2019年7月31日水曜日

東赤谷の移動機

1983年5月 東赤谷の日鉄鉱業の引き込み線の移動機。この時代貨物列車はわずかに運転されていた。貨車の引き渡しに用いられていた。移動機の後ろには巨大な鉱業施設があり生産に用いられていた。

赤谷鉱業所専用鉄道は軌間610㎜のトロッコとなって鉄山まで続いていた。
新発田行き列車からの撮影。

2019年7月30日火曜日

大売出し!

1986年新津にて 国鉄分割民営化前夜にみられた光景。余剰の客車や貨車を売却するケースが目立った。客車は店舗に貨車は倉庫に、車掌車や緩急車は事務所用など・・・
1985年頃から1987年頃は売却が目立ち各所に貨車の倉庫や店舗などが出現するに至った。

2019年7月29日月曜日

越後線を走るキハ52

1979年5月5日 越後線内野 キハ52を先頭にした普通列車。
左手の砂地は仮設ホームの跡。1978年の水害で不通になり乗り換えのための仮のホームが設置されていた。

2019年7月28日日曜日

EF510-508牽引の3098レ

2019年7月28日 3098レ EF510-508  台風崩れの低気圧も離れていったようで晴れ間が戻ってきた。穂が出た水田と青空が見えだした信越本線を走る。

新・鉄道運転規則逐条解説 続き

2019年7月28日 

新・鉄道運転規則逐条解説

第1章 総則(1~6条)
第2章 係員(7~14条)
第3章 施設及び車両(15~51条)
第4章 運転(52~93条)
第5章 閉そく等(94~163条)
第6章 鉄道信号(164~248条)
附則
付録 新幹線鉄道運転規則(条文のみ)
付図 信号機・標識

現在は新幹線鉄道運転規則などとともに統合されて「鉄道の技術上の基準を定める省令」となっている。 

越後線115系N40編成

2019年7月28日 寺泊~新潟間 139M
じめじめした天気。弥彦線と越後線の合流地点で。
139Mは吉田が9時56分発。1番ホーム先端では撮影者が見送っていた。

台風の影響で貨物は大幅遅れ。ちょうど越後線沿線の親戚に所用があったのでそのついでに。(上越線、北陸線ともに昨日からの大雨。さらにえちごトキめき鉄道ひすいラインではイノシシが列車に接触した。いずれもJR貨物のサイトより)


115系N33編成+N34編成

2019年7月28日 弥彦線227M 115系N33編成とN34編成  寺泊行き224Mは115系N40編成だった。台風が関東付近を通過した関係で雨の朝。

 線路沿いで見かけたねむの花。そろそろ終わりのようだ。
「象潟や雨に西施がねぶの花」松尾芭蕉奥の細道から・・・・

2019年7月26日金曜日

新・鉄道運転規則逐条解説

2019年7月26日 メルカリを見ていたら面白そうな書籍があったので発注してみた。
「新・鉄道運転規則逐条解説」監修は運輸省 鉄道局 鉄道運転規則研究会編で出版は社団法人日本鉄道運転協会

鉄道営業法を受けて第1条に「この省令は、鉄道(全国新幹線鉄道整備法(昭和45年法律第71号)第2条に規定する新幹線鉄道を除く。以下同じ)における車両、線路、その他輸送施設の取り扱いを定めることにより、運転の安全を図り、もって公共の福祉を確保することを目的とする。」(省令とは各省の大臣が自己の所管の行政事務について法律や政令を施行するため、あるいは法律や政令の特別な委任に基づいて発する命令のことを言う。
(国家行政組織法第12条1項)

鉄道営業法第1条は「鉄道の建設、車輛器具の構造及運転は命令を以て定むる規定に依るへし」となっている。(法律とは国会両院の議決で成立する法の形式を言う(憲法59条)

運転規則のほか普通鉄道構造規則、特殊鉄道構造規則、新幹線鉄道構造規則、新幹線鉄道運転規則など5つの省令が存在していたが現在は「鉄道の技術上の基準を定める省令」に統合されている。新幹線関連は1964年制定、それ以外は1987年3月制定である。

堅苦しいことはおいておいて普段乗ったり見たりしている鉄道の場面もこれら法規にしっかり規定されていることが理解できる。

おいおいと取り上げてみたい。

2019年7月24日水曜日

桜島線

1985年1月 桜島線 101系電車 ひっそりとして取り残されたような光景。まだ1960年代ではないかと思える雰囲気が支配していた。

2019年7月23日火曜日

軽便の車両基地

1982年12月31日 下津井 モハ102+サハ2+クハ22  迫力の3両
軽便の全盛時代を感じた。
バケットカーのクハ5 井笠鉄道から来たホジ3 貨車など
クハ5は1931年日本車両製造で造られた。当初ガソリンカー(形式カハ5)だったが1948年に電化開業した関係で電車に改造された。 
ホジ3は茶屋町~児島間の廃止の際に井笠鉄道から線路撤去の動力車として導入された。1955年富士重工製。

電車だけのそっけない路線と思われた下津井電鉄も温暖な瀬戸内海を望み大きなカーブがあったり車庫は軽便の匂いを強烈に残す楽しい場所だった。

2019年7月22日月曜日

下津井電鉄 

1982年12月31日 下津井電鉄児島付近  モハ1001型
バッファ付きだが連結器そのものは自連に見えた。
かつては茶屋町と下津井を結んでいた軽便鉄道の下津井電鉄だったが1972年に路線を縮小し児島~下津井までの区間となった。
したがって宇野線の電車で茶屋町へそこからバスで児島へ。帰りは児島から茶屋町へのバスがないため岡山駅行きに乗り高額な運転を払ったのもいい思い出である。

温暖な血を走る小さな電車。琴海駅からは瀬戸内海が鮮やかに見えた。また終点の下津井では古びた車庫に軽便の全盛期があったことを感じた。

1988年に瀬戸大橋線が開通それにより観光鉄道への脱皮をもくろんだが利用者は減少し1990年12月31日限りで鉄道営業は廃止された。

訪れたときはそんことは頭の片隅になく単に珍しい鉄道に乗れた喜びや達成感に浸っていた。

2019年7月21日日曜日

加悦鉄道 キハ101

1982年12月30日 加悦鉄道 SLひろば

片ボギー式の気動車。色は赤と白である。荷台がついているのが特徴
1963年に製造 1962年ガソリンからディーゼルエンジンに改造。キハ08が入線する1972年まで運用されていた。
きわめて不思議な車両だった。加悦鉄道は1985年5月1日に廃止されたがこの車両に関しては現在は加悦SLひろばで動態保存がされている。


客車改造気動車キハ08(初代キハ40)

1982年12月30日 加悦鉄道 SLひろば 
丹後山田から終点加悦へ。目的の客車改造気動車キハ083 乗ってきたキハ10と並んだ1カット。右手には加悦鉄道保存の客車が見える。

キハ08は1960年~1963年に国鉄の鋼体化改造客車を気動車に改造したものである。
北海道でオハ62系にDMH17Hディーゼルエンジンを一基搭載し運用されたが重い客車にエンジンを付けただけの代物のためそれ程の成果はなく1971年までに廃車された。当初キハ40(オハ62)キハ45(オハフ62)の形式だったが近郊型気動車キハ45の登場でキハ08、09となっている。

車内は鋼体化改造客車そのままの狭い座席間隔と板張りの背摺りである。
乗ってみたかったがこの日の運用はなく乗車はかなわなかった。

京都丹後地方は日本海側の冬の気候で雪はなかったが雨が激しく降ってきたり、時折日が差したりの目まぐるしい天候。見学も撮影も厳しいものがあった。

2019年7月18日木曜日

加悦鉄道線 キハ1018

1982年12月30日 加悦鉄道線 丹後山田駅 キハ1018
この日502レ「きたぐに」で京都へ。京都から丹後山田まで急行「丹後1号」に乗車。
行先は山陰・小浜線経由敦賀行きと山陰、舞鶴、宮津線経由網野行きだった。
キハ58系気動車の編成。京都10時15分、丹後山田は13時14分着。3時間の道のり。
京都駅山陰本線乗場は帰省客で大混雑であったが何とか乗車できた。京都駅では逮捕されたと思しき犯罪者や同じ列車に乗ろうとしている暴力団関係者などが大声を上げている光景を目撃した。幸いに同席ではなかったが。
京都駅はすでに曇り空だったが亀岡を出たあたりから雨模様で強弱有りで降り続いていた。昼食は列車内で自宅から持ってきたものですませた。
列車は西舞鶴あたりで空席が発生のどかな宮津線の旅を楽しめた。由良川の広い河口をわたると丹後へやってきた実感がわいた。宮津や天橋立で大勢が降り空席が目立つ状態で丹後山田へ。ここでキハ1018に乗り換えた。
加悦鉄道線の車窓は全く印象にない。天気が悪かったことと低い丘陵地と平地のみの単調な光景で記憶に残りにくかったのだろう。
車内も空席だらけ。顔中あばたの70~80歳代の人が乗ってきたのが記憶にあるだけだった。

写真は丹後山田駅で無蓋車が多数停車している通り当時はまだ貨物輸送が行われていた。

2019年7月17日水曜日

名残の薔薇

2019年7月14日 冬鳥越スキーガーデン  モハ1と薔薇
未だ薔薇がきれいに咲いていた。薔薇園はいまひとつだったが。
春の新緑と桜、初夏のバラ、秋の紅葉、冬はスキーで賑わう。
幸福な保存車両たちであるがモハ1も永年の豪雪地の保存で痛みがかなり出ているようだ。
車内には補強の柱が入り痛々しい状況。保存後も厳しい自然との闘いを余儀なくされている。

2019年7月16日火曜日

115系N37編成+N36編成

2019年7月15日  越後線を走る115系N37編成とN36編成 第一次新潟色と第二次弥彦線色

2019年7月15日月曜日

EF81141〔長岡〕牽引の寝台特急「つるぎ」

1984年1月 大幅遅れの大阪からの寝台特急「つるぎ」が東三条に到着。
6時台所定が11時台で5時間以上の遅れ。また機関車が長岡運転所EF81牽引ということで機関車故障も遅延の原因だったのかもしれない。

2019年7月14日日曜日

115系N40編成+N36編成 

2019年7月14日 越後線143M 懐かしの70系新潟色と第二次弥彦線色

梅雨ではっきりしない空模様だが遠くから目立つ編成だった。

DD511133牽引の寝台特急「出雲」3号

1983年10月10日 福知山 DD511133牽引の寝台特急「出雲」3号。右手にはタンク車が写っていて貨物列車があったことがうかがえる。現在福知山駅は高架になっておりこの時代の面影はない。右手の太いポールは電化工事に関連したものであろう。
1986年に福知山線とともに山陰本線も城崎(現:城崎温泉駅)まで電化。
出雲市に向けて走る出雲3号 右手には電化のためのポールが並ぶ。 中央に乗務のための車掌が専用通路を渡り持ち場に向かう。


2019年7月11日木曜日

115系試験塗装 1986年

1986年10月 弥彦線 115系 クモハ115-504+クモハ114-504(新ニイ)の編成。
国鉄民営化前にローカル車両の試験的に塗装が行われた。対象は115系であり当初は窓の周りの青がきつい塗りわけだった。のちに今の115系N37編成やキハ47系の多くが纏う新潟色第1次色が導入された。この試験塗装車は短期間で姿を消した。

2019年7月10日水曜日

485系「北越」1982年

1982年6月 485系(向日町)の特急「北越」 金沢~新潟間の運転で食堂車営業あり。
1978年10月2日ダイヤ改正までは新潟~大阪間の「北越」も2往復あったが特急「雷鳥」の延伸で廃止されている。
特急「北越」の本数は1982年11月15日 特急「はくたか」(上野~長岡~金沢)の廃止により北陸~新潟の運用に建て替えられた際に2往復新設となっている。

2019年7月9日火曜日

月潟保存電車

2019年7月7日 新潟市南区 旧月潟駅  モワ51の荷物の文字とキ116の秋の文字を。
よく見るとホーム柱にはあじさいが活けてあった。動かぬ電車たちでも季節感を感じる。
キ116ほか。 中ノ口川の水面を入れて・・・
モワ51・・・大きな雪かき器が目立つ。
モハ11 車内には七夕の飾りがあった。
鄙びた風情を・・・この日は近所のおばあちゃんと孫?と遠来から来られたご夫婦。
ご主人はフィルム式レンジファインダー機をご持参だった。国産品だが年代物である。
昭和レトロなこの界隈年代物機材で撮影も悪くない。
月潟は大手のロードサイドショップもコンビニもなく地元商店だけ。今となっては物足りない街ではあるが観光地然ともしていないので本来の地方都市の味わいを楽しむことができる。



あじさいとE129系

2019年7月7日 撮影場所にあじさいがあったので1カット。平凡な電車でも季節感を楽しめた。

2019年7月7日日曜日

夏の朝~EH200-19

2019年7月7日 EH200-19 牽引2092レ

梅雨も一休みで澄んだ空が見え隠れして成長した稲とコントラストを見せていた。


梅雨晴れの115系

2019年7月7日 弥彦線 225M N36編成
弥彦線燕駅 224M 寺泊行き
115系第二次新潟色 N33とN35の6連 
ついこの間まで当たり前に見られたこの編成も見かける機会は少ない。
115系N38編成 北長岡~押切 快速3481M  

久しぶりの梅雨の晴れ間 これからが梅雨本番となる。



2019年7月6日土曜日

12系新潟お座敷

1982年6月 上越線を走る12系新潟お座敷 珍しく最後尾を。(牽引はEF58175)
この時点では塗装は12系のままだったがJR東日本に移行後の1988年9月に塗装を変更して登場し2002年2月まで活躍する。

見た目単なる12系なのだが寝台特急のようにテールマークがあり優等車両的になったので最後尾も撮影してみた。

2019年7月4日木曜日

EF641042〔長岡〕牽引の新潟座敷



1984年2月新津にて EF641042〔長岡〕牽引のお座敷客車(新ニイ)
牽引機関車から推定すると上越線方面への団体のようだった。
豪雪の新潟から晴れの巻頭への旅・・・・
特殊な塗装のないこのころEF64も12系座敷客車もこれといった特徴のない列車だった。
東日本地区で目立つ列車は14系「サロンエクスプレス東京」往復客車。
長野のお座敷「白樺」あたりと思う。気動車系では秋田のお座敷気動車が特殊な塗りわけだった。

2019年7月3日水曜日

越後線を走る急行「ひめかわ」

1982年5月 出雲崎付近 越後線を走るキハ58系4連の急行「ひめかわ」
キハ58系のみで組成の 優等列車編成。華やいだ存在だった。
新潟と北陸本線青海の区間を1往復。いわゆる糸魚川地域と新潟市を結ぶ列車で午前に新潟着、午後新潟発の運用。越後線内が気動車4連、柏崎~青海間は2連。
停車駅は多く青海を出ると糸魚川、能生、名立、直江津、潟町、柿崎、柏崎、東柏崎、西山、出雲崎、大河津、地蔵堂、吉田、岩室、巻、内野、白山、新潟。
時刻505D青海発6時57分、新潟10時2分、506D新潟17時28分青海20時39分
1982年11月15日ダイヤ改正で廃止された。
代替として越後線内のみの快速列車が運転。柏崎~青海間は特急「北越」が時間変更したためそちらに移管した処理がされた。

「ひめかわ」という列車は本来信越本線経由の列車で1963年10月ダイヤ改正で新潟~長野間の準急「よねやま」の付属編成で新潟~糸魚川間を運転。当初は北陸本線内が「ひめかわ」の単独運転だった。越後線経由となったのは1968年10月のダイヤ改正からで越後線を経由していた準急「かくだ」を吸収して急行に格上げ運転した。

現在では北陸本線も「えちごトキめき鉄道」となり新潟方面に直通する列車もなくなった。あえていえば北陸新幹線で上越妙高で乗り継ぐ特急「しらゆき」がその役目を引き継いでいるかもしれないがこちらは信越本線経由である。

越後線は吉田を境に人口が少ない地帯を走り、線路の状況も最下級の4級線ということで高速運転には適さないので優等列車の運転は厳しい。

2019年7月2日火曜日

EF58175〔高崎二〕牽引12系座敷

1982年6月 上越線越後中里付近 EF58175牽引の12系座敷(新潟)
日中見かけることのないEF58を見る機会がお座敷列車などの臨時列車だった。

EF58175の履歴 沖田祐作著機関車表より

EF58175 三菱重工業三原工場=980/532=三菱電機 1958-04-23 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1958-04-23製造→納入;国鉄;EF58175→1958-07-28配属[達506];関東支社→
1958-07-28発送;鷹取機関区→1958-07-30配置;高崎二→1958-07-30到着;高崎二→
1958-09-06借入;長岡二→1958-09-10返却→1958-12-25借入;東京→
1959-02-13返却→1960-09-06借入;長岡二→1960-09-10返却→
1960-12-31事故上越線 国鉄上越線六日町~塩沢駅間にて列車進行中EF58175[三菱
1958-08-28=980/532=三菱電機]号機関車第2位パンタグラフ破損→
1961-12-11踏切障害大宮工場臨時入場→1970-04-02借入;桐生→
1970-04-10返却→1970-08-31借入;横川→1970-09-10返却→
1971-08-03借入;宇都宮→1971-08-26返却→1973-09-08借入;横川→
1973-09-14返却→1973-12-27借入;宇都宮→1974-01-08返却→
1974-03-26借入;桐生→1974-03-27返却→1974-04-02借入;長岡→
1974-06-29(6/28?)返却→1974-07-02電暖化→1982-10-00一休指定→
1982-10-22大宮工場へ廃車回送→1982-11-09廃車;高崎二(最終走行距離2,164,003㎞)

特急「白鳥」直江津進入

1984年2月 直江津駅に到着した青森行きの特急「白鳥」3号 右手には北陸本線の客車が待機。この年は豪雪であり海岸部の直江津でも相当な積雪となっていた。

現在は高架駅の直江津駅であるが国鉄時代は旧タイプの跨線橋や荷物の移動に使われているテルファがあった。

2019年7月1日月曜日

新潟駅の115系初期型

1984年3月22日 新潟駅の白山側の電留線で115系初期型が。1984年4月8日開業の越後線と弥彦線に使われる115系で各地の余剰車を組み直して編成に仕立てたものである。
クハ115-551~553のような電動車に運転台を付けてモーターを撤去したような変わり種もあった。それがついこの間(2015年頃)まで残存していたというのも面白いことである。クハ115の初期車は原型ライトのものは1990年代前半には牽引用やそのものの用途を失い廃車になっている。

115系初期車の越後線であるが1984年3月15日より気動車列車の一部を置き換える形で運用が開始、その後3月23日と4月の開業直前にも置き換えが開始されて4月8日の正式電化開業を待たず相当数の列車が115系で運転されていた。