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2025年9月3日水曜日

蒲原鉄道の線路が消えて26年が過ぎた・・・・

1999年10月5日 蒲原鉄道 村松駅 前日に最後の運転を終えて使命を終えた電車。左はモハ61、ヘッドマークの付いたモハ71 尾久に除雪機械と古豪モハ12

1999年10月3日 蒲原鉄道 村松~今泉 おなごり乗車の客が多く増結して対応に当たった。


 

1983年5月3日 冬鳥越~土倉間 モハ41

村松から加茂の区間は変化にとんだ風景が楽しめた。しかし人家が少なくこの時点で廃止が決まっていた・・・

 

今も残る加茂~陣ケ峰間の線路後。この付近はほとんどが宅地となって住宅や倉庫になってしまった。しかし信越本線をオーバークロスするための橋梁跡と旧陣ケ峰駅の築堤は残っていて往時をしのばせている。

村松~加茂間 1985年3月31日限り 廃止後40年経過

五泉~村松間 1999年10月3日限り 廃止後26年経過

加茂市の図書館で蒲原鉄道に関する詳細な資料を見つけた。これらを読むながら往年の時代を思い出してみたい・・・ 

 

2025年4月26日土曜日

余生~新たな使命を生きる EF5861 


 2025年1月25日 さいたま市 鉄道博物館

昨年収蔵されたEF5861 入り口付近の線路が見える場所にて展示されている。この日はお召列車牽引の時代が再現されて、日章旗が取り付けられていた。

多くの家族連れ、友人同士、恋人同士といった方々が記念撮影などをされていた。

「撮り鉄」と言われている方々は博物館収蔵の車両に関心が払われることはなくあまり見かけなかった。

2004年5月に見かけてから、もう21年が経過した。越後路にやってきて新潟駅開業記念列車を牽引したものを見たのが最後で、以降首都圏に撮影に行くこともなかった‥‥

当日はこの機関車のほか、目的の車両を見聞し夕方帰宅した・・・・・

EF5861の新たな使命は展示されることで多くの方々にかつての活躍を伝えること、線路沿いを走る後進の列車たちを見守ることである。次のステップを静かに歩み始めたEF5861・・・

2025年2月28日金曜日

前途多難な整備新幹線


 2025年1月25日 E7系(W7系) 上野~大宮

 

前途多難な整備新幹線 とは本年6月号で休刊となる鉄道ジャーナルの4月号特集記事のタイトル。この雑誌の休刊についての云々はすでに多くの方々が記事にされているのでここでは論評しない。ただ60年近い歴史を持つ雑誌であり、休刊は残念に思う。

メイン記事は「北陸新幹線」でありそれらの概要が記されている。昨年ようやく東京から敦賀まで開業した北陸新幹線であるがそこから関西へのルートはまだ定まっていない。政治問題で揺れていてまだ開通までは相当な年月を要するようだ・・・・

さて購入するきっかけとなったのは”凋落のメインライン22「上越線」”である。きわめて陰鬱な表題とともに現在の上越線の様子が紹介されていた。

上越新幹線の開業後は地域間の輸送とわずかに残る貨物輸送だけが残る実質「地方交通線」状態となった上越線の今が紹介されている。

今年の冬は顕著な豪雪で日中の列車を止めて除雪を行っている。このようなことは上越新幹線開業前には考えられなかったが乗客数が減少し地域輸送のみとなった現在はこれでもよしとしなければならないかもしれない。

おもえば最初に購入した鉄道ジャーナルは1978年6月号で特集は「上越国境に架ける鉄路」でありこの沿線の様子が詳細に記されている。引退間近の旧型国電も取り上げられて撮影などをするきっかけのなった特集だった。あれから45年が経過してしまった・・・・

鉄道ジャーナルは列車追跡と地域の様子を紹介してくれる雑誌であり解説も平明であってとっつきやすい印象が強かった。一方で社会派の凄味もあったので休刊は残念であるが時代の流れとして割り切るほかはないのかもしれない・・・・

 

2025年2月9日日曜日

のどかな越後線

2025年2月5日 越後線 巻 弥彦山(多宝山)

2022年3月ダイヤ改正で115系が消えて間もなく3年。E129系だけが走る路線。本来の姿に帰った。吉田~新潟間は本数は信越本線と同じくらいあって近郊列車の使命を果たしている。1984年4月8日の越後線の電化開業はこの区間の輸送向上を図る目的であった。電化路線となってすでに40年が過ぎた。通学時間帯は混雑が激しいが日中は2両ワンマン編成も走る路線であり、吉田と新潟の区間の主要都市が巻町(現西蒲区)のみで人口が少ない、ここが幹線である信越本線と異なる点である。また国道116号、北陸自動車道が並走し、整備された道路も多くクルマ移動が有利なことも一因である。信越本線新潟~長岡間では新津発着を除きワンマン列車は見られない。

越後線の前身は越後鉄道であり勾配やカーブがきつくて路盤が多少脆弱でも許される「軽便鉄道法」に則って施工されたため線路の規格も当時の面影を残している。もちろんいくらかは線路は重くなり枕木もコンクリートであるが・・・

越後線はロングレールの区間は少なく(おそらく新潟~内野間にわずかにみられる程度?)列車は線路のつなぎ目の音をのどかに響かせて通過していった。

大正末期に越後鉄道柏崎~白山~新潟間と当時なかった白新線で新発田をつないで日本海沿岸縦貫鉄道を作る検討が新潟市財界でされたことがあった。

実際には軽便鉄道規格の脆弱な路線のため幹線には不適切とされ電化まで不遇を囲い日本海縦貫線になることもなく電化後も新潟市近郊路線と閑散路線のままである。現在は吉田~柏崎間はE129系2連(ワンマン編成)が主力で1往復のみ4連という状況。こちらの区間は人口減少とクルマへの移行が急速に進んでしまった・・・・

2025年1月18日土曜日

越後鉄道 運転上の概況 明治44年~大正元年

2025年1月12日  弥彦線 吉田付近 E129系

 

吉田町史資料編4 近代1 P194から

列車の運行は白山~吉田間 もしくは白山~地蔵堂間に1日往復4回混合列車とし、

機関車3両、客車12両、有害貨車12両、無蓋貨車12両をもってこれを充て、

常時客車列車の編成は三等車3両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じて、

増減せり。

柏崎~石地間列車の運行は開業当初1日往復5回の混合列車とし、乗客そのほか、諸種の状況

に鑑み1日往復4回として、機関車2両、客車8両、有蓋貨車8両、無蓋貨車8両をもって、こ

れに充て、平時列車の編成は三等車2両、高等車1両、郵便緩急合造車1両とし、必要に応じ増減せり。

 

当時の越後線、弥彦線の前身「越後鉄道」の 列車の概況を吉田町史の資料編から確認した。

編成のうち高等車とは二等車のことのようで、列車そのものも小型タンク機関車と小型の客車の編成だった。いまは貨物列車は運転されていないがこの時代は道路輸送は未発達であり、鉄道がすべてを担っていた。

越後線はのちにタンク機関車をテンダー機関車に更新し、タンク機関車は弥彦線で用いられることになった。

 

2025年1月2日木曜日

高崎車両センターDD51

2010年10月8日 DD51842 高崎車両センター

 DE10 1705と並ぶ。

DD51895他

公道からこのように見ることができた。

本年の秋をもってこれら国鉄型機関車の使用停止が案内され、引退に伴う運転がされた。

JR東日本からDD51の車籍がすべてなくなるようである。

この画像はそんな話題が出る前にこの界隈に出かけたときに眺めたものである。

2025年1月1日水曜日

信越本線大正14年時刻表

上り方面
下り方面

上越線が区間開通で塩沢~宮内間の時代。直江津~新潟間8往復運転。急行は上野~新潟間長野経由の101レ上野20時30分~新潟8時35分着、上り新潟18時発上野7時着 二等寝台車連結。普通急行料金が必要である。急行列車は他に上野~金沢間運転があった。この列車も二等寝台車連結となっている。 長距離普通列車は神戸~青森間列車がありこの列車も二等寝台車連結である。また磐越西線にも上野~新潟間夜行列車があり二等寝台車連結となっている。急行料金は266.6哩で2円(二等)1円(三等)となっている。二等寝台車とは現在のA寝台車相当で上段3円、下段4円50銭となっている。この時代まだ三等寝台車はなかった。

上野~新潟間急行の長野から新潟までの停車駅は田口(現妙高高原)、高田、直江津、柏崎、長岡、三条、新津、新潟である。一ノ木戸(現東三条)はまだ弥彦線が乗り入れていないため市街地に近い三条駅が急行停車駅であった。ここから燕方面の乗り合い自動車などで移動がされたものと思われる。新潟自動車商会の定期乗合自動車便で燕まで80銭、所要時間20分(距離は2里)三条駅の列車と接続をしていた。


2024年12月31日火曜日

愛するひとよそばにいて~消えゆくものへの鎮魂歌 1984年の記憶から EF58146

1980年5月3日 EF58146 〔宮〕 東海道貨物線

1982年8月15日 山陽本線

1984年3月31日 東海道・山陽本線の荷物列車牽引に長らく活躍してきたEF58がEF62に役割を譲って運用が終わった。多くの人々に愛されたEF58が主戦場から退くことは大きな意義を持っていた。2月にダイヤ改正がされ貨物列車の大幅削減、ここには信越本線の高崎~坂城間の列車も含まれていた。余剰EF62を東海道・山陽線に転属させ、暖房方式も蒸気暖房から電気暖房に変更された。1983年の暮れにEF58が東海道・山陽線の定期運用から撤退することは多くに知れ渡り、多数の見送りの人々が沿線に集うことになった。

ダイヤ改正後は各地配置のEF58は下関運転所に集中配置となりEF62の運用開始までの間最後の任務に就くことになった。

厳しい豪雪の1984年の冬EF58は精一杯蒸気を噴き上げて残りの使命を励んでいた。荷物列車の定期運用でEF58の最終となったのは3月29日荷2031レで大阪駅でEF6232に交換されEF58牽引の定期列車が終わった。この列車の牽引機はEF8146であった。この日は晴れのすがすがしい日であったという。(EF58は雨の日も雪の日も果敢に走っていたのであるが)

ずっとそばにいてほしいと願っていた人々に見送られEF58は舞台から去っていった。後任のEF62も2年後1986年10月ダイヤ改正で荷物列車とともに引退した。

沖田祐作 機関車表から履歴

 EF58146 東芝府中工場=302501-1 1957-11-10 E115.0t2CC2(1067)
車歴;1957-11-10製造→納入;国鉄;EF58146→1957-11-20竣工→
配属[達51];関西支社→1957-11-21配置;宮原→1965-03-16借入;広島→
1965-04-05返却→1984-02-01下関→1984-11-05廃車;下関

この機関車はエアフィルターが原型で窓もHゴム化されておらず比較的原型に近い形状だった。

原型の窓の東海道EF58は寒冷地仕様の上越型EF58とは別物と言えるくらいの違いを感じた。この機関車が意識して東海道EF58を見た最初の1両だった。

表題の「愛するひとよそばにいて」・・・とは当時ヒットしていた女性2名のアイドルユニットの曲の中からいただいてみた。EF58が終焉を迎えようとしているこのころヒットした曲でEF58の鎮魂を思い浮かばせた。この曲を聴くと当時の光景が思い浮かぶ。むろん単なる感傷にすぎず、曲とEF58の引退とは全く無関係であるが。

もう40年前の出来事である。

 

2024年12月30日月曜日

大正14年時刻表~越後鉄道


 復刻時刻表から 大正14年(1925)越後鉄道時刻表

白山~柏崎間と弥彦~燕間時刻が掲載。前年の11月1日現在。大正14年4月1日に弥彦線が燕~一ノ木戸間が開通する。この時刻表ではまだ記載されていない。昭和2年(1927)一ノ木戸~越後長沢間が7月開通し10月には鉄道省に買収。越後線と弥彦線となる。

この時刻表では白山~西吉田間が7往復。西吉田~大河津間7往復、大河津~柏崎間6往復で柏崎~比角間に1往復の運転。2等と3等運賃の記載がある。

弥彦~燕間は9往復の運転でほかに区間運転がある。弥彦線はすでに3等車だけとなっていた。


車両は越後鉄道からの引継ぎ車両で運用されていった。弥彦線は1760型蒸気機関車と木造客車で昭和11年(1936)機械式気動車が導入される。

客車は買収当初は越後鉄道からのものが中心でのちに鉄道院基本型も使われているのか?

新潟支社三十年史の鉄道局の開局の頃のリストを見るとナロハ 11500、ナロハフ11800、ナロハフ11850が計8両、さらに22000系のナロ20700が13両、ナロフ21200が3両、ナロフ21250が5両、全室2等のナロ20700が13両、ナロ20850が1両配置され、新潟局は長野、山形、秋田の各地域も管轄のためどこにどの程度配置があったかは分かりつらいが越後線などだと半室車両で足りると考えられる、おそらくは鉄道院基本型の2等室がロングシートのものが入っていたのかもしれない。

昭和15年の時点では越後線も弥彦線も3等だけになっている。

 

 

 

 

2024年12月28日土曜日

木造客車の黄金時代

2013年1月2日 鉄道博物館 オハ31型車内

昭和に入って木造客車から鋼製客車に進化した。ただオハ31型の車内はまだ木造車と同じレベルであった。板張り背もたれと二重屋根の車内。

昭和11年の新潟局開設時の鋼体客車はオハ32000型 これはオハ31型、スハフ32800型がスハフ32二重屋根、スハフ34400が通常の屋根のスハフ32だった。以降はオハ35系などもラインナップに加わっていくがまだ優等列車用で普通列車には回ってこないようだった。

昭和初期の地方の普通列車はホハ12000型やナハ22000型など木造客車が中心だった。これは戦後の早い段階でも存在していた。木造客車は1950年代に鋼体化改造の種車となって旧激に姿を消していく。
 

2024年12月24日火曜日

戦前の気動車の黄金期 1940年(昭和15年)

弥彦線 弥彦~越後長沢間 一部列車に機械式気動車(ガソリンカー)が導入されたころ。弥彦線は4往復であった。ほかは木造客車による列車で一部には越後鉄道の買収車も用いられていた。

越後線の白山~柏崎間 気動車は4往復。白山~大河津の運転。

越後線に気動車(ガソリンカー)が配置されたのは1936年(昭和11年)4月1日から。

手持ちの時刻表は復刻版で1925年(大正14年)、1930年(昭和5年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)、1942年(昭和17年)、1944年(昭和19年)である。

1925年はまだ越後鉄道の時代、1930年はまだ気動車はなく、越後鉄道の買収車が使われていたと思う頃、1934年は気動車が登場したころで越後線や弥彦線にはまだ配置されていない時代、1940年は気動車の黄金期と言える時期、ただし日中戦争が勃発して燃料の節約が叫ばれる時代で、早くも減便が開始。また一部にはアルコール併用や木炭ガス併用の開始がされた。

1944年の時刻表では弥彦線の越後長沢~東三条間の時刻が無くなっていたがまだ気動車の運転はあった。越後長沢方面はこの年の10月16日には運転休止で線路撤去、復活は1946年10月1日となっている。この年の時刻表ではわずか3往復で混合列車だったという。1951年からは天然ガス車の運用が始まる。

他1943年には信越本線貨物支線関屋~新潟間の線路を使って越後線西吉田と東新潟港の区間で気動車の工員輸送が行われているほか、終戦後の1945年の暮れには新潟~新津間で気動車の運転が行われている。

参考文献 時刻表復刻版戦前、戦中編 時刻表復刻版戦後編、鉄道と新潟

2024年12月23日月曜日

越後線と弥彦線を走った可能性のある機械式気動車 キハ41000型

1983年6月 新潟交通電車線 燕 クハ37 画像は非運転台側で運転台側は2枚窓の「新潟交通仕様」となっている。車内はロングシートだった。

履歴(沖田祐作 機関車表から引用)

 キハ41080 新潟鉄工所= 1934-03-00 DC19.78t1A-21067

車歴;1934-03-00製造→納入;国鉄;キハ41080→配属;?→配置;?→1934-06-29現在;尻内→

1941-07-31現在;尻内→1942-01-31現在;長町→1943-03-31現在;長町→

1943-04-13[達第1133/18達発]長町発西吉田支区→1944-01-31現在;西吉田支区→

1947-01-31現在;大館→1949-07-22廃車;大館→譲渡;新潟交通(新潟県);クハ37→廃車



2013年1月2日 鉄道博物館 キハ41307

 この車両は戦前から戦後に西吉田に配置歴があった。ガソリンカーから天然ガスそしてDMF13ディーゼルの履歴がある。クロスシートは小さく、キハ42000型や初期のキハ450000型もこれらを継承している。

 履歴 沖田祐作 機関車表から

キハ41056 川崎車両兵庫工場= 1934-01-30 DC19.78t1A-21067

4300

車歴;1934-01-30製造→納入;国鉄;キハ41056→1934-01-26配属;名古屋局→配置;?→

1934-01-31現在;梅小路→1936-01-31現在;梅小路→1939-01-31現在;西吉田支区→

1943-03-31現在;西吉田支区(本区白山)→1944-01-31現在;中込→

1947-01-31現在;西吉田支区→1948-12-00長野工場改造;キハ41207(天然ガス動力化)→

配属;新潟局→配置;西吉田支区→1951-10-01現在;西吉田支区(本区白山)→

1952-10-01現在;西吉田→1952-11-00長野工場(大宮工場?)改造改番;キハ41307

(機関DMF13型)→配属;?→配置;?→1955-03-31現在;中込→

1957-04-01改番;キハ04-8→配属;長野局→配置;中込→1958-01-11廃車;中込→

譲渡;遠州鉄道(静岡県);キハ802→譲渡;北陸鉄道(石川県);キハ5211→

譲渡;関東鉄道(茨城県);キハ461→分離;筑波鉄道(茨城県)キハ461→廃車



2000年7月   蒲原鉄道クハ10 小さなクロスシートがある。

蒲原鉄道での唯一のクハそしてクロスシート車両であった。この年に蒲原鉄道の鉄道路線は廃止され一時村松駅近くに保存されたが個人所有であり2013年に所有者が亡くなられたことによって管理が難しいという理由で解体されて現存しない。

履歴 沖田祐作 機関車表から

 

キハ41120 川崎車両兵庫工場= 1935-09-00 DC19.78t1A-21067

車歴;1935-09-00製造→納入;国鉄;キハ41120→配属;?→配置;?→1936-01-31現在;長町→

1939-01-31現在;西吉田→1943-03-31現在;西吉田支区(本区白山)→

1944-01-31現在;大館→1947-03-01現在;借入;蒲原鉄道(新潟県);キハ41120→

1949-09-30廃車;大館→譲渡;蒲原鉄道(新潟県);クハ10


機関車表の履歴をまじまじ眺めていると判明した意外な事実。

ほかにキハ42000型も配置され、これも1951年に天然ガス改造され、越後線、弥彦線、信越本線新潟~新津間、磐越西線五泉~新津間などで運用され、さらにディーゼル化された。

これらは液体式キハ45000系列に置き換えられて1955年以降転出している。

2024年12月22日日曜日

昭和15年(1940年)磐越西線時刻表 


 磐越西線時刻表である。1940年のもので会津若松と喜多方の区間の小駅の停車列車が目立つことに注目。新津~会津若松の列車は喜多方を出ると塩川のみ停車で会津若松に向かう。

停留所相当小駅の会津豊川、姥堂、笈川、堂島は1934年11月1日請願駅として開業。ガソリンカーの停車駅となった。1日5往復が停車で新津方面とは系統が分かれていた。

これらの駅では会津若松や喜多方への通勤・通学輸送限定の便宜を図る目的で、1940年以降はガソリンの統制で区間運転のガソリンカーの運転も減少し1944年の時点で2往復が朝晩留まるだけとなった。

戦後は新津方面の客車列車の一部が停車するようになり以降は新津方面直通列車の一部の停車が当たり前となった。1950年では新津方面列車1往復が確認できる。このころの停車本数は4往復で1961年では3往復、1964年9月では2往復に減少となった。

2024年の時点では5往復停車で通型時間帯が中心となっている。新津方面列車の停車もある。

会津豊川、姥堂、笈川、堂島のこれら小駅のつくりは簡素で大糸線などでみられる私鉄買収の電鉄線を思い出させた。

2018年8月11日 磐越西線堂島を通過のDL快速。 踏切のすぐ左手に小さな駅舎がある。磐越西線の喜多方~会津若松間では架線設備が廃止され現在使われていないという。今後は架線柱も撤去されると思われる。



2024年12月16日月曜日

新潟鉄道局開局前のボギー客車

2024年12月15日 国鉄新潟支社三十年史から

昭和11(1936)年7月3日に開局する前のボギー客車の一覧表。

大まかにみると私鉄買収車、鉄道院基本型(木造車 ホハ12000やナハ22000などの系列)

オハ31型鋼製客車、スハ32型鋼製客車であろうか。

鋼製客車は幹線の急行など。木造車はローカル列車という運用だったと考えられる。

このころ支線区にはガソリンカー(機械式気動車)が入り始め、越後線や弥彦線に運用を開始している。 

11年の時刻表は無いが、15年(1940年)では越後線で4往復、弥彦線でも4往復運転されている。ただ、昭和12年(1937年)日華事変が起こりガソリンなど石油の輸入規制などが行われ、終戦の頃にはいったん運用が無くなったとされている。それまでの間、木炭やアルコール併用などがされていたようだったが。

2024年12月8日日曜日

戦前の時刻表を入手してみました


2024年12月8日 復刻時刻表戦前編 日本交通公社

戦前の時刻が知りたくて入手。手持ちの時刻表は1964年9月が一番古いがそれ以前のものはない。

図書館をめぐっても出てこない。フリマアプリを動かすと手ごろな価格で出ていたので、購入。当初の発売価格程度で入手できた。

年表や歴史解説などではいまひとつわかりつらいことが一気に判明した。今調べていることは戦前の気動車のこと。

先週新津の図書館で国鉄新潟支社「三十年史」を閲覧、戦前に西吉田支区に機械式気動車(ガソリン車)が配置され越後線や弥彦線の一部列車に使われていた。

今はない弥彦線東三条~越後長沢間の列車運用を知ることが主たる目的で、昭和5年の時点ではすべて客車、機関車は越後鉄道からの買収のもの。以降、ガソリン車が一部の運用に入った。

昭和9年(1934年)時点では気動車の記載はないが、昭和15年の時点で弥彦線で3往復、越後線で4往復気動車の記載があった。気動車の運用開始は昭和11年(1936年)からであり、好評を持って迎えられたようだった。

東三条と越後長沢の区間は午後2往復の運用だったようだ。他は蒸気機関車の牽引する列車だった。

この区間は昭和19年(1944年)10月には線路を撤去され、終戦後昭和21年(1946年)線路復活となって3往復の運転が再開した。この時点では混合列車のため蒸気機関車に戻ったと思われる。以降は越後線も弥彦線も気動車が主流となり高度成長期を迎える。このころにはキハ17系の全盛期となっている。

参考

 http://ef510001.blogspot.com/2023/05/blog-post_27.html

 

 


2024年11月17日日曜日

霧と紅葉の弥彦

2024年11月16日 弥彦駅 E129系 吉田行き
弥彦駅に隣接する弥彦公園 紅葉が進んだ。
楓のグラデーション
観月橋1

観月橋2 早朝で人が少ないように見えるがすでに多くの人が撮影や散策をしていた。
針葉樹を背後に

弥彦駅で見かけた資料。戦後間もないキハ41600型。弥彦線東三条駅付近。戦前から戦後に走ったガソリンカー。機械式気動車である。晩年はエンジンをディーゼルに換装して走っていた。

戦前のキハ41000型 軌道が脆弱な越後線と弥彦線では主力として使われていたようだ。

 6250型蒸気機関車。

2024年10月15日火曜日

五十嵐川と「自由民権運動の人」 西潟為蔵

2024年10月13日 五十嵐川 旧国道289号線 いまは1985年に廃止された弥彦線越後長沢区間が改修されてそちらがメインルートである。かつては川沿いの道が国道だった。
自由民権運動の人 西潟為蔵の功績をたたえる記述。明治から大正の歴史の本に出てくるそうそうたる政治家たちや財界人とかかわりがあった旨が記載。
田中角栄の書による石碑 西潟為蔵の功績は自由民権運動、政治活動、八十里越道路など。

磐越西線が開業するまえは八十里越えは大動脈となって越後と会津を結び交易がおこなわれた。鉄道開通後は廃道状態だったが現在工事が行われ新しい国道289号の越境ルートとなる。

E653系「しらゆき」5号 55M 西潟為蔵は信越本線の延伸にも力を注いだという。
EF510-13 3093レ 信越本線「北越鉄道」区間は貨物列車の動脈と言える。

明治31年に開通した「北越鉄道」は関東への幹線として重宝されたがこの時代はまだ2軸客車が中心だった。開業時は長岡~上野間15時間(新潟からは当日着ができなかった)明治37年三社協定(北越、鉄道院、日本鉄道)で16時間50分、明治40年国有化で15時間40分となっている。令和の現在上越新幹線で2時間台のことを考えると信じられない話である。

信越本線は日本海側の縦貫鉄道として機能し、西日本と東日本、北日本への重要幹線へと発展した。

西潟為蔵は上越線にも尽力されたとあり115系湘南色の写真が一番下に掲載されている。

ほか大河津分水や新潟大学の前身となる旧制高等学校、盲学校の設置にも尽力されているとの事だった。

このような偉人であるがあまり知られていないのが残念である。 活躍ぶりは回顧録「雪月花」に詳細に記載されているという。これは自由民権運動の聖典と言われている。

現在三条市歴史民俗資料館で西潟為蔵展が10月27日まで開催され資料が展示されている。

主な資料

回顧録「雪月花」

八十里越え道路開墾のための調査日誌抜粋

八十里越絵図 

保安条例による退去状

為蔵晩年の詩

為蔵古希祝の寄せ書き屏風

(原敬、高橋是清、大倉喜八郎ほかの名前があった)

2024年5月12日日曜日

新潟駅開業120周年記念列車~EF641053〔群〕旧型客車

2024年5月12日 EF641053〔群〕 9722レ

オハニ3611、オハ472246、オハ472261、スハフ422173、オハ472266、スハフ422234

スハフ422234は青15号塗装。スハフ422173はラウンジカーに改造されている。


 

EF641030 列車の機回しを避けるため新潟車両センター~新潟駅~新津駅の区間連結された。新津で切り離したあと長岡へ回送。一日でEF64を2両見ることができた。

新潟駅ではイベントが行われ、この客車編成も有料撮影会に供されている。

しばらくぶりに充実した撮影をすることができた。このほか準メインで185系の団体列車も45分ほど前に通過している。こちらも昨年以来の見聞。MT54モーターのうなりを久しぶりに楽しんだ。

2023年7月23日日曜日

そして静かな終焉~EF5861除籍

1985年3月31日 高崎第二機関区 一般公開

この日上越線でEF15重連運転を高崎第二機関区で各種機関車展示の一般公開が行われていた。

体調はあまりよくなかったが、EF5861も国鉄に承継されないで廃車のうわさが多数あり、機会を見ては狙っていた。

新潟県内では蒲原鉄道の村松~加茂間廃止、弥彦線東三条~越後長沢間廃止で盛り上がっていたがそれらに背を向けて高崎に出向いたのもよき思い出となっている。

結局EF5861は廃車どころかJR東日本に承継後されて大活躍をし平成の「1号編成お召し列車」を2回、各種ジョイフルトレインを牽引し愛好家各位を喜ばせたのは周知のとおり。

新潟県内にも何回かやってきたが、首都圏ほど人の出もなく静かな環境で記録できた。2004年5月4日「新潟駅開業百周年記念列車」牽引の大役を果たし、単機で上越線経由で田端へ帰区するところを見たのを最後に関りをなくしてしまった。首都圏ではその後もイベントに入っていたようだったが・・・・昨年終の棲家大宮の鉄道博物館に車籍を残したまま収蔵されたが2023年5月31日除籍。EF58という形式は線路上から消えた。今後は機会を見て保存機などの巡礼に励みたいと考えている。


 

2023年7月11日火曜日

EH200牽引石油輸送

2011年4月14日  EH200-1 

東日本大震災から1か月後首都圏から被災地への石油輸送が開始された。石油は上越線、信越本線、磐越西線で行われ、当時最新鋭のEH200牽引タキ1000型の貨物編成を見かけることになった。運転期間は1か月はなかったが復興の歩みが始まったことを喜んだ記憶がある。

先週から今週上越線、信越本線、、えちごトキめき鉄道はねうまラインでEH200-23牽引の石油輸送の試運転が行われていた。EH500の日本海縦貫線での試運転と同様に迂回輸送のための試運転である。