EF510-22 4090レ
E653系 H202 54M しらゆき4号
秋も深まりすすきもセイタカアワダチソウも見ごろである。これらが終ると紅葉になる。秋は短くすぐに冬になるであろう。
秋も深まりすすきもセイタカアワダチソウも見ごろである。これらが終ると紅葉になる。秋は短くすぐに冬になるであろう。
秋も深まって夜明けが遅くなり撮影しにくい列車が多くなってきた。時雨の日も増えて気分も落ち込むそんな時期。
急がない旅のためゆったりと走っていく。
降り出した雨と風の中を「四季島」が走る。この後さらに風が強くなり夕方からは本降りとなった。季節を分ける寒冷前線が通過して朝方は暑いくらいの陽気が一気に下がって冬の始まりを思わせる気温となってしまった。この日の予報は昼から雨ということだった。寒冷前線通過で朝は夏日でも午後から一気に気温が下がるという。
コンテナ貨物もかつての車扱い列車を統合してコンテナ化したため私有貨車が多くなってきた。どことなく車扱い列車を思わせる編成も多くそれを見るのが楽しみである。
ただ、コンテナに関してはあまり知識もないので調べていく必要がある。
2024年10月14日 E129系 同じような列車ばかりだが今は鉄道があることをありがたく思わなければいけない。各地で存廃問題が起こっており近い将来いくつかの路線は消えていくことになると思われる。その中にはかつて幹線だった路線も含まれている。
信越本線のこの区間比較的人口の多い長岡と新潟を結びその間に中小の町が控え貨物列車も通過ということでまだ幹線の風格を備えている。当面存廃の話題はないと思われる。
青空を背に平野を駆け抜ける。
特急「しらゆき」貴重な優等列車であるが利用は多くない。高速道路を走るマイカーに完全にやられた状態に推移している。今後どうなっていくのか?
鉄道の日 ここで上沼垂色E653系を待つ。県道沿いのコンビニで買ったコーヒーを飲みながら。いまは同じ車両だけが行き交う信越本線。しかし本数は比較的多く退屈はしない。
磐越西線が開業するまえは八十里越えは大動脈となって越後と会津を結び交易がおこなわれた。鉄道開通後は廃道状態だったが現在工事が行われ新しい国道289号の越境ルートとなる。
明治31年に開通した「北越鉄道」は関東への幹線として重宝されたがこの時代はまだ2軸客車が中心だった。開業時は長岡~上野間15時間(新潟からは当日着ができなかった)明治37年三社協定(北越、鉄道院、日本鉄道)で16時間50分、明治40年国有化で15時間40分となっている。令和の現在上越新幹線で2時間台のことを考えると信じられない話である。
信越本線は日本海側の縦貫鉄道として機能し、西日本と東日本、北日本への重要幹線へと発展した。
西潟為蔵は上越線にも尽力されたとあり115系湘南色の写真が一番下に掲載されている。
ほか大河津分水や新潟大学の前身となる旧制高等学校、盲学校の設置にも尽力されているとの事だった。
このような偉人であるがあまり知られていないのが残念である。 活躍ぶりは回顧録「雪月花」に詳細に記載されているという。これは自由民権運動の聖典と言われている。
現在三条市歴史民俗資料館で西潟為蔵展が10月27日まで開催され資料が展示されている。
主な資料
回顧録「雪月花」
八十里越え道路開墾のための調査日誌抜粋
八十里越絵図
保安条例による退去状
為蔵晩年の詩
為蔵古希祝の寄せ書き屏風
(原敬、高橋是清、大倉喜八郎ほかの名前があった)
気が付くとわずかであるが紅葉が見られたり、白鳥の姿も見ることができるようになっている。
日中は快適な気温となって秋の日を満喫できた。ただ3連休のため車の往来が増えているようだった。
午後は青空が広がった。今週の3連休は秋らしい爽やかな日和となる。気温が少し高くなり、所によって雨が降ることも。
昨日仕事を終えて帰宅する際極めて鮮やかな夕焼けが見られた。夏の頃の夕焼けと違って空気が澄んでいるため鮮やかに感じた。ほとんど雲はなかったが高い山は雲に隠れこのあたりは雨が降っていたかもしれない。 短いひと時の秋すぐに冬がやってくる。
刈り取られた水田の稲はふたたび初夏の頃のような緑豊かな水田になった。
EF510-509は北越コーポレーションのコンテナを従えて足早に走り去っていった。
4059レは高速貨Aであり100キロ運転が特徴。比較的大きめなコンテナを多数載せて走る光景は寝台特急亡き今新たな魅力となっている4.