20日に新発田を出立され水原で昼食、新津に宿泊、21日は加茂で昼食、保内、大崎を経由して三条町の東本願寺別院に宿泊。画像は行在所があったことを示す石碑である。
休憩は地元有力者の屋敷、寺社や学校が充てられた。
明治天皇来県は歓迎されたが巡幸の道路の整備などが優先され生活道路や橋で損壊箇所は後回しにされたこと、費用の増大が問題になった。県費は予算当初4万円が実際には10万円になったことや行在所近接の貸し座敷業者は費用負担をよく思わなかったとの記録がある。なにより経費の7割近くの負担が地元であった。
さて宮内省の役人近藤芳樹の記した三条の記述
暮れ近くなりて三條につきぬ。ここは富める家もあまたならびて 新潟、柏崎寄り豊かに見えたり。
さるままに学校の生徒も、おとこ、おんな、皆うるわしくよそおいたるが、ところどころにあまたたちならべり。
ここのかくにぎはえるは 信濃川、五十嵐川という大きなるながれあり、上長岡に上りし、
下新潟にくだす。
ふねの竿、鍛冶のおとたゆるまなく、海の辺にこぞあらね、いとたよりよきところなればなり。
行在所は東本願寺別院にて大きなる寺なり。
9月21日夕食
つけ焼き鮎、御汁、鱚子、鉢盛(煎揚炙り鯛 丸煮茄子、塩焼興津新しょうが、鰹煮、里芋)葛引胡瓜だいこん 砂糖煮粒小豆)
9月22日朝食
下塩鯛、御汁、ちこ焼き、茄子、煎り上げ鮭、鰹煮だいこん
中食(弁当)
味噌漬け鮭、塩焼き鱸、蕪、ゆり根、握りご飯
調理は保内長泉寺井戸水を使用した。
9月22日は三条を出立、三条橋を渡って松尾与十郎が治水のため明治9年に築いた五十嵐川左岸を半里ほど進んで山手を行く街道へ入り月岡如法寺で天然ガス発生の様子を見聞し昼食の地見附に向かわれた。
宮内庁役人の記述はまだ鉄道ができる前の川港で賑わう全盛期の三条の様子である。
三条市史下巻 1983年 三条市から引用