2025年8月14日木曜日

越後線の駅~上所 それにまつわるお盆のおはなし


2025年3月29日 越後線 上所 今年開業した新駅。

駅名標 この駅が開業した事で新潟駅方面への混雑が解消した。
改札口

 新潟駅方向 跨線橋からの俯瞰アングルが有名。 

新潟駅に向かっての上り勾配

 特徴のあるベンチ

路線図

 乗り換え口


 エレベーター 

通路

 モダンな外観の駅舎 近代化されつくした無人駅 乗車利用は1日およそ4000人程度。柏崎より多い。

駅前はまだ整備途上でしばらく完成まで時間がかかると思われる。上所駅は現状では住宅地の秘境駅だが今後の発展に期待。 

整備途上のためか新潟まつりでは利用を控えてほしいという案内がされた。

さて当方の親族の新盆が菩提寺で営まれ大勢の参列者でにぎわっていた。読経の後は法話であるが、今回の担当は中央区上所の真宗寺院の住職であった。

上所駅の開業を大いに喜んでおられた。

さて、法話でお盆参りのことが出てきたが、この地域ではお墓参りに来た門徒(檀家のことで真宗ではこう呼ぶ)の墓前で読経をするという。嘆仏偈とい短いお経を唱え供養とする。 新潟県央の筆者のところでは寺の住職以下が13日に門徒を回って読経を行うのであるが同じ真宗でも場所によって違うということを認識するのだった。お墓の前のお勤めも一家総出で子供たちも読経を行って盆の始まりの繁忙期をしのぐという。

2025年8月13日水曜日

米山から八海山 盛夏のほくほく線に乗る

2025年8月9日 直江津で並ぶ HK100‐7

413系で妙高高原に行き、市振で海道の松を見聞する目的を果たし 最終目的はほくほく線の乗車。昨年6月以来の乗車となる。あの時は越後湯沢で185系を迎え撃つことだったが、今回は単に乗るだけ。

HK100-7車内 接続列車が到着するといくらか乗客が増えたが閑散としていることに変わりはなかった。


 

今回のツーデー乗り旅はクロスシートの乗り比べとなった。

HK100一般車も座席間隔も狭いうえクッションも傷んできている。更新はされるのか?

犀潟を出て信越本線を乗り越して六日町に向かう。現在の最高速度は95キロである。

          

くびき駅近くの穀倉地帯と米山。先月訪れた庄内地方を思い出す。

地平線とほくほく線 そういえば線路わきに雑草雑木がない。


 

虫川大杉にて

ほくほく線はそれほど高くない山地をトンネルで抜ける。 駅は十日町を除いて無人。この日まつだい駅で改札が設置され列車のすべての扉が開いた。まつだい駅付近の大地の芸術祭の常設展示。

信濃川 渇水気味 橋梁はトンネルに挟まれ、十日町に入る。

HK100-6 初期の塗装の復刻版
十日町駅 この下を飯山線が走る。


 

雪の棚田、山菜などの素朴なごちそう、ちんころ 雪国の魅力

交換列車到着 HK100‐9ゆめぞら号とイベント色復刻のHK100-10の2連


 

HK100-10 復刻色 車内は一般座席

魚沼丘陵付近 越後三山が出迎える。海から山岳地帯へ。


 

六日町到着 ここで上越線に乗り換え。

六日町駅の表記


 

ほくほく線 六日町車庫

このあといくらか混んだE129系に乗り換えて長岡へ。車窓は色づいた水田と越後三山だった。 

2025年8月12日火曜日

ET122横綱大の里ラッピングK3


 2025年8月9日 直江津 1632D

横綱大の里 締め込みが鮮やかである。大相撲名古屋場所より横綱となった。残念ながら優勝を逃し金星ばらまき、座布団の雨が桟敷席に舞う結果。優勝は平幕の琴勝峰だった。それでも11勝あげて横綱の面目を果たしたといえる。今後に期待。大関時代のラッピングは貴重なものとなった。


 ET122-3 こちらは大の里とおなじ海洋高校の出身白熊のラッピング。

残念ながら現在は十両の関取である。ラッピング時は幕内だったので・・・こちらも奮起を期待したいところ! 

2025年8月11日月曜日

日本海縦貫線から眺める 象潟~市振「奥の細道」

2025年7月12日 羽越本線 象潟 


 

象潟駅 海側 松の木と象潟のイメージの庭園

象潟~金浦間 1689年に芭蕉が訪れた時代は湖面だった象潟はその後、1804年の地震で隆起して陸地になった。芭蕉が「松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとく」と記している。

「象潟や雨に西施がねむの花」 

鳥海山  羽越本線遊佐~吹浦

「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」 *あつみ山は鳥海山の誤認という説がある


羽越本線 最上川橋梁から

「暑き日を海に入れたり最上川」 午前の様子午後の夕景もよかった・・・

もうひとつの「五月雨をあつめて早し最上川」は最上川上流で読まれたもの 

羽越本線からみた粟島の夕景・・・出羽から越後へ 芭蕉は延々と歩いて旅を続ける。

信越本線 鯨波付近 北国海道から佐渡を望む・・
 

酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む。遙遙の 思い胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞く。鼠の関を越ゆれば越後の地に歩行を改めて、越中の地市振の関に到る。この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず。

「文月や六日も常の夜には似ず」

「荒海や佐渡によこたふ天河 」

日本海縦貫線は出雲崎駅のある内陸を走る越後線を含んでいない。芭蕉が歩いたのは海岸沿いであり、列車から奥の細道のイメージはできないので代用ということで。

「荒海や」の句はそもそも実際に見えた情景を読んだものではないという説もあり、かなり多くのの論点を含んでいると考えられる。体調不良と暑さに苦しんだ越後でのことはほとんど記述されないことがこの句が名句に なったという見解もあるようだ。出雲崎を通ったのが旧暦7月4日である。8月のお盆前くらいであろうか?本来は海は穏やかな季節。荒れた海にに天の川が横たわる光景を見ることができたのか?


市振の海道の松・・・・旧暦7月12日

ひすいライン市振駅 ここがあいの風とやま鉄道との分岐駅 市振の関と反対側に富山県境の境川が流れている。親不知の険が終わってもまだ越後路というのも少し不思議ではある。糸魚川というより、富山県の朝日町の経済圏のように感じるが・・・

ちなみに出羽の境の鼠ヶ関は集落がつながった状態で県境となっている。鼠ヶ関付近は場所によって新潟県村上市、山形県鶴岡市となるようだ・・・

秋田から富山の区間の共通点として山が迫ってわずかな平地そして海は吹浦~上浜間の有耶無耶の関(鳥海山の裾が海に落ちる場所)あつみ温泉~府屋(ここも急峻な山岳地帯が海に落ちる地形)、笹川流れ、角田山と弥彦山の海に落ちる場所、柏崎~柿崎間の米山峠、直江津~糸魚川間の旧北陸本線沿いの地滑り地帯、北アルプスが海に落ちる親不知~市振の区間・・・似たような要害が連なる山形県庄内と新潟県の海岸である。他福井県にも険しい地形が連なる場所がある。北陸トンネルの前後で国道8号は親不知に似た狭隘な勾配区間となっている。鉄道は線路付け替えがあった場所で説明の必要はない。 

一つ家に遊女も寝たり萩と月 市振でよまれた句。以下に原文を紹介する。

今日は親知らず、子知らず、犬戻、駒返などという北国一の難所を超えて、疲れ待てれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて西の方に、若き女の声二人ばかり聞ゆ。年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし、伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて明日は故郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり。

白波のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の強引いかにつたなしと物言うを聞く  寝入りて明日旅立つに、われわれにむかひて、

「行方しらぬ旅路の憂さ、あまりおぼつかなう悲しく待てれば、見えかくれも御跡をしたい侍らん。衣の上の御情けに大慈の恵みをたれて結縁させ給へ」と泪を落とす。

「不便な事に侍れども、我々は所々にてとどまる方おほし。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙なかるべし」と言い捨てて出つつ、哀れさしばらくやまざりけらし。
 

 

市振~奥の細道にちなむ「海道の松」を見に行く ~ひすいライン


 2025年8月9日 ひすいライン市振 少し進むとあいの風とやま鉄道 ET122‐4

市振漁港
市振の集落 急峻な山と海岸に挟まれた集落  
市振関所跡地



芭蕉が泊まった宿桔梗屋跡地

弘法の井戸

遠くに能登半島を望む・・・思えは秋田の男鹿半島からここまで海岸沿いの列車を利用して見えた終端になる。羽越本線道川の男鹿半島、上浜付近飛島、羽越本線今川~越後寒川間粟島、信越本線鯨波付近佐渡・・・そして能登半島

 市振漁港と富山県の方向

海道の松 樹齢200年の松の木は2016年の台風で倒壊した。
在りし日の海道の松


 

クハ455‐701ほか急行1号が到着