2021年6月13日日曜日

エデンの園への鉄路~奥羽本線福島~山形間関連年表

 

1983年11月1日 奥羽本線庭坂

1899年明治32年5月19日 福島~米沢間開業
1900年明治33年4月21日 米沢~赤湯開業
1901年明治34年2月15日 赤湯~上山間開業
1901年明治34年4月11日 上山~山形間開業
1949年昭和24年4月29日 福島~米沢間直流電化 EF15 EF16
1965年昭和40年     EF16をEF64に置き換える 

1968年昭和43年9月22日 福島~米沢間交流電化になる EF71、ED78投入

              庭坂~赤岩 大沢~関根複線化

1985年5月 奥羽本線 庭坂~赤岩
 

1968年昭和43年9月23日   米沢~山形間交流電化完成
1970年昭和45年6月30日 赤岩~板谷複線化
1971年昭和46年9月20日 板谷~大沢複線化
1982年昭和57年3月29日 福島~笹木野複線化
1990年平成2年3月10日  赤岩駅スイッチバック廃止
1990年平成2年9月1日  板谷、峠、大沢のスイッチバック廃止
1992年平成4年7月1日  山形新幹線開業
1999年平成11年3月12日 羽前千歳~漆山間JR貨物第二種鉄道事業廃止
1999年平成11年7月1日 蔵王~山形間JR貨物第二種鉄道事業廃止
2002年平成14年4月1日 仙山線の貨物廃止 ED78廃止

明治11年に訪れたイザベラバードが「エデンの園」と感嘆した山形への鉄路の歴史である。

彼女が来日してから22年以上経過してからこの地へも鉄道が敷かれる。以降文明が関東から一気に押し寄せてきたのであろう。

令和の現在も美しさは変わらないと思うが交通体系の整備や物流の変化でイギリス以上に文明国になったかもしれない。となると彼女が今生きていれば関心は持たないことだろう。

 

2021年6月12日土曜日

イザベラバード恐るべし

2021年5月8日 米坂線 越後金丸~小国 キハ110の2連

日本奥地紀行の著者イザベラバードは明治11年に来日。東京から青森まで日光、会津、津川、新潟、小国(山形県)手の子、赤湯、山形、新庄、横手、秋田、大館、青森と旅をする。(地名は主要な場所で実際はもっと多い)

新潟県内は津川から阿賀野川を船で移動し新潟市内で過ごし木崎、築地、黒川、花立と今の国道113号線の経路で山形県へ。蚤や蚊さらに外国人を珍しがる多くの人々やなじめない食事にきれいではない宿、馬や牛の背に揺られてときに悪路を歩いて北上する旅である。

イザベラバードが来日した時の年齢は40代後半、案内人は伊藤鶴吉を伴い旅をする。

さてこの日本奥地紀行を読もうと思ったきっかけは江戸期から明治にかけての旅の形態が理解しがたがったからである。この時代鉄道はまだなく移動は歩きか馬の背、都市部は人力車。町の様子も村の様子も現代とは全く違う。イメージしにくいことだらけ。

本書を読むことで当時の様子が氷解できたことである。宿場町の様子、宿の様子、県庁所在地の様子など・・・

まだまだ奥地は江戸時代かそれ以前の状態・・・衛生面も悪く人々は疥癬や疱瘡などに苦しみ食べるものも粗末・・・・イザベラバードもおいしい食事ができたときは文面が明るくなる。しかし逆もあり・・・・

プライバシーの欠如と様々な悪臭、蚤と蚊という苦痛の種だけは改善されることがないだろうと恐れつつの旅であった。
 

2021年6月11日金曜日

イザベラバードの旅

2019年5月4日 阿賀野川とキハ110

明治11年7月イギリス人の旅行者イザベラバードが日光から会津盆地を経て峠をいくつも越えて津川の宿から一路新潟へ。移動は阿賀野川だった。朝出発して夕方新潟に到着のスケジュール。

移動は悪路と汚れた宿。蚤やシラミの害虫。奥地住民の「のぞき見」などプライバシーのないこと。そしてみそ汁やたくあんなど匂いのきつい食べ物との闘いだった。

新潟市の印象は「今まで見た町の中で最も整然として清潔」な「純日本式の旧市街地」

県庁、裁判所、学校、兵舎、銀行、病院などの西洋建築の建物は文明開化の姿を見せているがけばけばしくて味気なく見劣りしたということだった。

新潟を後に海岸伝いに北上して」荒川をさかのぼって山形県へさらに悪路を駄馬などに揺られ秋田、青森経由で北海道に向かう・・・・まだ鉄道の未発達な頃の話である。

 

2021年6月6日日曜日

八十里越えの入り口~旧下田村吉ケ平

2018年9月16日 三条市遅場から𠮷ケ平方向 この先には渓流釣り愛好家の𠮷ケ平フィッシングパークがある。吉ケ平集落は1970年急激な過疎化を原因として廃村となった。

この狭い道はその地域に通じる道路である。北越戊辰戦争で負傷した河井継之助もこの道を通って会津へ向かっているが八十里越えを降りた会津の塩沢で亡くなっている。

八十里越えは越後と会津を結ぶ街道で磐越西線開通前までは主要な街道だった。越後から会津へ人や物資が運ばれ(越後からは塩、金物、雑貨小間物、元結、渋紙、紬や反物、基金の際の救援米が 会津からは薬用人参、麻、真綿、蚕、煙草 ぜんまい 生糸 鳥もち)越後から日光へ参拝する人や大工、木挽、杜氏、医師、宗教者、農民、会津から越後に買い付けに行く商人や荷担ぎの人、会津から越後に帰る人等)

江戸時代は葎谷(この写真の場所より三条市内寄り集落)に人や物資の監視をする口留番所が設置され、八十里越えを降りた会津にも叶津口留番所があった。 

会津藩の禁制品(移出禁止)は巣鷹、駒、漆、鉛、熊の皮、紙。ほかに女性の監視はきわめて厳しいことであった。(入り鉄砲と出女 )


明治以降は会津から越後 生糸、蚕種、麻寧、ゼンマイ、亜鉛、銅、熊毛皮、ウサギ毛皮

越後から会津 海産物、魚類、砂糖、天草、塩、油、反物、雑貨など。

明治27年に新道が完成後はビール、葡萄酒、牛缶、鮭缶、亀の子たわし、鉛筆。これらは高貴平銅山、飯井沢銅山の関係者用だった。

人の往来も会津からは新潟の大学病院、三条や栃尾の眼科、歯科医、弥彦参り、岩室温泉、新潟への遠足

越後からは商人、労働者(鉱山関係)など

1901年(明治34年)ひと月の通行者は18,500人だった。

以降磐越西線が全通するとそちらに流れが移行し八十里越えは衰退していった。


現在は国道289号線が工事を行っていて難所八十里越えも2026年には開通する見込みである。ただし𠮷ケ平は経由しない。


鉄道では越後鉄道が越後長沢から只見まで八十里越え経由で結ぶ構想を持っていたが実現することはなかった。

2021年6月4日金曜日

大面村史から~日清、日露戦争招集の談

2021年4月23日 E129系 421M 背後の防風林は鉄道省によって設置された。

大面村(のちの栄町で現三条市)の男性の談

日清戦争招集 明治27年9月26日 家を発って三条、加茂、村松、津川を通って、

会津若松まで歩き、猪苗代湖は汽船で渡り再び本宮まで歩いてここから日本鉄道に乗り31日に仙台に到着した。

日露戦争招集 明治37年11月12日 午前9時の上り列車で帯織駅を出発し、柏崎、直江津、高崎を走り、高崎から日本鉄道に乗り換え14日午前2時に仙台に到着した。

切符は帯織から高崎間2円27銭 高崎から仙台1円50銭の別払い。

明治38年8月 日本鉄道、鉄道院、北越鉄道の3社協定の普通列車

新潟~東京間は17時間かかった。
 

2021年6月3日木曜日

歩きまくった青春~大正時代の農家の青年続き

2019年 彌彦神社

8月24日 以前の校長先生を訪ねて吉田の粟生津へ行き一泊(この青年が世話になった方)

8月25日 彌彦神社を参拝し山を登り、寺泊野積の西生寺の弘智法印を参拝し、大土木工事である大河津分水を見学して寺泊に一泊。

8月26日 大河津分水の閘門を見て驚き、午後2時今の分水の熊の森から信濃川の船に乗って4時に三条に到着。

いまだと車で半日もかからないコースであったが移動手段が限られた大正時代の人たちにとっては貴重な小旅行だった。むろん歩いての移動で最後に川汽船で帰路につかれたようだ。まだ越後線も弥彦線もなく街道筋の道路も狭く未舗装な時代。頼りになるのは自分の足だけ。そんな時代だった。
 

2021年6月2日水曜日

歩きまくった青春!大正時代の農家の男性の記憶

2019年11月3日 JR東日本弥彦駅

三条市史下巻P536から 大崎村在住の青年の日誌より

この時代の農業はまさに肉体労働の連続。現代のような機械農業ではなかった。

3月下旬薪の伐採に始まり、4月には田植えをする稲の苗を作る苗代田をうって、桑であぜ塗、2番塗りなどを行い、普通田のあぜ塗など田植前の作業に忙殺され、田植は6月前から開始・・・人力のみのため手間がかかるわけであるが当時の方は機械農業の時代が来ることを想像されたこともなかったかもしれない。

つらい農業の合間に祭りや田植を終えた後ひと時の休みが出るがこの時代の若い方々旺盛に新時代の技術などの探訪をされていたようだった。

6月24日 6人で栃尾の秋葉社(権現様)に参る。朝7時半出発、11時半に到着。

昼食後見附道路(栃尾から見附に行く街道)を馳せ途中雨風、草鞋を求め休憩し、間もなく出立、北潟(現三条市、かつての栄町)で石油地を見学する。吉野屋(三条市、かつての栄町)風呂屋にて中食を10銭(1000円くらい?)たべて8時過ぎに帰宅する。

当時道路の整備もなくこれだけ歩けるのはすごいことである。