2019年6月30日日曜日

EF5836〔米原〕牽引荷39レ

1983年12月30日 EF5836〔米原〕牽引の急行荷物列車荷39レが山崎を通過。
寒冷地型、7枚窓の変形機のEF58であった。長岡には1980年10月までEF5835が稼働していたがEF641000番代に置き換えられて休車さらに廃車解体の道をたどっている。
EF5836は東海道線に転属し廃車はEF62に置き換えられたのち1986年になってからである。(機関車表の履歴の通り)
かつては35号、36号ともに長岡に配置されていた。
 形態の違い(大雑把な)
35号機
汽笛カバー、スノープラウ、エアフィルタ原型、正面窓は黒Hゴム支持 電気暖房
 36号機
汽笛カバー無、スノープラウ撤去、エアフィルターはビニロックに改造、白いHゴム
蒸気暖房
沖田祐作著機関車表から

EF5835~37の履歴

 EF5835 東芝府中工場=301055-1 1952-03-09 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-03-09製造→納入;国鉄;EF5835→1952-03-10竣工→配属[達191];高崎局→
1952-03-11配置;高崎二→1956-11-04浜松→1956-12-18借入;浜松発米原へ→
1957-02-13浜松→1957-10-15高崎二→1957-12-25借入;高崎二発東京へ→
1958-01-11返却→1958-01-27宇都宮→1960-11-10(借入?)長岡二→
1981-06-09廃車;長岡二
EF5836 東芝府中工場=301055-2 1952-04-01 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-04-01(3/29?)製造→納入;国鉄;EF5836→1952-04-01竣工→
配属[達275];高崎局→1952-03-30(29日?)配置;高崎二→1954-02-19事故東海道線
国鉄 東海道線北堀之内駅にて列車が安全側線に突入EF5836号機関車全軸脱線→
1956-11-02浜松→1957-10-12高崎二→1957-12-02(12/25?)借入;高崎二発東京へ→
1958-01-12返却→1958-04-09(4/8?)借入;高崎二発沼津→1958-04-23返却→
1958-04-24宇都宮→1960-10-04借入;宇都宮発長岡二へ→1961-03-31返却(書類上)→
1961-03-31長岡二→1972-07-18借入;長岡二発宇都宮へ→1972-08-24米原→
1984-01-30下関→1986-01-30廃車;下関→保存;広島県広島市「二井田工産」;EF5836
(車体前半分のみ)
EF5837 東芝府中工場=301055-3 1952-04-20 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1952-04-20製造→納入;国鉄;EF5837→1952-04-19竣工→配属[達275];高崎局→
1952-04-20配置;高崎二→1956-11-06浜松→1956-12-29宮原→
1957-10-11(10/12?)高崎二→1958-04-07(4/6?)東京→
1959-08-01借入;東京発高崎二へ→1959-12-10高崎二→東京→
1960-07-31借入;東京発高崎二へ→1960-12-09返却→1960-12-09(12/10?)高崎二→
1961-01-12借入;宇都宮→1961-04-04(3/31?)長岡二→1972-07-19宇都宮→
1972-08-24(8/25?)広島→1973-10-01下関→1979-10-16(10/6?)廃車;下関

EF58112 502レ「きたぐに」

1983年12月30日 京都7時45分 EF58112〔米原〕が新潟からの急行「きたぐに」を牽引して終着の大阪に向かう。
EF58112の全面窓にはワイパーカバーが取り付けられていた。(他に74号と113号も)
急行「きたぐに」の編成は14系の11両編成で大阪寄りから1号車、最後尾11号車で1~5号車が自由席、6~10号車が寝台車で7号車がA寝台、それ以外がB寝台、最後尾はスハフ14型の指定席。寝台車は14系のため寝台幅が70㎝であり1982年11月15日改正前の10系寝台車にくらべ居住性が向上。しかし座席車は特急列車の座席と同様だったが簡易リクライニングであり座席を倒しても倒した状態を固定できないため姿勢を変えると元に戻ってしまい極めて不快なものであった。さらに窮屈な座席で足は伸ばせず痛くなることも多かった。
この列車では常に寝不足でぼんやりとした状態で降りることが多かった・・・・
14系座席車は日中の列車向けだったといえる。

2019年6月28日金曜日

新潟駅のキハ40と115系

1984年3月22日 新潟駅 左手に485系、キハ40、115系 当時は定番のメンバーたち。
国鉄色のまま推移していたが分割民営化の荒波を受け115系は1986年秋から塗装変更が開始、キハ40系と485系も1989年の国鉄民営化後新潟色や上沼垂特急色に変更がされていく。そんな時代が近づいていることをうっすら感じた時代だった・・・・
この年の早春に魚沼線と赤谷線が廃止。越後線と弥彦線は電化開業。特に越後線は新潟近郊区間増発と信越本線、白新線との直通が増えて現在の近郊輸送の礎となった。

2019年6月23日日曜日

梅雨空の115系N40編成

2019年6月23日 弥彦線227M 115系N40とN38の6連
夕方の3374M 115系N40編成新井快速 東三条にて
クハ115-1227  
どんよりした夕暮れを走る・・・1年で一番日が長いが・・・実感はあまりない。



2019年6月22日土曜日

月潟駅夜間撮影会

2019年6月22日 月潟駅 本日かぼちゃ電車保存会主催の夜間撮影会が行われたので参加してみた。
実際のところ新潟交通電車線を夜間に見たことはなかった。
19時ころ日没(本日夏至)20時ころ終了らしいので短い時間の撮影を楽しむ。
撮影者は男女合わせて50名くらい・・・同時開催の「月潟祭り」のため家族連れや小中学生も多数訪れていた。
モワ51号の白熱灯。車内には資料が多数・・・
最近復活した「荷物」の文字。モハ11のテールライトと遠くには信号も点灯。
「秋」の文字が一時的に表記されたキ116号 間もなく見納め。所定の新潟交通社紋になるが天候不良で変更できなかったとの事である。
車内には明かりがともり扇風機も回転。現役の頃を思わせる演出がされた。
テールライト  現役時代を思わせる。もう廃止から20年が過ぎてしまったが。
マジックアワー 信号機の青に注意!
暗くなってきて夜間撮影が盛り上がる 右手に見えるのは月潟祭りの提灯のあかり


すっかり暗くなって夜間撮影が盛り上がる。
保存20周年のヘッドマークの取り付け作業
大勢の人たちが撮影会を楽しんだ。保存会の方々によると夜間撮影会は月潟祭りの時だけしかできないとの事であった。最後に楽しい時間を提供された保存会の方々に感謝いたします。








2019年6月16日日曜日

白新線豊栄駅の石碑「歓天喜地」

2019年6月15日 豊栄駅 「歓天喜地」の石碑。
石碑のいわれを記した解説板。
昭和27年(1952年)12月新発田~葛塚(現:豊栄駅)間が開通したときに建てられたもの。写真はC11牽引の客車列車とそれを喜び迎える町の人々が写されている。
今では新潟市のベッドタウンそして県北、庄内、秋田、青森方面の大動脈である白新線であるが最初は新発田~葛塚間の短距離路線としてスタートした。
新潟~新発田間は鉄道国有法が明治25年(1882年)に公布された際「新潟県下新潟及び新発田に至る鉄道」と記載されていたが具体化したのが大正2年(1913年)6月に私鉄「両新鉄道」敷設願いが新潟市の小出清七ほか56名から出され8月に免許が得られた。しかしその後の大水害などで株の募集があつまらず何回も工事施行の延期がなされその後の「新潟電気」が敷設権を取得するも実現はできなかった・・・
県庁所在地新潟と軍都新発田を結ぶ重要路線ということで昭和2年(1927年)予定線に繰り入れられた(大正14年(1925年)公布「改正敷設鉄道法 」の追加)
工事開始が第二次世界大戦にかさなったため戦前に開通したのは昭和18年(1943年)の関屋~新潟間のみで戦後の昭和27年12月に新発田~葛塚間開通、全通は昭和31年(1956年)4月に新潟~葛塚間が開通で実現、以降大動脈に成長していく。(参考 羽越本線の100年 P206 新発田~葛塚間(現豊栄)開業 瀬古龍雄)
 歴史にもまれてなかなか実現しなかった路線だっただけに街の人々の喜びも相当なものだったようで「白新=はくしん」の響きのいい呼び名は人々に愛されて町名や企業名にも用いられることも多かったようだ・・・
白新線全通記念・・・「歓天喜地」の裏側
豊栄駅は平成18年(2006年)に橋上駅となった。自由通路で利便性が増してかつて水田だったところにも大型店が進出。この石碑の有る場所は葛塚の本来の街である。
白新線列車も豊栄~新潟間は日中20分ヘッドで運転新潟市北区の拠点駅となっている。
今の豊栄駅  新津、内野とともに新潟市内のターミナルとなっている。
豊栄が新潟市と合併する前は急激に人口が増えた街であることでも知られていた。






2019年6月15日土曜日

磐越西線青い12系号観察

2019年6月15日 DE101680〔長岡〕と「青い12系」客車4連
スハフ12162、オハ12367、オハ12366、スハフ12161の4連で高崎車両センター所属。
DE10と「青い12系」というレアな列車である。
DE101680を連結後いったん待機。珍しく最後尾に反射板が無く国鉄時代を思わせる編成となっている。国鉄時代には当たり前に見られたこの「青い12系」も今では貴重なものとなってしまった・・・「青い12系」とは「ばんえつ物語12系」と区別する意味で、系列としては一緒だが形態が大きく異なってしまった。
JR東日本では残っているのは蒸気機関車牽引用のスハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36の旧型客車とE26系「カシオペア」だけになったようだ。
長岡寄りにいったん引き上げて静かに新津駅3番線に入線。左手は乗務するJR東日本の方々。
「青い12系」のスハフ12161からはディーゼルエンジンの音がうなり構内に響いていた。
この音は長距離急行列車の音であり新潟県内では急行「きたぐに 」(大阪~新潟~青森間)
でよく聞いていた記憶がよみがえってきた。
12系客車は臨時列車で見ているが主に団体専用列車や臨時急行列車で国鉄時代では「佐渡 」新潟~上野「鳥海」酒田~上野「越後」大阪~新潟(下りのみ)「天の川」酒田~上野(1982年11月改正以降)「越前」福井~直江津~上野(1082年11月改正以降)などが定番だった。(いずれも50番代の佐渡54号などのような愛称が用いられ、1986年ダイヤ改正後は80番代)
急行型であってもキハ58系や165系電車より座席間隔が広くゆったり座れたのがよかった・・・
久々に本式の急行型車両の内部を見聞。ロングシート部分なしの原型がうれしい。
ただ、一般の方にはどうなのか?たんなるボックス席が並ぶだけの車両・・・
それでもそこそこの乗車があった。
大きなテーブルと窓側のひじ掛けが優等車両の象徴。(キハ58系、165系、455・475系など急行型車両は全て完備していた)
ビールやジュース、弁当を置いて車窓を見つつ飲食したのも思い出である。
デッキには車内販売のワゴンが・・・・定期列車では新幹線、在来線ともに縮小傾向だがこの列車は乗車を楽しむのが目的であり供食体制に抜かりはない・・・
10時5分に新津駅を発車するが新潟から接続の快速電車(E129系)が到着後扉があいた。
高度成長時代に造られた車両でのどかに阿賀路をゆられる道中もおつなものといえよう。

筆者は1999年にSL列車「えちご阿賀野」号(D51498牽引)で津川~新津間を乗車したことがある。

磐越西線での12系は6月の野沢臨(大山祇神社祭礼)や会津への修学旅行のころよく見かけたがあまりに当たり前すぎて記録しないことも多かった。
また会津若松~郡山間では12系の臨時急行「ばんだい」もあった。

磐越自動車道開通後バスに団体客が移り団体臨時列車もあまり見なくなった。
1往復あるC57180牽引の「ばんえつ物語」号 が7両の長編成で往年の面影を見せてくれている。
来月半ばからようやく帰ってくる・・・

新津駅構内では駅弁の販売も行われていたので1個買い求めて走行撮影に向かった。



 




月潟保存車

2019年6月14日 月潟にて キ116 塗装がされたようできれい。なんと「秋」の文字が。沖田祐作著機関車表で調べると以下の履歴が・・・

 キ116 国鉄大宮工場= 1932-00-00 J 31.1t2-2(1067)
車歴;1932-00-00製造→納入;国鉄;キ116→配置;?→1936-09-02現在;新庄検車区→
1939-03-01現在;新庄→廃車→1968-03-12譲渡;新潟交通(新潟県);キ116→
1999-04-00保存;新潟県月潟村「新潟交通旧月潟駅」;キ116

奥羽本線にて除雪の任に当たっていたようだ。もう80年近い車体・・・・
反対側は まだ塗装がされていなかった 新潟交通時代の表記も消えかかって痛々しい。
この地にやってきて20年風雪にむしばまれてしまったが保存会の方々の不断の努力で少しづつ美しさを回復しつつある。

この黒い除雪車・・・たった一度だけ動いているのを見たことがある。
1976年の2月頃弥彦線でDE10が押していた。豪雪地帯の新潟県では多数DD15,DE15,DD14など除籍専用機が多数配置されていたが雪の少ない弥彦線などでは廃車直前のキ100型を用いていたのかもしれない。
その年の夏には新津機関区の留置線に置いてあった・・・

そのころ撮影機材を持っておらず鉄道にはあまり関心が無くぼんやり見ただけで終わったが・・・・

 モワ51 こちら側にも「荷物」の文字が復活していた。
平成3年(1991年)秋ごろ東関屋に停車していた本形式を見ていると「荷物」の表記があったがその後消されていた。事業用でごくまれに除雪で動くだけで荷物は宅配便の取次になってたようだ。白根駅にヤマト運輸の「宅急便」の看板があったのを記憶している。
復元された荷物扉と荷物の表示  
モワ51は電動貨車に分類されるようだが小口の「荷物」にも活躍していたのかもしれない。
荷物輸送は国鉄時代末期昭和61年(1986年)に廃止され新聞輸送や新幹線を用いたレールゴーサービスが残る程度だったが近時運送業の人手不足等で見直されつつあり「貨客混載」が話題になっている。
先日上越新幹線で佐渡の南蛮エビを輸送する実験が行われている。

一旦は途絶えた荷物輸送(ここでは旅客車を用いた物品輸送)が復活する時が来るのか興味深い・・・

2019年6月13日木曜日

DD51753 寝台特急「紀伊」

1983年12月31日 DD51753牽引14系寝台車 「紀伊」 
1984年2月のダイヤ改正で廃止となる。 1980年3月まではDF50牽引だった。

2019年6月9日日曜日

バラに彩られる

ことしもバラが咲いて冬鳥越の保存車たちを彩っている。


EF6054 東海道本線

1983年12月30日 東海道本線山崎~高槻 EF6054沼津機関区配置 EF60は当時貨物列車ではよく見かける機関車だった。この機関車の運用は吹田から沼津までだった。
後ろの貨車もコンテナではない車扱いの貨車が多数連なっていた。
1984年2月のダイヤ改正ではこれらの車扱い貨物列車の大幅削減が実行され役割を終えて廃車になる貨車が多数に及んだ。また機関車の余剰も多数発生動かず朽ち果てていく機関車を見るのは悲しかった。

2019年6月8日土曜日

EF58100 24系客車回送

1093年12月30日 東海道本線 EF58100牽引の24系(向日町所属)の大阪から向日町への回送。原型窓のEF58100〔宮〕牽引。1984年2月1日改正でEF58がEF62へ置き換えられ、24系の回送も廃止のなることが決定していた。冷え切った朝もやがかかる東海道本線を走るEF58牽引列車を静かに見送った。

2019年6月1日土曜日

新潟交通電車線保存車

2019年6月1日 月潟 モハ11 保存開始20年の節目 桜の葉も濃くなり初夏から梅雨への移り変わる時期が近い。
保存会の方々が修繕活動をされていた。
モワ51の扉の修繕が終わったようだ。荷物の文字が復活していた。いまのところホーム側だけ。現役の頃に近づいた。
キ116のライトが点灯 この車両も塗装のし直しなどの修繕がされた。
モワ51とモハ11 遠くに残雪の飯豊連峰が望める
モハ11 現役の頃風に 長年の風雪で車体もかなり傷んでいた。
日没 間もなくあたりが暗くなる  梅雨入り前の今の時期一年で一番いい時期。
落日・・・19時ころ  上越新幹線のあわただしい音が静寂を破った