このころは115系N40編成もこの塗合わせだった。 N40編成は2022年3月をもって引退した。
鉄道むすめのヘッドマーク付き編成 北越急行の復刻塗装と並ぶ。鉄道娘のヘッドマークを持つHK100と並ぶ
えちごトキめき鉄道はねうまラインET127系V1編成、現在はこの編成がかつての新潟県内を走った70系旧型国電と115系の「懐かしの新潟色」の記憶を伝えている。
このころは115系N40編成もこの塗合わせだった。 N40編成は2022年3月をもって引退した。
鉄道むすめのヘッドマーク付き編成 北越急行の復刻塗装と並ぶ。鉄道娘のヘッドマークを持つHK100と並ぶ
えちごトキめき鉄道はねうまラインET127系V1編成、現在はこの編成がかつての新潟県内を走った70系旧型国電と115系の「懐かしの新潟色」の記憶を伝えている。
妙高高原についた115系臨時列車。降り立つ客はインバウンドの方々。閑散とした構内に英語が響く。USA妙高高原となったのか?
雪もたくさんありスキー場もにぎわっていたと思われる。なにより観光拠点の妙高高原駅に多数の観光客が集うのは往時をしのばせてくれる貴重な光景であろう。
上越妙高駅からの乗り継ぎの人、長野駅からの人、スキーを終えて長野駅に向かう人・・・
観光拠点の駅の活気を感じた。
妙高高原駅は駅前は土産物店が1件、他に観光案内所でも土産物は入手できる。スーパーやコンビニは駅前にはなく国道18号沿いまで500メートルくらい行く必要がある。
昨年横須賀線色が復活。新春の初もうで列車に妙高高原~長野間に2往復運転。
山間部は大雪が予想されたが妙高高原は薄日が差して穏やか。寒いだけであって雪は豪雪地故たくさんあったが。 撮影者は30~40名列車で現れ思い思い行っていたというところであった。
115系の横須賀線色は別名「山スカ」(本家の横須賀線に対し山岳路線の中央本線の列車のため)と言って、最盛期にはサロ165を組み入れた急行「かいじ」なども運転されていた。1985年3月のダイヤ改正までは篠ノ井線で長野まで入線していたが、系統見直しで松本までに変更され中央東線(おもに高尾~塩尻)のローカル輸送に使われていた。
信越本線の妙高高原界隈は北陸新幹線開業前の数日間運用変更で直江津乗り入れを行っていたようだ。
この横須賀色は115系ではなく70系旧型電車 が長野~直江津間の主力だった時代の塗装だったようだ。そんなイメージで眺めている。えちごトキめき鉄道はねうまラインのET127系V8編成も横須賀色のラッピングで半室荷物車のイメージとなっている。
いったんは途絶えた横須賀線色 これも115系の終わりをイメージしての復活と言われているが末永く走ってほしいと思う。
廃車となったEF81127、JR貨物EF510-6、115系訓練車
EF510以外は引退している。EF510もこの付近まで来ることはいまあるのだろうか?
この年のダイヤ改正で上越線の機関車運用を合理化するため貨物列車の一部を日中に運転することになった。長岡車両センターでも運用がないEF64などが留め置かれていたが、上越線の貨物列車が日中に運転を開始した関係で見かけなくなった。
終焉の数日前の光景。3月11日をもって115系は全て運用が終わる。
この年のダイヤ改正で115系の運用が終わった。何の予告もない静かな幕引きであり、地道に走り続けた115系にふさわしい最後であった。以降はイベント運用もなく、有料撮影会を行った後解体されていった。
すでに2年が経過して115系のことも記憶から消えつつある。それでも1日1往復の快速列車の活躍は忘れえないものがある。
山陽本線岡山付近は画像の115系変形車(600番代)が 多数走る路線で見ていて飽きることが無かった。
長岡駅で待機する気動車2連。3番線と4番線の間にある通過線。長岡駅を通過する貨物列車や寝台特急「日本海」が通る線路。夕方入れ換えで長岡機関区から入線し来迎寺に向けて発車していく。魚沼線は翌年4月1日廃止されるのでこの光景は1年後見られなくなった。どこでも見ることができたキハ58と長岡駅ではレアな一般型キハ47。一般型はほかにキハ35、45、52もあったが1983年の時点では見かけなかった。
キハ58の後ろの115系は新潟行き普通列車で14両の長大編成。実際客扱は8両のみで残り6両は回送だった。
新潟市秋葉区は雪は少なく、中旬後半に大雪が来たがそれ以降雪は積もらなかった。
2022年2月13日 宮内 信越本線の見附から長岡付近は雪が多かった。
115系N40編成懐かしの70系新潟色が最後の活躍をしていた。
新潟市周辺以外は豪雪だったがこの周辺は雪が少なかった。大雪に見舞われたのは2月中旬だけ。昨年1月の終わりはわずかに積もった雪を眺めるだけだった。
2022年1月3日 越後線粟生津付近 115系N40編成
年末に食材の買い出しに行ったついでに書店に行くと越後線の写真集が出ていたので購入。新潟日報メディアネットからの出版である。
1976年に撮影された新潟駅の様子。停車している自動車はスカイラインやバイオレット、カローラなど。新潟交通のバスもかなりの年式。新潟駅には「新潟に世界の友呼ぶ新幹線」のスローガンが掲示され、入り口には寝台特急つるぎに乗って青い国四国一周の旅 団体募集中の看板も。新幹線が発展につながると信じられていた時代であった。
さて、この越後線の写真集は前回「昔電車が走っていた」の著者海津英夫さんの著作で越後線前線の駅と列車の昔と今の様子を紹介するものとなっている。郵便局勤務の父海津一郎さんの遺された写真や資料を基に新たに取材した現在の越後線を重ね合わせて表現する手法がとられ、列車写真よりは駅の様子が中心となっている。越後線の写真集は記憶がなく新鮮に感じ買い求めてみた。越後線だけというのがかなり貴重と思う。
新潟県内の鉄道の話題路線は上越線、信越本線、磐越西線、羽越本線、大糸線、 只見線、飯山線、米坂線、飯山線、北越急行、蒲原鉄道、新潟交通、栃尾鉄道、頸城鉄道などで越後線は話題に上ることはなかった。(弥彦線も)蒸気機関車が消えたのが早く沿線風景が単調が原因だし、優等列車も走っていないとなると話題になりようがない。
キハ10系、キハ30系、キハ45、キハ58系の時代。1984年に電化されて115系や165系が活躍開始、1995年にE127系導入、2004年中越地震の迂回ルートとなって485系の臨時快速列車が走り、2014年E129系に。駅舎は木造の駅舎が多数登場。貴重なものが多い。
亡くなられた父上の資料を引き継ぎ、さらに発展させていくという手法ができることをうらやましく思う。あとがきに鉄道が詳しくないという記述があるがなかなかどうしての謙遜であり、更なる次作を期待したいところである。
昨年の元日は少ないながらこのような場面を見ることができた。2023年の始まりは雨!12月中旬の豪雪で積もった雪はみんな消えてしまい切株の水田と曇り空!陰鬱な1年の始まりとなった。(カウントダウン直前の大みそか23時45分頃は雲が一時的に切れていてオリオン座が見えた)
朝は通常に起きてぜんざいと雑煮を食べ、のっぺが無くなったので追加で作った。あとは年始客の相手で元日の大半を過ごすことになった。感染症に気を付けつつ普段顔を合わさないメンバーと懇談して1年の初日が過ぎていく。
年賀状の返しを作成して投函して気になった書籍を購入。
暮れも押し迫り暴風雪。12月18日に襲った寒波では新潟県中越は豪雪となりJR運転見合わせのほか高速道路の閉鎖、国道は柏崎と長岡での渋滞と立ち往生で災害救助法による自衛隊出動という事態。通勤経路だった国道8号や17号の立ち往生を見ると背筋が凍る。
一方豪雪の聖地の妙高や越後湯沢付近は小雪だった。冬が始まって早々の異常な降り方である。波乱に満ちた本年を象徴する冬の始まりかも知れない。
豪雪になったかと思えば春は爆発的にやってきて桜の開花も一気に満開、本来の桜の季節より早く咲いて一気に散り、また寒い日がやってきて、いきなり猛暑で、梅雨が早く開けたと思ったら豪雨災害、残暑が長く続いて突然寒くなる・・・今年の気候はこのような展開で、今は異常な雪の降り方積もり方・・・例年通りの異常気象。おそらく異常気象にならなかった年はここ数年は記憶にない・・・
さて115系であるが新潟からはすべて解体処分されもう存在していない。最も近くではしなの鉄道北しなの線の接続地点妙高高原に出入りするものだけになっている。あとは山陽本線だろうか・・・記憶から遠ざかりつつあるがあれだけあった115系がすべて引退したのは感慨深いことであった。何の未練もなく静かな引き際は地域輸送に貢献した115系にとって最高の散り方だったと言える。
画像は非情の掟に従って消える数週間前の撮影のものである。厳しい冬を長年にわたって走るつづけた115系の最後の冬。
DD200-2〔愛〕 新型機関車 この日車両の入れ替えがされたようだ。
左手に115系N40編成が発車待ち。一瞬の邂逅だった。EH200牽引配給は今後もあるが115系との邂逅はもうない。
115系定期列車のうち新井快速の最後を飾った列車。3月11日をもって115系の定期運用は何の予告もなく終わった。いささかの未練も残さず潔い最期に好感した。
3月5日東三条と長岡のわずかな区間MT54モーターのうなりを体感した。この日の午後低気圧の接近で暴風が吹き荒れて列車の大幅遅れが発生。当日ほくほく線超快速スノーラビットの六日町通過便の乗車し直江津から市振の区間は413系「急行1号」乗車しすぐに反対から来る普通列車で直江津に戻り信越本線14時19分長岡15時49分着のところ信越本線前川付近での風力が規制値を超えたということで柿崎で40分近い抑止動き始めても鯨波付近での風力が規制値となったことで徐行運転し(にわかに荒れ狂う日本海を楽しめる観光列車みたいになってしまった。撮影する人が多数)長岡到着は1時間遅れ。予定では新津まで行って新井快速に乗車して柿崎か柏崎まで乗車のプランは吹っ飛んでしまった。
とりあえず東三条に戻ったが新井快速はわずかな遅れで乗車可能のようなので(所定17時41分発のところ17時50分の発車となった)
直前に普通列車も来たが乗車は多くなかった。しかし新井快速の方は立ち客も見られた。見たところおなごり乗車風の方々が多かった。中にはマスクを外して大声で飲酒しているグループも。さすがに近づきたくなかったが・・・・(最終日にはさらに窓を開けて騒いでいるおちゃらけがいたそうだ・・・いずれ応報に見舞われるであろう)
信越本線の三条から長岡の区間はほぼ直線であり高速運転を楽しめる。115系N38編成は外観は湘南色だが内部は更新されていて固い座席で座り心地は悪いがこれは我慢するしかない。暴風のため遅れが発生し所定の新幹線に接続できない案内をした女性の車掌がなんとなく気の毒に感じた。結果としてこれが最後の新井快速乗車となってしまった。
3月12日この日115系の定期運用が廃止されたことを知った。コロナウィルスがまだまだのさばっている状況では仕方のないことだ。さらに頭に乗った愛好家への仕置きの意味もあるという。(最近行われている高額の撮影会も仕置きと言えなくもないかも)
全く予告なく廃止がされたことに戸惑う向きもあるが結局のところ向うは廃止の告知をする義務などないし今までがぬるすぎただけだった。愛好家の方もサービスに甘えて自分の頭で考えることをしなくなりおちゃらけた連中が増殖、一般の方々や沿線住民から批判が相次ぎいよいよ排除に乗り出したのかもしれない・・・
115系N33編成とキヤE195系
115系の晩年は新潟県内のローカル電車の歴史を振り返る演出がなされた。
70系時代へのオマージュ N40編成
70系を置き換えてローカル輸送の主力となった湘南色N38編成
JR移行を見据えた国鉄末期時代に登場した青髭第1次新潟色 N37編成
平成5年(1993年)暮れに登場の第2次新潟色 N35編成
平成11年(1999年)更新工事を行って車内も一新したN34編成
昭和63年(1988年)秋に弥彦線に登場したワンマン車 N33編成
平成5年(1993年)塗装変更した第二次弥彦線色 N36編成
この7編成が入り乱れての絢爛たる時代を再現したがついにその使命を終えた。
2015年に115系を置き換えて弥彦線のワンマン運行に従事した。わずか2編成で話題になることもなかったが運用が終わった。地道な活躍が記憶に刻まれる。
当地に残る国鉄時代の履歴が残る車両はEF81とEF641000番代でわずか7両の定期運用を持たない電気機関車とDE10が2両。いずれも事業用での運用。後継車両は試験中でいずれ置き換えられることが考えられる。
キハ40系越のshu*kura C57180と12系7連 わずかこれだけになってしまった。
最後まで残る国鉄型はおそらくC57180蒸気機関車かもしれない・・・
貨物の方は今回は変化がない。EF510やEH200が中央西線に一部進出との事であるが。九州のED76などの置き換えはEF510300番代でなすようなので現在のところ当地EF510の数に変化はないようだ。