2020年6月28日日曜日

高原列車はゆく~沼尻軽便鉄道 その2

2020年6月20日 JR磐越西線川桁駅前  日本硫黄沼尻軽便鉄道はこの駅から出ていた。
終点の沼尻まで15.6kmの軽便鉄道だった。 開業が1913年(大正2年)で耶麻軌道と称し日本硫黄の子会社で硫黄鉱石輸送が中心だった。
戦後は石油精製から硫黄を得る技術が発達しコストのかかる硫黄採掘が敬遠され閉山。1967年(昭和42年)9月1日鉄道部門は磐梯急行電鉄として独立したが1968年(昭和43年)10月14日営業を休止しその後1969年(昭和44年)3月27日廃線となった。
川桁駅前にある石碑の裏側には沼尻軽便鉄道の歩み・・・経歴が刻まれている。

駅前の建物・・・・ちかくに沼尻鉄道の駅舎があったと思われる。左の建物もどこか旅館のような雰囲気があった・・・・


この沼尻鉄道を知ったのは1993年(平成5年)の鉄道ダイヤ情報が「磐越西線」の特集を組みその一環として紹介がされてた。
この記事の中にはかつて運転士だった男性と乗客だった女性が廃止後同じ職場に勤務するという記述があり胸を熱くした覚えがあった。

沼尻の保存車両が見たくて磐越西線の列車を撮影したあと(朝方は貨物列車、客車列車が運転されていた)沼尻までドライブをしたが保存車を見つけることができず戻ってきて保存車が沼尻ではなく猪苗代の磐梯山のふもと側にあることを聞いてそちらに向かった。
白津駅の停車場跡 文章の一部が欠落・・・停車場跡は道に面していた。かなり道路わきを走る区間があるようだ。今回は探索をしなかったのでここまでである。(違う目的もあるので今回はここでおしまい)
まだ沼尻駅の元駅舎が残っているようなので機会を作って訪れてみたい。
記念碑の表側 古関裕而作曲の「高原列車はゆく」の歌詞が表示。
 この歌が沼尻鉄道沿線だとわかったのはつい最近だった。(朝ドラ エール)
それまでは高原=信州と思い込んでいたので良い発見だったと思う。
併用軌道から終点に近づくと磐梯山が背後に見えて高原のような地形のところを走る。。
 DC121や客車たちの姿も沼尻付近の風景によく映えていたと言われている。
 硫黄の輸送のほかは中ノ沢温泉や沼尻温泉に向かう観光客や沼尻スキー場に向かう乗客に  愛されていた・・・・
 現在は静まり返った川桁の駅前であるが沼尻鉄道があった時代は線路が多数入り組んでにぎやかだったようだ。
客車のほかは気動車も保有していた。(ガソ101型 雨宮製作所の単短式二軸ガソリン車)さらに1968年(昭和43年)廃止になった仙北鉄道から気動車キハ2401、キハ2402、DC103も入線している。(参考文献 軽便鉄道 松本典久著 保育社 1983年 P9)

川桁駅前に桜の木が多数ありさらに小川が流れているが保育社のカラーブックスのP6~P8には桜並木とDC121牽引の客車2両が小川を渡りバックに残雪の山が見える写真が出ていた。一度は見てみたかった場面である・・・
磐梯山とE721系の列車。この日梅雨前線の北側に東北地方が入ったためか乾いた冷たい風が磐梯山の方角から吹いていた。稲は緑が濃くなり、夏蕎麦の花も咲いているのが確認できた。盆地のへりのこのあたりでも高原列車的な風情を楽しめた。このあたり冬が厳しいのでトタン屋根の住宅が多く北海道にいる気分だった。
軽便は無理でも最新鋭の電車と磐梯山で・・・ここも春は桜が見事のようだ・・・
(E721系ばかりの磐越西線は撮影者を見かけることもない・・・騒がしくなくてありがたい・・・なお東日本大震災で1番の編成と19番の編成が被災して廃車となっている。最新鋭であっても不慮の事故や災害で命を落とすことを忘れてはならない)
このあと磐梯山を愛でながら熱塩駅跡へ向かった。

参考文献 軽便鉄道 松本典久 1983年 保育社カラーブックス
     会津路ローカル線物語 1981年 金田善一監修 歴史春秋社