2020年1月13日月曜日

弥彦線朝練~115系N40編成

2020年1月13日 弥彦線225M 雨の朝で薄暗いので乗車することに。予測通り115系N40編成の運用。
車端部のクロスシート トイレ脇はクロスシートにするのが国鉄時代の流儀だった。
オールロングシートのものでもトイレ脇はクロスシートとしトイレ利用者と 座席着席者が顔を合わせないようにしていた。
115系N40編成は原型車内であり国鉄の頃の面影を今も見ることができる。
(キハ47も車站のトイレ脇はクロスシートとなっている)
近郊型電車の車内光景。115系は3扉でキハ47は2扉であるが車内の様子は類似している。
座席形状やシートピッチも同様となっている。
列車は定刻に東三条を発車。しばらく信越本線と並走後右にカーブを切り高架線に入る。
この日車掌は女性で終着寺泊までの停車駅と到着時刻を案内していた。(吉田、分水、寺泊)平日は出雲崎まで運転する。

雨で薄暗い三条の街を眺めながら北三条へ。暗くくすんだ町並みが連なり成人の日の休日のため列車の乗車も振るわない。筆者のほかは親子連れの男性のみだった。
三条は金物の街と言われるが弥彦線列車から見る光景は単なる住宅街にしかみえない。
工場や倉庫、商社も郊外に移転し商業地もさびれてしまったた。

昨日は撮影が定期市を眺めてきた。弥彦線北三条付近が活気を見せるのはその時だけのようだ。(ほか駅前には図書館や民俗資料館、ステージえんがわ、三条鍛冶道場がある。また東三条寄りに少し進むと真宗大谷派別院がある。多くの門徒を抱える寺院であるが県都新潟市中央区には別院クラスの寺院はないようだ)

冬枯れの田畑と信濃川を渡り切って燕三条。県央地域の一大商業地だがまだ眠りの中。
マンション、ホテル、大型ショッピングセンターや家電量販店、衣料品店舗、外食チェーン店がひしめく。昭和の頃は水田だったが今は旧市街地にとって代わってしまった。
燕三条の旧線跡。燕三条駅ができる前は左手に線路があった。
ショッピングセンター街を通り抜けて中ノ口川を渡ると燕に到着。
ここから燕まではスピードをかなり出しているようでモーターの音も勇ましく感じた。
燕三条のショッピングセンター街は渋滞が慢性化して移動しにくいが休日のこの時間は通る車も少なく快適であった。
燕駅付近は洋食器などの町工場が目立つがこれらも実際は燕駅から南側の暖地に拠点が移りそちらが主流となっているが、四季島で訪れる観光客が立ち寄る銅製品の工房は燕駅の近くにある。
燕市内もまだ眠りからはさめていないようで乗客は少ない。線路わきには倉庫や町工場、住宅が連なっている。
西燕に到着。ここでおりて115系N40編成を見送り227Mを待つことにする。

227Mは115系N38編成とN35編成との組み合わせとなる。
115系N38編成

短い折り返し時間の後すぐに227Mで東三条へ。

手持ちの鉄道ジャーナルNo153号(1979年11月号)P74に「ローカル線大集会」という記事があり、その記述にこんな文章が(鶴見線という出席者が ・・・要旨を記述するとローカル線は1、日本の隅っこをちょこちょこと走るイメージがあるがそれは違う
2、埋め立て地の工業地帯で客は定期券の通勤車のみで観光ガイドブックには取り上げられない。3、昼間や日曜に乗るとがらがらどんより濁った運河に沿って寂しく走る
4、先日も買い物袋を提げた奥さんが海芝浦で海を眺めて遠くに行きたくてもお金も暇もないので鶴見線に乗って旅情に浸っている・・・)

弥彦線の東三条~吉田間もローカルムードはあまりないが休日朝はがらがら!
もちろん鶴見線とは違い単なる地方交通線の本物のローカル線であるが車窓も関東のはずれのような特長のない近郊地域で住宅街と町工場や倉庫さらにショッピング街が連なるだけで風光明媚ではなく無機質な眺めがあるだけ・・・一般的なイメージのローカル線とは異なる。

燕三条を出た227Mはショッピングセンターやホテルの連なる場所から信濃川を渡って三条市街地へ。木造住宅や低層の建物が続く旧市街地を眺め北三条へ。いくらかの乗車があって東三条に着いた。旧市街地は北陸地方の街並みを感じるが燕三条付近の新興市域は関東のはずれの近郊地域に見えた。
首都圏から来られた方々が弥彦線に乗っても面白みは感じないと考える。しかし115系が潰えかけているいま115系を存分に楽しめる路線となったのは言うまでもなく、それまで話題に上ることのなかった路線が一番輝いている時代であると言えよう。115系の時代もあと1年程度で終焉する。