐701のようになっている。この座席はリクライニングはないが、前席が進行方向を向く構造となっている。
2025年1月10日金曜日
115系 横須賀線色~妙高高原はインバウンドでにぎわう
2025年1月3日 下り普通 しなの鉄道北しなの線
妙高高原についた115系臨時列車。降り立つ客はインバウンドの方々。閑散とした構内に英語が響く。USA妙高高原となったのか?
列車が到着すると送迎のバスが多数終結。多くはスキー場の宿泊施設のものであろう。
雪もたくさんありスキー場もにぎわっていたと思われる。なにより観光拠点の妙高高原駅に多数の観光客が集うのは往時をしのばせてくれる貴重な光景であろう。
上越妙高駅からの乗り継ぎの人、長野駅からの人、スキーを終えて長野駅に向かう人・・・
観光拠点の駅の活気を感じた。
妙高高原駅は駅前は土産物店が1件、他に観光案内所でも土産物は入手できる。スーパーやコンビニは駅前にはなく国道18号沿いまで500メートルくらい行く必要がある。
2025年1月9日木曜日
2025年1月8日水曜日
キハ110‐212+キハ110‐202 新津派出 出区
2025年1月4日 羽越本線 125Dになるための新潟車両センター新津派出出区のようす。
キハ40系shukuraとGV-E400が待機
ここは東西連絡橋の中で雨にぬれずに見分できる。架線もないためすっきりみることができる。新津のキハ110系も2連だけとなってしまった。3連や4連はGV-E400の運用である。
確認できた休車はキハ111‐201とキハ112‐201 ほかにもう1両あるようだ。
運用は新津から会津若松へ2往復と会津若松~野沢間、羽越本線の新津~新発田間の 区間運用のみとなっている。
JR型であるがトイレは和式、窓にカーテン、座席もシートピッチが1470ミリのキハ40系タイプ、車体表記は国鉄文字、国鉄の雰囲気を残した存在である。窓の黒い帯も急行型をおもいださせる。ちなみに只見線用に朱色5号1色のものもありキハ22のように見える。
2025年1月7日火曜日
羽越本線 キハ110系 朝の区間運用
2025年1月4日 新津 キハ110ー212 新ニツ字幕はLEDである。
反対ホームから
キハ110‐202 水原行き普通 この日はこの編成が羽越本線の運用に入っていた。
キハ110系は1990年代に登場した。当地では羽越本線と磐越西線系統の運用であり、キハ40などと共存しながら運用されていた。ちなみに他線区は一気に置き換え共存にはしないことが通常だった。
キハ110系も30年以上の運用であり疲れが見えている。座席などは登場時のままであり大きな改修はされてはいない。もうこのまま引退することになるのであろう。
2025年1月6日月曜日
雪の花~磐越西線 キハ110系乗車
キハ111‐202 のユニット
キハ110系も今は岐路に立たされている。新タイプの気動車が開発されそれらに置き換わって車齢30年を超えたキハ110系は引退するものが出てくる。
登場当初は人気薄であったが、普通列車、急行列車、特急列車の各バージョンを持つ希少な形式と言えよう。座席もGV-E400より狭いが座席の座り心地はこちらが柔らかめで尻が痛くなることもない。暖房のきいた車内でぼんやり雪の花の咲いた阿賀野川の沿線風景を楽しんだ。朝の始発列車の状況がまるで夜行列車のようで新津で乗り換えて磐越西線はさらに乗車の少ないまさにローカル線の風情を味わうことができた。雪のない時期は「ばんえつ物語」というスターがいてそちらに人気が偏りがちであるが、騒がれないうちに本来の主役であった110系を味わうのも悪くはない。この車両あちこち国鉄風味を残している。
2025年1月5日日曜日
妙高高原115系横須賀線色臨時列車雑感
昨年横須賀線色が復活。新春の初もうで列車に妙高高原~長野間に2往復運転。
山間部は大雪が予想されたが妙高高原は薄日が差して穏やか。寒いだけであって雪は豪雪地故たくさんあったが。 撮影者は30~40名列車で現れ思い思い行っていたというところであった。
115系の横須賀線色は別名「山スカ」(本家の横須賀線に対し山岳路線の中央本線の列車のため)と言って、最盛期にはサロ165を組み入れた急行「かいじ」なども運転されていた。1985年3月のダイヤ改正までは篠ノ井線で長野まで入線していたが、系統見直しで松本までに変更され中央東線(おもに高尾~塩尻)のローカル輸送に使われていた。
信越本線の妙高高原界隈は北陸新幹線開業前の数日間運用変更で直江津乗り入れを行っていたようだ。
この横須賀色は115系ではなく70系旧型電車 が長野~直江津間の主力だった時代の塗装だったようだ。そんなイメージで眺めている。えちごトキめき鉄道はねうまラインのET127系V8編成も横須賀色のラッピングで半室荷物車のイメージとなっている。
いったんは途絶えた横須賀線色 これも115系の終わりをイメージしての復活と言われているが末永く走ってほしいと思う。
2025年1月3日金曜日
EF641001 〔高〕 茶色時代末期
茶色塗装としては末期の頃。以降原色に戻された。この塗装は1052が引き継いだがすでに存在していない。
EF641001も昨年運用を終えて解体待ちのようである。
2025年1月2日木曜日
高崎車両センターDD51
DE10 1705と並ぶ。DD51895他
公道からこのように見ることができた。
本年の秋をもってこれら国鉄型機関車の使用停止が案内され、引退に伴う運転がされた。
JR東日本からDD51の車籍がすべてなくなるようである。
この画像はそんな話題が出る前にこの界隈に出かけたときに眺めたものである。
2025年1月1日水曜日
信越本線大正14年時刻表
下り方面
上越線が区間開通で塩沢~宮内間の時代。直江津~新潟間8往復運転。急行は上野~新潟間長野経由の101レ上野20時30分~新潟8時35分着、上り新潟18時発上野7時着 二等寝台車連結。普通急行料金が必要である。急行列車は他に上野~金沢間運転があった。この列車も二等寝台車連結となっている。 長距離普通列車は神戸~青森間列車がありこの列車も二等寝台車連結である。また磐越西線にも上野~新潟間夜行列車があり二等寝台車連結となっている。急行料金は266.6哩で2円(二等)1円(三等)となっている。二等寝台車とは現在のA寝台車相当で上段3円、下段4円50銭となっている。この時代まだ三等寝台車はなかった。
上野~新潟間急行の長野から新潟までの停車駅は田口(現妙高高原)、高田、直江津、柏崎、長岡、三条、新津、新潟である。一ノ木戸(現東三条)はまだ弥彦線が乗り入れていないため市街地に近い三条駅が急行停車駅であった。ここから燕方面の乗り合い自動車などで移動がされたものと思われる。新潟自動車商会の定期乗合自動車便で燕まで80銭、所要時間20分(距離は2里)三条駅の列車と接続をしていた。