2017年7月31日月曜日
2017年7月30日日曜日
485系iNODOKA終幕が近づく
2017年5月24日 485系NODOKA 2001年秋にそれまでの欧風電車「シルフィード」を改造して登場。
それまで走っていたお座敷客車とカーペット気動車を統合した運用についていた。
ディーゼルエンジンも搭載して磐越西線など非電化区間にも入線したこともある。(DD51などの牽引で)
人気の高いNODOKAであったが老朽化が激しく2018年1月に引退することとなった。
詳細はJR東日本新潟支社サイトを。
それまで走っていたお座敷客車とカーペット気動車を統合した運用についていた。
ディーゼルエンジンも搭載して磐越西線など非電化区間にも入線したこともある。(DD51などの牽引で)
人気の高いNODOKAであったが老朽化が激しく2018年1月に引退することとなった。
詳細はJR東日本新潟支社サイトを。
2017年7月28日金曜日
山陽本線 115系あれこれ
1995年6月 山陽本線庭瀬~中庄 クハ111から改造の600番代車と後ろに連なる3500番代でこれは117系からの改造。
さも古参車両のようにふるまうグローブベンチレータを屋根に乗せたクハ115の600番代でクハ111からの改造。 中間車両は冷房付きで、最後尾は冷房無という珍編成。
このころの山陽線115系はこのような愉快な編成が多く見られた。
国鉄改革を生き抜いたつわものたちのステージ。
さも古参車両のようにふるまうグローブベンチレータを屋根に乗せたクハ115の600番代でクハ111からの改造。 中間車両は冷房付きで、最後尾は冷房無という珍編成。
このころの山陽線115系はこのような愉快な編成が多く見られた。
国鉄改革を生き抜いたつわものたちのステージ。
2017年7月26日水曜日
2017年7月25日火曜日
魚沼鉄道小千谷停車場跡の石碑
2017年5月20日 小千谷市の旭橋ちかく。魚沼鉄道小千谷停車場跡の石碑。
ここは西小千谷駅とは異なり戦後は復活しなかった。この魚沼鉄道の石碑は2代目。
先代は中越地震で壊れたため現在のものに建て直された。
魚沼鉄道の線路はほとんどが戦後復活した国鉄魚沼線と重なり合うが、来迎寺から南下するルートが魚沼鉄道は柏崎方向に出てから戦後のルートに合流する。戦後は来迎寺の0番ホームで長岡よりにありカーブを描いて西小千谷に向かった。 平沢で信濃川の方向に進路を取り旭橋たもとの小千谷駅に着く。
小千谷市の城内3丁目のぽっぽの里公園の石碑に描かれた魚沼鉄道の写真。762㎜の軽便鉄道である。客車の何両化は頸城鉄道に移った。くびき野レールパークに保存されている頸城鉄道ハ6はもとは魚沼鉄道のものである。
1949年魚沼から頚城に転入してハ6となった。
魚沼からは4両転入している。
ハ5はとして転入頸城鉄道廃止後新潟鉄工に保存のちに新潟市中央区の自然科学館に保存されている。
瀬古龍雄監修の「新潟県の廃線鉄道」の魚沼線の項に興味深い記述が。
赤字に転落した魚沼鉄道は路線廃止の申請を1921年に行うが小千谷周辺の政財界を巻き込んで国有化が実現しかしもはや赤字路線に過ぎず1944年10月16日路線は休止となってすべて撤去の憂き目を味わう。 これが通説
さらに国有化が実現した背景には信濃川の電源開発があり来迎寺から小千谷や十日町方面の軽便トロッコを持ちいて建設資材を運ぶため買収したという見解もある。
来迎寺で軽便機関車を組み立て。トロッコは平沢から魚沼神社を迂回して十日町そして宮中まで向かったとの事であった。
ここは西小千谷駅とは異なり戦後は復活しなかった。この魚沼鉄道の石碑は2代目。
先代は中越地震で壊れたため現在のものに建て直された。
魚沼鉄道の線路はほとんどが戦後復活した国鉄魚沼線と重なり合うが、来迎寺から南下するルートが魚沼鉄道は柏崎方向に出てから戦後のルートに合流する。戦後は来迎寺の0番ホームで長岡よりにありカーブを描いて西小千谷に向かった。 平沢で信濃川の方向に進路を取り旭橋たもとの小千谷駅に着く。
小千谷市の城内3丁目のぽっぽの里公園の石碑に描かれた魚沼鉄道の写真。762㎜の軽便鉄道である。客車の何両化は頸城鉄道に移った。くびき野レールパークに保存されている頸城鉄道ハ6はもとは魚沼鉄道のものである。
1949年魚沼から頚城に転入してハ6となった。
魚沼からは4両転入している。
ハ5はとして転入頸城鉄道廃止後新潟鉄工に保存のちに新潟市中央区の自然科学館に保存されている。
瀬古龍雄監修の「新潟県の廃線鉄道」の魚沼線の項に興味深い記述が。
赤字に転落した魚沼鉄道は路線廃止の申請を1921年に行うが小千谷周辺の政財界を巻き込んで国有化が実現しかしもはや赤字路線に過ぎず1944年10月16日路線は休止となってすべて撤去の憂き目を味わう。 これが通説
さらに国有化が実現した背景には信濃川の電源開発があり来迎寺から小千谷や十日町方面の軽便トロッコを持ちいて建設資材を運ぶため買収したという見解もある。
来迎寺で軽便機関車を組み立て。トロッコは平沢から魚沼神社を迂回して十日町そして宮中まで向かったとの事であった。
2017年7月24日月曜日
2017年7月23日日曜日
寝台特急「日本海」新津で足止め
2004年7月 この年新潟福島豪雨で大きな被害が発生したが、梅雨末期はたびたび大雨に見舞われていた。豪雨で動けなくなった寝台特急「日本海」が新津駅の中線に停車。乗客の姿が見当たらなかったので新幹線などに振り替え輸送されたのかもしれない。115系の普通列車も新潟~東三条間の運転であった。
2017年7月21日金曜日
ぽっぽの里公園
2017年5月24日 小千谷市の旧国鉄西小千谷駅跡 現在は公園となっている。
ぽっぽの里公園 石碑の写真のC11牽引の客車列車は戦後の復活した際に走った記念列車。
1等車2両と荷物車合造車の3両編成。魚沼線の蒸気機関車時代は2年程度で気動車に代わった。それ以降は貨物も気動車が牽引していた。
撮影は故瀬古龍雄氏
魚沼線は 1911年9月14日 魚沼鉄道として開業。 762㎜
当初は来迎寺~小千谷(西小千谷)の区間しかなかったため魚沼地方と長岡地方を結ぶ動脈だったが上越北線開業で利用者が激減した。
そのまま(762㎜)1922年6月15日買収国有化。
1944年10月16日 全線休止
1954年8月1日 1067㎜に改軌 営業再開・(しかし客足は伸びず低迷)
1974年10月1日 貨物営業廃止
1981年8月18日 第1次廃止対象路線承認
1984年4月1日 路線 廃止。
ぽっぽの里公園 石碑の写真のC11牽引の客車列車は戦後の復活した際に走った記念列車。
1等車2両と荷物車合造車の3両編成。魚沼線の蒸気機関車時代は2年程度で気動車に代わった。それ以降は貨物も気動車が牽引していた。
撮影は故瀬古龍雄氏
魚沼線は 1911年9月14日 魚沼鉄道として開業。 762㎜
当初は来迎寺~小千谷(西小千谷)の区間しかなかったため魚沼地方と長岡地方を結ぶ動脈だったが上越北線開業で利用者が激減した。
そのまま(762㎜)1922年6月15日買収国有化。
1944年10月16日 全線休止
1954年8月1日 1067㎜に改軌 営業再開・(しかし客足は伸びず低迷)
1974年10月1日 貨物営業廃止
1981年8月18日 第1次廃止対象路線承認
1984年4月1日 路線 廃止。
2017年7月20日木曜日
越後広田の複線五千粁の石碑
2017年5月20日 信越本線越後広田駅にある複線五千粁の石碑。1972年(昭和47年)5月26日信濃川工事局長森岩治の銘が。 越後広田~北条の区間が複線化されたことにちなんでの石碑。
鉄道がまだ伸び盛りだったころの遺産である。
信越本線のこの区間は国鉄時代は首都直結の上越線と違ってどことなくのどかだったような気がする。長距離の客車列車が走っていたり、気動車の急行が多数走ったり、特急の本数もあまり多くはなかった。
複線の効果はJRになってから新幹線接続特急「かがやき」が多数増発された時代ではなかったろうか。あのころはひっきりなしに特急の轍の音が響き渡っていた・・・・
鉄道がまだ伸び盛りだったころの遺産である。
信越本線のこの区間は国鉄時代は首都直結の上越線と違ってどことなくのどかだったような気がする。長距離の客車列車が走っていたり、気動車の急行が多数走ったり、特急の本数もあまり多くはなかった。
複線の効果はJRになってから新幹線接続特急「かがやき」が多数増発された時代ではなかったろうか。あのころはひっきりなしに特急の轍の音が響き渡っていた・・・・
2017年7月19日水曜日
米坂線越後下関発車~キハE120型
2017年7月8日 米坂線越後下関駅 坂町行き普通1131D この付近は水田地帯で比較的平たんな場所である。荒川沿いの渓谷から離れて水田地帯を進む。
現在米坂線は坂町~小国の区間では6往復の運転となっている。
現在米坂線は坂町~小国の区間では6往復の運転となっている。
2017年7月17日月曜日
懐かしの急行しらゆき
2007年7月14日 直江津~酒田の区間に運転されたリバイバル列車「しらゆき」
新津のキハ58系と盛岡のキハ58系で運転。盛岡のキハ58系は冷房無である。
盛岡のキハ58が2両直江津側に。1500番代の最終グループであるが冷房無し。
秋田行きの行先票としらゆきの愛称票。ちなみに酒田までの運転である。
青森行きの行先を表示。
急行しらゆきは青森と金沢を結ぶ日本海縦貫列車だった。下りは金沢を9時49分に出て青森は22時18分着。上りは青森を6時50分に出て金沢は19時16分着。 秋田運転区の気動車で運用。9両編成で6号車が普通車指定、7号車がグリーン車指定それ以外は自由席。2号車から5号車は秋田~金沢間の運転。青森~秋田間は急行千秋を糸魚川~金沢間は急行白馬を併結していた。
1982年11月15日改正で福井~青森間の特急「白鳥」1号、4号となったが1985年3月14日ダイヤ改正では上越新幹線接続に特化して北越といなほに分断されてしまう。
新津のキハ58系と盛岡のキハ58系で運転。盛岡のキハ58系は冷房無である。
盛岡のキハ58が2両直江津側に。1500番代の最終グループであるが冷房無し。
秋田行きの行先票としらゆきの愛称票。ちなみに酒田までの運転である。
青森行きの行先を表示。
急行しらゆきは青森と金沢を結ぶ日本海縦貫列車だった。下りは金沢を9時49分に出て青森は22時18分着。上りは青森を6時50分に出て金沢は19時16分着。 秋田運転区の気動車で運用。9両編成で6号車が普通車指定、7号車がグリーン車指定それ以外は自由席。2号車から5号車は秋田~金沢間の運転。青森~秋田間は急行千秋を糸魚川~金沢間は急行白馬を併結していた。
1982年11月15日改正で福井~青森間の特急「白鳥」1号、4号となったが1985年3月14日ダイヤ改正では上越新幹線接続に特化して北越といなほに分断されてしまう。
2017年7月16日日曜日
E4系と115系保存車両の見学
2017年7月16日 あいにくの雨であるが本日新潟市秋葉区の新津鉄道資料館で開催されているサンクスフェア2017の車輛見学に出向いてみた。会場は出店もたくさん出てお祭りのよう。
なんとか駐車場に入って一気に会場に出陣!! まずは料金300円なりをテントの特設コーナーで払いすぐに保存車へ。まずE4系E444-1であるが思ったよりも行列は少なく10分待ちで中に入れた。
2階はグリーン席でゆったりしている。1997年に登場したE4系も保存車になってしまった。
見学者が多数詰めかけているのでのんびりできないのが残念である。なお、事情により運転席は公開されないとの事である。
1階の普通席 2列と3列の並びである。 E4系MAXの自由席3列×2=6人掛けはは保存されなければ伝説になってしまう。(筆者は乗車回数が1回だけ。通常はリクライニング機能のある4号車か5号車の自由席を利用することが多いので)
115系N15編成のクモハ115-1061の車内。もうすぐ完全に引退すると思われる115系電車の力作が多数、中釣りされていた。 このバケットタイプの座席は平成7年(1995年)ころに3両編成の115系に導入されたもので当初は明るい緑色であったが晩年は青に変更されている。もうこのタイプの座席を持った115系は運転されていない。(長野から来たN33は原型の座席のようだが)
中釣りには70系電車やN15編成クモハ115-1061がEF81に牽引されて新津まで輸送される場面を記録した写真もあった。
館内の特設展示は2014年11月26日にご逝去された新潟県の鉄道史研究の第一人者瀬古龍雄先生の写真展が行われていた。木造客車や小型の古典蒸気機関車、昭和38年(1963年)豪雪、新潟地震、161系特急「とき」試運転、蒸気機関車ブームの頃、70系電車、新潟県内の私鉄などなど貴重な記録写真が展示され順序に従って閲覧すると新潟県内の鉄道の歴史が理解できるように構成されていた。撮影方法は形式写真という車両を記録したものと編成写真が中心であくまで鉄道史の記録であることにこだわった方式である。撮影は奇をてらわないため現代にあっても色あせない方法と言えるしすべてフィルム撮影のため確実に記録する必要があったためだと考える。筆者が知るところでは硬派の鉄道史研究のプロだった。
ほか鉄道雑誌が現れるまでの間の戦後間もなくの同人誌や撮影に用いられたカメラが10数台展示されていた。 またもう一つの本業園芸の資料も展示されている。
9月初旬まで開催されているのでご覧いただければ幸いである。
**カメラはスプリングカメラ(セミ判)、Minoltaの35㎜1眼レフ、キャノンの一眼レフ、キャノンとNikonのコンパクトそれにマミヤの中判一眼レフ。
なんとか駐車場に入って一気に会場に出陣!! まずは料金300円なりをテントの特設コーナーで払いすぐに保存車へ。まずE4系E444-1であるが思ったよりも行列は少なく10分待ちで中に入れた。
2階はグリーン席でゆったりしている。1997年に登場したE4系も保存車になってしまった。
見学者が多数詰めかけているのでのんびりできないのが残念である。なお、事情により運転席は公開されないとの事である。
1階の普通席 2列と3列の並びである。 E4系MAXの自由席3列×2=6人掛けはは保存されなければ伝説になってしまう。(筆者は乗車回数が1回だけ。通常はリクライニング機能のある4号車か5号車の自由席を利用することが多いので)
115系N15編成のクモハ115-1061の車内。もうすぐ完全に引退すると思われる115系電車の力作が多数、中釣りされていた。 このバケットタイプの座席は平成7年(1995年)ころに3両編成の115系に導入されたもので当初は明るい緑色であったが晩年は青に変更されている。もうこのタイプの座席を持った115系は運転されていない。(長野から来たN33は原型の座席のようだが)
中釣りには70系電車やN15編成クモハ115-1061がEF81に牽引されて新津まで輸送される場面を記録した写真もあった。
館内の特設展示は2014年11月26日にご逝去された新潟県の鉄道史研究の第一人者瀬古龍雄先生の写真展が行われていた。木造客車や小型の古典蒸気機関車、昭和38年(1963年)豪雪、新潟地震、161系特急「とき」試運転、蒸気機関車ブームの頃、70系電車、新潟県内の私鉄などなど貴重な記録写真が展示され順序に従って閲覧すると新潟県内の鉄道の歴史が理解できるように構成されていた。撮影方法は形式写真という車両を記録したものと編成写真が中心であくまで鉄道史の記録であることにこだわった方式である。撮影は奇をてらわないため現代にあっても色あせない方法と言えるしすべてフィルム撮影のため確実に記録する必要があったためだと考える。筆者が知るところでは硬派の鉄道史研究のプロだった。
ほか鉄道雑誌が現れるまでの間の戦後間もなくの同人誌や撮影に用いられたカメラが10数台展示されていた。 またもう一つの本業園芸の資料も展示されている。
9月初旬まで開催されているのでご覧いただければ幸いである。
**カメラはスプリングカメラ(セミ判)、Minoltaの35㎜1眼レフ、キャノンの一眼レフ、キャノンとNikonのコンパクトそれにマミヤの中判一眼レフ。
中越沖地震から10年
2007年(平成19年)7月16日 10時ころ新潟県中越地方の日本海を震源とする大きな地震が発生した。柏崎市は震度6強の揺れに襲われた。また新潟市秋葉区でも震度5弱だった。2004年(平成16年)の中越地震からまだ3年程度しかったっていないのに再び大きな地震に見舞われることとなった。
鉄道関連では柏崎市の青海川駅が土砂にのまれ、柏崎駅の115系S1編成が被災した。
このほか柏崎市内の被害は相当なもので、柏崎刈羽原子力発電所では火災が起きていた。
運転見合わせのご案内はこの日の優等列車の運休の案内。(東三条駅)
運転見合わせは信越本線が東三条から豊野、上越線が宮内~ 水上、越後線が柏崎~吉田の区間で上越新幹線も一時見合わせ。
115系L2編成(臨時で東三条どまり) 撮影前に震度4の余震が起きて列車は停車。
東三条~保内間にて。
踏切には警察官が。動かない列車で遮断機は上がらないので警察官の指示に従って通行する女子高生。
タチアオイとアジサイが・・・・・
かなりの時間停車していた。 日本海縦貫線は9月中旬まで停止していた。
貨物輸送は上越線と羽越本線・奥羽本線・東北本線経由で迂回輸送。
鉄道関連では柏崎市の青海川駅が土砂にのまれ、柏崎駅の115系S1編成が被災した。
このほか柏崎市内の被害は相当なもので、柏崎刈羽原子力発電所では火災が起きていた。
運転見合わせのご案内はこの日の優等列車の運休の案内。(東三条駅)
運転見合わせは信越本線が東三条から豊野、上越線が宮内~ 水上、越後線が柏崎~吉田の区間で上越新幹線も一時見合わせ。
115系L2編成(臨時で東三条どまり) 撮影前に震度4の余震が起きて列車は停車。
東三条~保内間にて。
踏切には警察官が。動かない列車で遮断機は上がらないので警察官の指示に従って通行する女子高生。
タチアオイとアジサイが・・・・・
かなりの時間停車していた。 日本海縦貫線は9月中旬まで停止していた。
貨物輸送は上越線と羽越本線・奥羽本線・東北本線経由で迂回輸送。
色違いMAXとき
2015年6月 燕三条に停車するMAXとき316号 左手の珍車を見に集まった人もあり混雑をしていた。MAXとき316号は原色と朱鷺色の混色だった。現在は朱鷺色だけのため混色は見ることはできない。MAXの朱鷺色は初代MAXE1系であるがこちらはすでに引退している。
2017年7月15日土曜日
2017年7月14日金曜日
2017年7月13日木曜日
2017年7月12日水曜日
北陸新幹線~上越妙高
2017年4月6日 北陸新幹線上越妙高にて 上りはくたか562号 E7系。
開業して2年を経過したが利用者は多い。列車の発着時刻になると利用者がかなり集まってくる。
北陸新幹線上越妙高駅は上越新幹線の駅と異なりこじんまりしている。通過列車はホームを直接通過する構造となっているためだろうか。
2017年7月11日火曜日
越乃shu*kura青海川
2017年5月20日 青海川を行くキハ40系 越乃Shu*Kura
2007年7月16日 中越沖地震で土砂に飲み込まれた青海川駅。その後の復旧工事も白いコンクリートむき出しだったがいまは草木がはえて緑に覆われている。
2007年7月16日 中越沖地震で土砂に飲み込まれた青海川駅。その後の復旧工事も白いコンクリートむき出しだったがいまは草木がはえて緑に覆われている。
2017年7月10日月曜日
2017年7月9日日曜日
E653系 特急「いなほ」
2017年7月8日 羽越本線坂町付近 下り特急「いなほ」3号 2003M
坂町駅ではE129系新潟行きが停車中。
荒川を渡って坂町に到着する「いなほ」8号 2008M 坂町~平木田
平木田~岩船町を走る 「いなほ」5号 2005M 新潟を12時33分に出て秋田には16時4分に着く。
E653系はあまり人気が無いようであるが編成7両であり特別急行の名残を残した貴重な存在であると言える。
坂町駅ではE129系新潟行きが停車中。
荒川を渡って坂町に到着する「いなほ」8号 2008M 坂町~平木田
平木田~岩船町を走る 「いなほ」5号 2005M 新潟を12時33分に出て秋田には16時4分に着く。
E653系はあまり人気が無いようであるが編成7両であり特別急行の名残を残した貴重な存在であると言える。
2017年7月8日土曜日
EF62 関山
1982年7月 信越本線(現 えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン)関山駅付近
直江津方面からのEF62牽引列車が関山駅に到着。 駅は左奥(建物は信号所)にあり、スイッチバックしてうしろから駅に進入する。 原則普通列車だけであったが一部の急行列車も交換待ちで入ることがあった。
EF62 6が牽引している列車は新潟~直江津、直江津~長野、長野~高崎、高崎~上野という1本の客車が列車番号を変えて直通する列車で知られていた。
関山駅 は1985年にスイッチバックを廃止して本線上に駅が移転した。スイッチバックそのものはまだ残っているようだ。
直江津方面からのEF62牽引列車が関山駅に到着。 駅は左奥(建物は信号所)にあり、スイッチバックしてうしろから駅に進入する。 原則普通列車だけであったが一部の急行列車も交換待ちで入ることがあった。
EF62 6が牽引している列車は新潟~直江津、直江津~長野、長野~高崎、高崎~上野という1本の客車が列車番号を変えて直通する列車で知られていた。
関山駅 は1985年にスイッチバックを廃止して本線上に駅が移転した。スイッチバックそのものはまだ残っているようだ。
2017年7月7日金曜日
去っていくことになるのか?
2017年6月 新津駅でのキハE120とキハ110系 キハ110系は平成3年(1991年)、キハE120は平成19年(2009年)に旧型キハ52、キハ58の置き換えに投入。
キハ52も平成10年(1998年)長野地区にキハ110系が多数転入したことで新津にやってきている。
GV-E400系はキハE120のような広幅車体ではなく全体にスリムな車体の様である。
キハ52も平成10年(1998年)長野地区にキハ110系が多数転入したことで新津にやってきている。
GV-E400系はキハE120のような広幅車体ではなく全体にスリムな車体の様である。
2017年7月6日木曜日
終焉迫るキハ40系
JR東日本は羽越本線、磐越西線などのキハ40系に代わる、新型電気式気動車GV-E400型の投入を発表した。 電気式気動車の概要はJR東日本サイトを参考のこと。 なお、八戸線はE130系500番代が導入される。
2017年7月4日火曜日
2017年7月3日月曜日
2017年7月1日土曜日
新津鉄道資料館 新顔~E444-1とクモハ115-1061
先週運び込まれたE4系MAX2階建て新幹線E444-1とクモハ115-1061 いずれも深夜にトレーラにて運び込まれ据え付け工事が行われている。置き場はDD14のとなりである。
ここにきて保存車両は6両になった。まずまずの両数ではないだろうか。
ごらんのような配列である。 DD14とクモハ115のあいだに線路が敷いてあったがさらに何か入るのか?またミニSLの線路も敷いてあった。 まだまだ発展中のようで今後も楽しみである。
7月15~17日には車内の公開もおこなわれる。さらに同日より特別展として「瀬古龍雄鉄道写真展Ⅰ」が9月4日まで開催される。鉄道史研究家の瀬古先生の貴重な写真が多数展示されると思うのでたのしみである。
ここにきて保存車両は6両になった。まずまずの両数ではないだろうか。
ごらんのような配列である。 DD14とクモハ115のあいだに線路が敷いてあったがさらに何か入るのか?またミニSLの線路も敷いてあった。 まだまだ発展中のようで今後も楽しみである。
7月15~17日には車内の公開もおこなわれる。さらに同日より特別展として「瀬古龍雄鉄道写真展Ⅰ」が9月4日まで開催される。鉄道史研究家の瀬古先生の貴重な写真が多数展示されると思うのでたのしみである。
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