2024年2月24日土曜日

スハ402102 この客車が消えて39年


 1985年2月24日 北陸本線東滑川 230レ スハ402102 新ナオ

この写真は再掲載している。

運用終了まで一か月を切っていた北陸本線客車列車。 最後1両残ったスハ40をとらえることができた。かつていた残り2両の方は1982年11月ダイヤ改正で長野工場で鉄塊に帰り、スハ402102だけが残存していた。

この客車の履歴票を調べたことがあり記録をここに記す。

1950年10月18日 日本車輛 スハ42 102として登場。1960年3月31日 土崎工場 で軽量化改造がされオハ36102となる。スハ42はオハ35のTR40台車を用いて重くなったもので車内もオハ35と同じ、オハ36に改造する際に内部は軽量化された。扉もナハ10系と同じものとなっている。座席は43系と同じとなり快適になったと言われている。

1938年5月30日に長野工場で電気暖房改造がされ重量増加でスハ402102となった。 

1950年に落成した際には宮原に配置、1952年に品川、1953年に新潟 以降新潟管内を渡り歩き1980年10月22日に酒田から直江津に転属している。

碓氷峠の通過可能工事は1964年9月30日に長野工場で、体質改善工事は1977年7月25日 酒田配置時代に土崎工場で施行されている。トイレの締め切りは1983年7月31日に行われた。

客車履歴票の書き写しは苦しいが(ただ手を動かすだけのため)記載が完了した際は発見が多くあり感動ものだった。

ただ、窓の向こうを変わった列車が通り過ぎて行ってもただ眺めて過ごすだけであったが。

この履歴票調査の「所作」については鉄道ピクトリアル2002年7月 №719特集スハ43系ⅡP28「客車履歴票」との関わりあい雑感 勝村彰氏 で詳しく語られている。ご関心ある方は一読をください。

この勝村氏の文章中に「窓の外を行き来する客車にカメラを向けることなく、履歴票の書き写しをするのは根気を要するものだった」という記述がある。撮影活動と調査活動の分水嶺を垣間見ることができる。いま客車研究会へ文章を一篇を書き上げ送っており数日前にゲラが送られてきた、この研究会はプロ級の方の集まりであり当方の駄文が掲載されることは非常に心苦しいがどのようになっているか不安と楽しみが交錯するところである。