2024年2月29日木曜日

スハフ422029



 1985年2月 北陸本線東滑川

スハフ422029 履歴票   1951年5月 川崎

改造歴 

電気暖房改造 1964年8月4日 土崎工場

近代化改造  1964年10月2日土崎工場

体質改善工事 1974年9月9日

新製配置新潟1951年5月30日 最終配置直江津1980年10月22日

全検1983年6月16日長野工場

2024年2月28日水曜日

近代化改造と体質改善

1984年8月17日 オハ47 2022 豊岡

1961年9月9日に土崎工場でスハ4338のTR47台車をTR23に交換して落成。1969年9月13日に電気暖房改造されオハ472022となる。電気暖房改造されているためいっとき山陰本線以外で運用されたこともあるのかもしれない。車体は青、アルミサッシ改造されている。廃車は1986年3月31日。

 客車の近代化改造は軽量客車ナハ10の登場以降、旧態依然とした印象となったそれ以前の客車の室内を改造したもので白熱灯を蛍光灯、ニス塗りの車内を化粧板で明るくし、窓はアルミにした。後に扇風機も取り付けられて急行列車用として新型車に比べてもそん色ないものとなった。1963年度から1971年度の長期にわたって行われている。

ただし43系は1963年度改造車は、窓枠や扉は在来のものを再利用したものもあり、車体色もブドウ色1号だったとされる。(軽量客車10系も当初ブドウ色だった)

車体外観が大きく変わるのは1964年「車体標記方式規定」改正総裁達512号で接客設備が改良された客車は青15号に塗り替える。

座席車ではナハ11、オハ36、スハ40、スハ44、スハフ43、ナハフ11 近代化改造が済んだ、ナハ10、ナハフ10、オハ35、オハフ33、スハ42、スハフ42、スハ43、スハ45、オハ46、オハ47、スハフ44、オハフ45があった。

体質改善工事とは1970年に新しい検査方式を導入し、新型車両導入で部品の信頼性が部品の信頼性が向上したことから車両の検査周期を延長して保守の合理化を図る狙いで機関車から貨車まですべての車両で検査方式の見直しが行われた。旧型客車については必要な改良を加えることで検査の回帰延長を可能にする工事であった。

12系と20系はそのままの検査回帰、スニ40と41は若干の改造で旧型客車はこの改造が終わったものが新回帰となる。鋼体化客車とスハ32系は行われず、旧回帰のまま廃車としていくこととなった。

座席車では近代化改造済みが体質改善B、近代化工事されていないものが体質改善Cとされた。

近代化改造が接客設備改善が目的、 体質改善工事は合理化が目的だった。このあたり時代背景が大きく異なる。前者は拡大期、後者は縮小期という違いである。

 

2024年2月27日火曜日

EH200-15+DD200-25 配8788レ

2024年2月24日 EH200-15 
DD200-25  

土曜午後の楽しみ。春以降はE001系の「四季島」も加わると考えられる。
 

2024年2月26日月曜日

EF510-1 3098レ 晩冬の越後平野

2024年2月24日 EF510-1 3098レ

後しばらくして田起こしが始まる。おそらくフキノトウも出るころであろう。

梅が咲いている場所もあった。

2024年2月25日日曜日

EF701004牽引1226レ~北陸本線旧型客車最後の春


 1985年2月24日 EF701004〔富山二区〕1226レ 東滑川 右手にぽつんと見える線路は富山地鉄。この1228レは直江津客貨車区の新21運用5両と富山客車区の金付13両をつないだ8連の通勤通学列車。平日はこのあたりから混み始めると考えられる。

現在この区間はあいの風とやま鉄道の路線で521系の電車で運転されている。長くても4連くらいと思われるので当時でも破格の長大編成であった。

客車は全て青い車体のものが運用され緩急車はオハフ33またはスハフ42、中間車はオハ46、オハ47、スハ42、スハ40といった内容。この列車にはスハ402102が入っていた。

EF70はこのころ3両だけの稼働とされていて13、18、1004が通常動いていた。ただしEF81の運用に入っているものもありあと数両動いていたようだった。この列車はEF81運用にEF70が入っていた。

いずれも廃止まで一か月を切っていて最後の早春を駆け抜けていた。

2024年2月24日土曜日

スハ402102 この客車が消えて39年


 1985年2月24日 北陸本線東滑川 230レ スハ402102 新ナオ

この写真は再掲載している。

運用終了まで一か月を切っていた北陸本線客車列車。 最後1両残ったスハ40をとらえることができた。かつていた残り2両の方は1982年11月ダイヤ改正で長野工場で鉄塊に帰り、スハ402102だけが残存していた。

この客車の履歴票を調べたことがあり記録をここに記す。

1950年10月18日 日本車輛 スハ42 102として登場。1960年3月31日 土崎工場 で軽量化改造がされオハ36102となる。スハ42はオハ35のTR40台車を用いて重くなったもので車内もオハ35と同じ、オハ36に改造する際に内部は軽量化された。扉もナハ10系と同じものとなっている。座席は43系と同じとなり快適になったと言われている。

1938年5月30日に長野工場で電気暖房改造がされ重量増加でスハ402102となった。 

1950年に落成した際には宮原に配置、1952年に品川、1953年に新潟 以降新潟管内を渡り歩き1980年10月22日に酒田から直江津に転属している。

碓氷峠の通過可能工事は1964年9月30日に長野工場で、体質改善工事は1977年7月25日 酒田配置時代に土崎工場で施行されている。トイレの締め切りは1983年7月31日に行われた。

客車履歴票の書き写しは苦しいが(ただ手を動かすだけのため)記載が完了した際は発見が多くあり感動ものだった。

ただ、窓の向こうを変わった列車が通り過ぎて行ってもただ眺めて過ごすだけであったが。

この履歴票調査の「所作」については鉄道ピクトリアル2002年7月 №719特集スハ43系ⅡP28「客車履歴票」との関わりあい雑感 勝村彰氏 で詳しく語られている。ご関心ある方は一読をください。

この勝村氏の文章中に「窓の外を行き来する客車にカメラを向けることなく、履歴票の書き写しをするのは根気を要するものだった」という記述がある。撮影活動と調査活動の分水嶺を垣間見ることができる。いま客車研究会へ文章を一篇を書き上げ送っており数日前にゲラが送られてきた、この研究会はプロ級の方の集まりであり当方の駄文が掲載されることは非常に心苦しいがどのようになっているか不安と楽しみが交錯するところである。

2024年2月23日金曜日

事実を突き止める~スハ402105(新ナオ)


 1982年11月 信越本線鯨波 旧型客車列車

昨日の写真を編集して客車を目立たたせてみた。形式は左側オハフ33、茶色はオハ35、右手の切れているものはスハ40のようだ。

スハ40はオハ35のアップグレード版と考えられる。1948年から製造開始。車内の構造はオハ35と同様だが台車が重いTR40に代わったためスハ42という形式があてがわれた。緩急車はスハフ41という同様の構造の車両だったが、一等寝台車へ台車を交換して重量が軽くなりオハフ33となって形式消滅した。

スハ42は1960年前後に車体を軽量化してオハ36と改められるが電気暖房化することで重くなりスハ40となった。このためオハ36には電気暖房の2000番台は存在しなかったが標記の記載ミスでオハ362000の番号を持ったものが一時あったという。

スハ40の外観は扉が軽量客車10系のものと同じ「日の字」窓、窓がサッシ、台車TR40で区別がついた。

急行「妙高」9号と10号の石打疎開と廃車回送は2編成あり、この回送はスハ40の組まれた位置でオハフ332329、オハ352601、スハ402105、オハ352046、オハフ332530だった。石打への疎開は11月13日。この日の急行「妙高」はオハ35系ばかりでほとんど普通列車レベルの急行だった。

もう1編成はオハフ332438、オハ532793、オハ472238、スハ402084、オハフ332034で11月14日に石打に疎開がされている。

直江津にはスハ40がもう1両あり、スハ402102が北陸本線旧型客車普通列車の電車置き換えまで走り続けることになる。

雑然とした見映えのしない写真であるが事実関係を深く追求すると意外なことが見えてくることを感じた。