1999年4月29日 磐越西線 新関付近
この日ばんえつ物語下り新津行きを待っている際に先行してやってきたキハ48523ほか40系気動車5連。このころは気動車5連が当たり前に見られた。これ以降年を追うごとに編成は短くなっていくが。この列車は新津と馬下の区間の夕方の通勤通学向けの列車だった。退勤者を乗せて各駅に届ける重責を担っていた。
現在キハ40系はなくなり、GV-E400の4連がその使命を引き継いでいる。
この日ばんえつ物語下り新津行きを待っている際に先行してやってきたキハ48523ほか40系気動車5連。このころは気動車5連が当たり前に見られた。これ以降年を追うごとに編成は短くなっていくが。この列車は新津と馬下の区間の夕方の通勤通学向けの列車だった。退勤者を乗せて各駅に届ける重責を担っていた。
現在キハ40系はなくなり、GV-E400の4連がその使命を引き継いでいる。
柏崎から開眼を離れ信越本線は平野を目指す。長岡に向かう間に小さな峠越えがある。塚山峠で信越本線の前身「北越鉄道」はこの区間の工事で資金を使い果たし、新潟駅まで乗りいれることができなくなったと言われている。
複線電化の線路は塚山トンネルで一気に峠を貫くが明治の頃の土木技術ではトンネル工事は厳しいものであった。現在も旧線のトンネルが残っている。
画像は並行する道路で塚山峠を越えてきて長鳥駅を見下ろす見晴らし台から。新緑の山峡と水田、代掻きが終わって田植えを待つばかり・・
長鳥駅は秘境駅の風情があるが駅前には人家が多数あり、この画像撮影の頃は商店もあったように記憶している。平野部の東光寺と同等レベルだったようだ。
特急「雷鳥」はグレードアップ編成となり収容人数を担保しなければならない自由席はそのままだったが指定席は座席が改善されハイデッカー構造となっていた。この区間多くの乗客でごった返し長岡で上越新幹線に乗り継ぐ混雑区間。それは1997年3月の北越急行開業前まで続いた。
EF64一般型が信越本線に姿を見せるようになったのは1985年11月。以降臨時列車牽引で各地のEF64が現れるようになった。長野運転所には41号と42号が在籍し、時折現れていた。
現在直江津で信越本線は切られ、長野方面も北陸方面も直通が無くなり信越本線の宮内~直江津間もローカル線になってしまった。他の線区からの旅客列車の入込はなく、まして機関車牽引の客車列車などありえないこととなった。
現在の信越本線宮内~直江津間は輸送密度も2000人台まで落ち込みこれは国鉄時代の廃止基準と同じになってしまった。
2000年8月15日 青森 583系
臨時「はつかり」 すでに583系の定期運用はなかったが多客期に運転がされていた。新潟から485系「いなほ」で6時間かけて青森駅に到着。出迎えてくれたのはこの列車だった。
1949年スロハ3149を改造し、ワイヤー式腕木で測定し、1966年牽き棒式に改造。1987年1月廃車。ながらく保存を目的に新津車両所の敷地に保管されていたが新津車両所の車両新造工場への移行に伴い保管場所を失い解体されてしまった。
新津からDD51牽引客車列車で会津若松に到着すると交流機関車ED77や455系急行ばんだいの姿があり、東北地方に来たことを実感した。磐越西線非電化区間は郡山所属の客車列車のほか新潟のキハ35、キハ45なども使われていて会津若松はちょうど信越と東北の結節地点を印象付けた。
ED771は国鉄末期に余剰車両となり廃車されJRには引き継がれなかった。現在は解体されて現存しない。
参考資料 沖田祐作著機関車表から
ED771 日立製作所水戸工場=194091-1 1967-05-12 E75.0tB2B(1067)
車歴;1967-05-12製造→納入;国鉄;ED771→配属;東北支社→配置;福島→
1987-02-07廃車;福島→保存;宮城県利府町「JR東日本利府駅」;ED771→2005-03-00移管保存;宮城県利府町「仙台総合車両センター」;
化学薬品主体の専用貨物列車。EF81もタンク車も今はない。2008年のダイヤ改正で廃止された。
EF81111は僚機152とともに赤色2号に塗装された。当時は目立つ存在だった。
参考資料 沖田祐作著機関車表から引用
EF81111 日立製作所水戸工場=10310-1 1974-08-29 E100.8tBBB(1067)
車歴;1974-08-29製造→納入;国鉄;EF81111→配属;関西支社→
1974-08-29配置;敦賀二→1984-02-01富山二→1986-11-03長岡→
1987-04-01JR東日本;EF81111→配置;長岡運転所→
1997-09-05改称;長岡運転区→2003-08-06廃車;長岡運転区
会津盆地の霧はこの付近まで及んでいた。気温差のある春はこのような光景が見られる。
郡山行き上り普通列車が霧の中から現れた。ED7715に牽引された50系4連。
参考資料 沖田祐作著機関車表より引用
ED7715 三菱重工業三原工場=1784/990=三菱電機 1970-04-28 E75.0tB2B(1067)
車歴;1970-04-28製造→納入;国鉄;ED7715→配属;東北支社→1970-04-28配置;福島
1987-04-01JR東日本;ED7715→配置;福島運転所→1993-09-07仙台電車区→
1993-11-01廃車;仙台電車区
ED7715(福)牽引50系 郡山行き普通列車
春から初夏に移り変わるころ、快晴の空とわずかに雪が残る磐梯山を背に走る。うららかな春の陽気の磐越西線。この日は磐越西線に「サロン会津路 」14系欧風サロンエクスプレス東京の臨時列車を目当てに訪れた。ED7715は当該形式の最終番号機。50系は4両中トイレ付緩急車のオハ50が3両はいる編成だった。客車ではJRマークは緩急車と電源車に貼付されていた。(欧風客車などイベント車は違う規則のようで貼付されていないものも多かった)ED77はJRマークが省略され奥羽本線EF71もなかった。
この日は貨物の運転はなかったが快速あがのは新津のキハ5連が郡山まで運転され急行色と新潟色(115系N37編成色)の混色だった。サロン会津路撮影後猪苗代の書店で「磐越西線」という書籍とアーネストヘミングウェイの遺作「エデンの園」を見かけたが帰りのガソリン代の関係で買うことができなかった・・・・「磐越西線」の書籍は後年入手、アーネストヘミングウェイの遺作「エデンの園」も入手できたが1961年に亡くなってから30年近くなってまだ作品が出版されたことに驚いたものだった。
並行する道路から169系が見えたので・・・この編成は車両不足で借り入れたものだった。この年E127系の導入が開始され、165系も検査が切れたものから廃車になっていった。その間のつなぎとして169系を長野から借りてしのいでいた。
169系は165系の碓氷峠対応車でEF63と強調運転できる車両。長野~上野間の急行「信州」などで運用された。
167系4連の海水浴臨時列車。7月の後半から8月上旬の運転で信州や首都圏から日本海沿岸に多くの海水浴利用者を乗せて臨時列車が運転されていた。
この編成は信州から日本海を目指す「スカイビーチ」で 小諸~柏崎の運転。167系は田町電車区所属。
167系は修学旅行電車として知られたがいったん湘南色となったあと画像の塗装に変更。車内もリクライニング席となっていた。クハ167の前面も補強がされたりライトが旧型前照灯の台座を流用したものがあった。167系「スカイビーチ」は当初湘南色の編成だったが1990年代に改造車に変わった。
山陽本線岡山付近は画像の115系変形車(600番代)が 多数走る路線で見ていて飽きることが無かった。
117系サンライナー 岡山~福山間を結ぶ都市間連絡快速列車。1989年3月11日SUnライナーとして運転開始。115系と213系が用いられた。117系が導入されたのは1992年のこと。京阪神の頃とは異なる塗装で快速運転の使命を担っていた。30分に1本の運行。2016年に画像の塗装から黄色1色となり2021年に大幅減便、2022年ダイヤ改正で運転が終了。
この列車は都市型ワンマン列車とされ車内では運賃の収受を行わなかった。自動改札機が設置された駅のみに停車する処置がとられていたためである。
山陽本線も岡山から福山の区間は人口も多く人の移動も旺盛に行われて列車者利用も多かった。
岡山から出雲市に向かう381系「やくも」4連に編成が減車されたがグリーン車サロ381が健在な頃。伯備線では振り子運転をするためパンタグラフを2上げて高速運転に供えていた。
閑散期のため4連や3連の特急であり物足りない印象だった。しかし繁忙期には編成が増結された。
田植が終わったばかりの水田地帯と特急「やくも」ほかに貨物列車が頻繁に走り115系や103系の普通列車、117系快速サンライナーもあり大動脈風格の衰えない山陽本線で初夏のひと時を過ごした。
1950年10月18日 日車、1960年3月30日土崎 オハ36102に改造、1963年5月30日長野工場スハ402102となる。用途廃止は1985年ダイヤ改正後。
スハ42は35系客車の一員だったがオハ36に改造する際 車内も一新され43系と同等となった。軽量化で一旦はスハからオハになったものの電気暖房改造でスハに戻った。
1950年の落成時は大阪の宮原客車区に置かれ、その後1952年に品川に移動、1953年新潟に転入し長岡、酒田、新津の各区を渡り歩いた。
桜と電機 多くの人に好まれるであろう組み合わせ。列車と桜は相性がよく多くの作品を見ることができる。
もう桜は全て散ってしまい来年の楽しみになってしまった。今年はEH200と桜の組み合わせは実現していない。
2023年の桜は3月下旬爆発的に開花しすぐに散っていった。
朝の魚沼線列車。来迎寺から121D~122Dで西小千谷往復後、123D~124Dで片貝まで、125D~126Dで西小千谷往復したのち来迎寺から長岡へ回送され機関区で待機し夕方再び回送されて129D~130D、131D~132Dと走り長岡に回送。客車列車1323レ最後部に連結されて新潟に回送する運用。朝の列車は前日の急行「うおの」に連結され長岡にて切り離して機関区取り込みであった。 1983年の時点では十日町快速、信越本線下り普通455Dに変更されている。画像の西小千谷は小千谷市街はずれで人けもない場所だった。現在は商業地となっている。
魚沼線運用は気動車2連でキハ58、キハ52、キハ47が末期に用いられていた。
荷物列車の先頭に立つEF5860からは暖房の蒸気が見える。大阪22時40分発汐留行き。1983年に廃車解体されるまでお召列車予備機という栄光を捨てひたすら荷物列車の牽引の従事していた。
沖田祐作著機関車表から
EF5860 東芝府中工場=301256-1 1953-07-30 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1953-07-27東芝構内試運転→1953-07-14機関車試運転 国鉄EF5860・EF5861号機関車
品川~平塚駅間にて試運転実施→1953-07-30公式試運転実施→1953-07-30竣工→
1953-07-31納入;国鉄;EF5860→配属[達573];静岡局→1953-07-30配置;浜松→
1958-04-09事故東海道線 国鉄東海道線大垣駅にてEF5860号機関車電動発電機直列抵抗折
損→1967-05-25事故;東海道線浜松衝突事故第2位左台枠折損→
1983-04-01国鉄名古屋鉄道局 EF5860号機関車による「ミステリー401」列車運転
EF5860号機関車のお別れ運転→1983-05-17廃車;浜松
EF81〔東新潟〕に連なる荷物車の編成はマニ44大荷255、マニ36大荷53、マニ36名荷10、マニ50大荷54、マニ44大荷256、ワキ8000?大荷253、オユ大郵4、マニ大航2、大航1、金航1、新航1 以上の12両で運転。この画像は撮影名所を走る列車を単に撮っただけという代物で編成の欠落があるため資料として不相当となるが撮影当時はそんなことは考えていなかった。(今の私と撮影時の私がもう全くの別人になっている一例)
大荷、大航、大郵は大阪鉄道管理局所属で 宮原客車区所属。名荷は名古屋鉄道管理局米原客貨車区所属、金航は金沢鉄道管理局敦賀客貨車区、新航は新潟鉄道管理局直江津客貨車区所属の荷物車等 荷は荷物車。郵は郵便車、航は青函連絡船航送を表す。
管理局の頭文字と車種を組み合わせ、大荷いくついくつという運用番号が作成された。行先も1両ごとに異なり、200番代の運用番号はパレット式(荷物を積むかごで台車付き)の取り扱いを意味した。
新航1は1980年当時で直江津客貨車区のマニ50(2108、2109、2131~2136)が荷4047レで直江津7時32分発~青森 22時51分着、青函連絡船1便青森港0時35分出航、函館4時25分着、函館14時45分発125レ札幌23時48分荷44レで岩見沢へ。返しは岩見沢荷44レで函館21時49分、青函連絡船2便0時40分出港青森に4時30分、荷4048レで青森を0時57分発、秋田4時40分、秋田から834レ新津15時37分着。新津19時26分発荷2042レで長岡20時53分着ここで切り離されて信越本線522レで長岡4時40分発直江津は6時27分着で長い旅路を終える。上りは定期普通列車に連結されローカル輸送中心だったようだ。
下りは北陸から北海道を急ぎ、上りは北海道から時間を駆けて帰るダイヤだった。上りのダイヤは細かい切り離しが多く運用経路を見つけるのに難航した。
1982年11月15日改正で稚内往復に変更され1984年2月改正で廃止された。
長岡駅で待機する気動車2連。3番線と4番線の間にある通過線。長岡駅を通過する貨物列車や寝台特急「日本海」が通る線路。夕方入れ換えで長岡機関区から入線し来迎寺に向けて発車していく。魚沼線は翌年4月1日廃止されるのでこの光景は1年後見られなくなった。どこでも見ることができたキハ58と長岡駅ではレアな一般型キハ47。一般型はほかにキハ35、45、52もあったが1983年の時点では見かけなかった。
キハ58の後ろの115系は新潟行き普通列車で14両の長大編成。実際客扱は8両のみで残り6両は回送だった。
大阪~青森間に運転されていた荷物列車に連結されていた1両。大航とは大阪鉄道管理局の航送荷物車を現していた。急荷4031レに連結された大航2運用のマニ50は大阪~稚内間の運用だった。この荷物列車はあと1週間後に廃止されるがこの画像撮影時点では平常通りに運転されていた。
1984年2月改正までは直江津~稚内間「新航1」の運用もあり直江津のマニが稚内に向けて運用されていた。
今はこの付近に乗場が増設されて奈良線の乗り場となっている。
スロ81系は鋼体化改造客車60系客車からの改造車で品川と宮原の2編成が画像と同じ車体様式であった。(旧型客車であるが城帯を入れ12系と同様の塗装となったもの)この頃12系改造のお座敷客車も多く登場し今では古豪となって後継 の車両が登場するといううわさもあった。
この81系お座敷編成は1979年9月高砂工場にて落成している。1986年に後継の14系お座敷「みやび」に置き換えられ引退。
鳥栖15時34分発長崎20時17分着
かつて準急型1等車キロ25の格下げ車キハ26400番代を通勤仕様としたもの。旧型国電クハ47のように全ロングシートであった。車体は朱色5号1色。長崎機関区配置。
履歴はキロ2540として1960年4月18日帝国車輛で落成し北海道の苗場機関区に配置。車内は回転式クロスシートで電車のサロ110など同様だった。
普通車に格下げされキハ26440に なるがその時点での配置は美濃太田機関区。1968年7月23日のこと。改造は名古屋工場。1976年6月30日小倉工場で通勤仕様の改造がされ、筑肥線の運用のため東唐津配置その後長崎機関区に転属し1983年10月30日廃車となっている。
この車両を見かけたときには朱色1色で優等車両の面影は窓の配列だけ車内ロングシートとあれた雰囲気が漂い近づく気にもならずにさっさとその場を立ち去った記憶がある。
当時の配置表によると長崎機関区には606~613と615、616と10両も配置があった。この改造はキハ26400番代だけ行われそれ以外はされなかった。また九州のみで行われたのみ。
優等車両格下げ車の通勤仕様変更は珍しいことではなく客車では旧1等車のオールロングシート改造のオハ41型が多数存在していた。
入れ換え中のキハ40555とキハ55。キハ40はキハ20の置き換えに前年美濃太田機関区から転入。製造は新潟鉄工で80年2月8日。このまま長野でJR東日本に移行し1992年八戸に転出した。
キハ55は1982年以降各地からの転入キハ58に置き換えられてJR東日本に承継されたものはなかった。