1983年12月30日 EF5836〔米原〕牽引の急行荷物列車荷39レが山崎を通過。
寒冷地型、7枚窓の変形機のEF58であった。長岡には1980年10月までEF5835が稼働していたがEF641000番代に置き換えられて休車さらに廃車解体の道をたどっている。
EF5836は東海道線に転属し廃車はEF62に置き換えられたのち1986年になってからである。(機関車表の履歴の通り)
かつては35号、36号ともに長岡に配置されていた。
形態の違い(大雑把な)
35号機
汽笛カバー、スノープラウ、エアフィルタ原型、正面窓は黒Hゴム支持 電気暖房
36号機
汽笛カバー無、スノープラウ撤去、エアフィルターはビニロックに改造、白いHゴム
蒸気暖房
沖田祐作著機関車表から
EF5835~37の履歴
EF5835 東芝府中工場=301055-1 1952-03-09 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-03-09製造→納入;国鉄;EF5835→1952-03-10竣工→配属[達191];高崎局→
1952-03-11配置;高崎二→1956-11-04浜松→1956-12-18借入;浜松発米原へ→
1957-02-13浜松→1957-10-15高崎二→1957-12-25借入;高崎二発東京へ→
1958-01-11返却→1958-01-27宇都宮→1960-11-10(借入?)長岡二→
1981-06-09廃車;長岡二
EF5836 東芝府中工場=301055-2 1952-04-01 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-04-01(3/29?)製造→納入;国鉄;EF5836→1952-04-01竣工→
配属[達275];高崎局→1952-03-30(29日?)配置;高崎二→1954-02-19事故東海道線
国鉄 東海道線北堀之内駅にて列車が安全側線に突入EF5836号機関車全軸脱線→
1956-11-02浜松→1957-10-12高崎二→1957-12-02(12/25?)借入;高崎二発東京へ→
1958-01-12返却→1958-04-09(4/8?)借入;高崎二発沼津→1958-04-23返却→
1958-04-24宇都宮→1960-10-04借入;宇都宮発長岡二へ→1961-03-31返却(書類上)→
1961-03-31長岡二→1972-07-18借入;長岡二発宇都宮へ→1972-08-24米原→
1984-01-30下関→1986-01-30廃車;下関→保存;広島県広島市「二井田工産」;EF5836
(車体前半分のみ)
EF5837 東芝府中工場=301055-3 1952-04-20 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-04-20製造→納入;国鉄;EF5837→1952-04-19竣工→配属[達275];高崎局→
1952-04-20配置;高崎二→1956-11-06浜松→1956-12-29宮原→
1957-10-11(10/12?)高崎二→1958-04-07(4/6?)東京→
1959-08-01借入;東京発高崎二へ→1959-12-10高崎二→東京→
1960-07-31借入;東京発高崎二へ→1960-12-09返却→1960-12-09(12/10?)高崎二→
1961-01-12借入;宇都宮→1961-04-04(3/31?)長岡二→1972-07-19宇都宮→
1972-08-24(8/25?)広島→1973-10-01下関→1979-10-16(10/6?)廃車;下関
2019年6月30日日曜日
EF58112 502レ「きたぐに」
1983年12月30日 京都7時45分 EF58112〔米原〕が新潟からの急行「きたぐに」を牽引して終着の大阪に向かう。
EF58112の全面窓にはワイパーカバーが取り付けられていた。(他に74号と113号も)
急行「きたぐに」の編成は14系の11両編成で大阪寄りから1号車、最後尾11号車で1~5号車が自由席、6~10号車が寝台車で7号車がA寝台、それ以外がB寝台、最後尾はスハフ14型の指定席。寝台車は14系のため寝台幅が70㎝であり1982年11月15日改正前の10系寝台車にくらべ居住性が向上。しかし座席車は特急列車の座席と同様だったが簡易リクライニングであり座席を倒しても倒した状態を固定できないため姿勢を変えると元に戻ってしまい極めて不快なものであった。さらに窮屈な座席で足は伸ばせず痛くなることも多かった。
この列車では常に寝不足でぼんやりとした状態で降りることが多かった・・・・
14系座席車は日中の列車向けだったといえる。
EF58112の全面窓にはワイパーカバーが取り付けられていた。(他に74号と113号も)
急行「きたぐに」の編成は14系の11両編成で大阪寄りから1号車、最後尾11号車で1~5号車が自由席、6~10号車が寝台車で7号車がA寝台、それ以外がB寝台、最後尾はスハフ14型の指定席。寝台車は14系のため寝台幅が70㎝であり1982年11月15日改正前の10系寝台車にくらべ居住性が向上。しかし座席車は特急列車の座席と同様だったが簡易リクライニングであり座席を倒しても倒した状態を固定できないため姿勢を変えると元に戻ってしまい極めて不快なものであった。さらに窮屈な座席で足は伸ばせず痛くなることも多かった。
この列車では常に寝不足でぼんやりとした状態で降りることが多かった・・・・
14系座席車は日中の列車向けだったといえる。
2019年6月29日土曜日
2019年6月28日金曜日
新潟駅のキハ40と115系
1984年3月22日 新潟駅 左手に485系、キハ40、115系 当時は定番のメンバーたち。
国鉄色のまま推移していたが分割民営化の荒波を受け115系は1986年秋から塗装変更が開始、キハ40系と485系も1989年の国鉄民営化後新潟色や上沼垂特急色に変更がされていく。そんな時代が近づいていることをうっすら感じた時代だった・・・・
この年の早春に魚沼線と赤谷線が廃止。越後線と弥彦線は電化開業。特に越後線は新潟近郊区間増発と信越本線、白新線との直通が増えて現在の近郊輸送の礎となった。
国鉄色のまま推移していたが分割民営化の荒波を受け115系は1986年秋から塗装変更が開始、キハ40系と485系も1989年の国鉄民営化後新潟色や上沼垂特急色に変更がされていく。そんな時代が近づいていることをうっすら感じた時代だった・・・・
この年の早春に魚沼線と赤谷線が廃止。越後線と弥彦線は電化開業。特に越後線は新潟近郊区間増発と信越本線、白新線との直通が増えて現在の近郊輸送の礎となった。
2019年6月23日日曜日
梅雨空の115系N40編成
2019年6月23日 弥彦線227M 115系N40とN38の6連
夕方の3374M 115系N40編成新井快速 東三条にて
クハ115-1227
どんよりした夕暮れを走る・・・1年で一番日が長いが・・・実感はあまりない。
夕方の3374M 115系N40編成新井快速 東三条にて
クハ115-1227
どんよりした夕暮れを走る・・・1年で一番日が長いが・・・実感はあまりない。
2019年6月22日土曜日
月潟駅夜間撮影会
2019年6月22日 月潟駅 本日かぼちゃ電車保存会主催の夜間撮影会が行われたので参加してみた。
実際のところ新潟交通電車線を夜間に見たことはなかった。
19時ころ日没(本日夏至)20時ころ終了らしいので短い時間の撮影を楽しむ。
撮影者は男女合わせて50名くらい・・・同時開催の「月潟祭り」のため家族連れや小中学生も多数訪れていた。
モワ51号の白熱灯。車内には資料が多数・・・
最近復活した「荷物」の文字。モハ11のテールライトと遠くには信号も点灯。
「秋」の文字が一時的に表記されたキ116号 間もなく見納め。所定の新潟交通社紋になるが天候不良で変更できなかったとの事である。
車内には明かりがともり扇風機も回転。現役の頃を思わせる演出がされた。
テールライト 現役時代を思わせる。もう廃止から20年が過ぎてしまったが。
マジックアワー 信号機の青に注意!
暗くなってきて夜間撮影が盛り上がる 右手に見えるのは月潟祭りの提灯のあかり
すっかり暗くなって夜間撮影が盛り上がる。
保存20周年のヘッドマークの取り付け作業
大勢の人たちが撮影会を楽しんだ。保存会の方々によると夜間撮影会は月潟祭りの時だけしかできないとの事であった。最後に楽しい時間を提供された保存会の方々に感謝いたします。
実際のところ新潟交通電車線を夜間に見たことはなかった。
19時ころ日没(本日夏至)20時ころ終了らしいので短い時間の撮影を楽しむ。
撮影者は男女合わせて50名くらい・・・同時開催の「月潟祭り」のため家族連れや小中学生も多数訪れていた。
モワ51号の白熱灯。車内には資料が多数・・・
最近復活した「荷物」の文字。モハ11のテールライトと遠くには信号も点灯。
「秋」の文字が一時的に表記されたキ116号 間もなく見納め。所定の新潟交通社紋になるが天候不良で変更できなかったとの事である。
車内には明かりがともり扇風機も回転。現役の頃を思わせる演出がされた。
テールライト 現役時代を思わせる。もう廃止から20年が過ぎてしまったが。
マジックアワー 信号機の青に注意!
暗くなってきて夜間撮影が盛り上がる 右手に見えるのは月潟祭りの提灯のあかり
すっかり暗くなって夜間撮影が盛り上がる。
保存20周年のヘッドマークの取り付け作業
大勢の人たちが撮影会を楽しんだ。保存会の方々によると夜間撮影会は月潟祭りの時だけしかできないとの事であった。最後に楽しい時間を提供された保存会の方々に感謝いたします。
2019年6月16日日曜日
白新線豊栄駅の石碑「歓天喜地」
2019年6月15日 豊栄駅 「歓天喜地」の石碑。
石碑のいわれを記した解説板。
昭和27年(1952年)12月新発田~葛塚(現:豊栄駅)間が開通したときに建てられたもの。写真はC11牽引の客車列車とそれを喜び迎える町の人々が写されている。
今では新潟市のベッドタウンそして県北、庄内、秋田、青森方面の大動脈である白新線であるが最初は新発田~葛塚間の短距離路線としてスタートした。
新潟~新発田間は鉄道国有法が明治25年(1882年)に公布された際「新潟県下新潟及び新発田に至る鉄道」と記載されていたが具体化したのが大正2年(1913年)6月に私鉄「両新鉄道」敷設願いが新潟市の小出清七ほか56名から出され8月に免許が得られた。しかしその後の大水害などで株の募集があつまらず何回も工事施行の延期がなされその後の「新潟電気」が敷設権を取得するも実現はできなかった・・・
県庁所在地新潟と軍都新発田を結ぶ重要路線ということで昭和2年(1927年)予定線に繰り入れられた(大正14年(1925年)公布「改正敷設鉄道法 」の追加)
工事開始が第二次世界大戦にかさなったため戦前に開通したのは昭和18年(1943年)の関屋~新潟間のみで戦後の昭和27年12月に新発田~葛塚間開通、全通は昭和31年(1956年)4月に新潟~葛塚間が開通で実現、以降大動脈に成長していく。(参考 羽越本線の100年 P206 新発田~葛塚間(現豊栄)開業 瀬古龍雄)
歴史にもまれてなかなか実現しなかった路線だっただけに街の人々の喜びも相当なものだったようで「白新=はくしん」の響きのいい呼び名は人々に愛されて町名や企業名にも用いられることも多かったようだ・・・
白新線全通記念・・・「歓天喜地」の裏側
豊栄駅は平成18年(2006年)に橋上駅となった。自由通路で利便性が増してかつて水田だったところにも大型店が進出。この石碑の有る場所は葛塚の本来の街である。
白新線列車も豊栄~新潟間は日中20分ヘッドで運転新潟市北区の拠点駅となっている。
今の豊栄駅 新津、内野とともに新潟市内のターミナルとなっている。
豊栄が新潟市と合併する前は急激に人口が増えた街であることでも知られていた。
石碑のいわれを記した解説板。
昭和27年(1952年)12月新発田~葛塚(現:豊栄駅)間が開通したときに建てられたもの。写真はC11牽引の客車列車とそれを喜び迎える町の人々が写されている。
今では新潟市のベッドタウンそして県北、庄内、秋田、青森方面の大動脈である白新線であるが最初は新発田~葛塚間の短距離路線としてスタートした。
新潟~新発田間は鉄道国有法が明治25年(1882年)に公布された際「新潟県下新潟及び新発田に至る鉄道」と記載されていたが具体化したのが大正2年(1913年)6月に私鉄「両新鉄道」敷設願いが新潟市の小出清七ほか56名から出され8月に免許が得られた。しかしその後の大水害などで株の募集があつまらず何回も工事施行の延期がなされその後の「新潟電気」が敷設権を取得するも実現はできなかった・・・
県庁所在地新潟と軍都新発田を結ぶ重要路線ということで昭和2年(1927年)予定線に繰り入れられた(大正14年(1925年)公布「改正敷設鉄道法 」の追加)
工事開始が第二次世界大戦にかさなったため戦前に開通したのは昭和18年(1943年)の関屋~新潟間のみで戦後の昭和27年12月に新発田~葛塚間開通、全通は昭和31年(1956年)4月に新潟~葛塚間が開通で実現、以降大動脈に成長していく。(参考 羽越本線の100年 P206 新発田~葛塚間(現豊栄)開業 瀬古龍雄)
歴史にもまれてなかなか実現しなかった路線だっただけに街の人々の喜びも相当なものだったようで「白新=はくしん」の響きのいい呼び名は人々に愛されて町名や企業名にも用いられることも多かったようだ・・・
白新線全通記念・・・「歓天喜地」の裏側
豊栄駅は平成18年(2006年)に橋上駅となった。自由通路で利便性が増してかつて水田だったところにも大型店が進出。この石碑の有る場所は葛塚の本来の街である。
白新線列車も豊栄~新潟間は日中20分ヘッドで運転新潟市北区の拠点駅となっている。
今の豊栄駅 新津、内野とともに新潟市内のターミナルとなっている。
豊栄が新潟市と合併する前は急激に人口が増えた街であることでも知られていた。
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