2019年9月30日月曜日

キハ35 55酒田行き

1983年5月 キハ3555(新潟運転所)の酒田行き普通列車。
1979年にキハニ151の置き換えとして転入。もっぱら荷物車代用として運用。
羽越本線の新潟~酒田間(吹浦)の運用が中心だった。
羽越本線では酒田界隈では新庄のキハ22なども運用していたので貌を合わせていたかもしれない。

2019年9月29日日曜日

2019年9月28日土曜日

165系系急行「とがくし」1号


1982年7月 鯨波を走る165系急行「とがくし」1号311M
上田~新潟間運転の急行。1978年10月改正まではグリーン車指定席も連結していたが、以降は普通車のみの編成であった。(1982年夏までは海水浴の季節のみ12両の長大編成での運転があった)
国鉄時代は「とがくし」として運転されJR東日本に移行後は「赤倉」となって1997年秋まで運転された。一時期特急「みのり」として走ったが2001年12月より新潟~新井間の快速「くびき野」として走り、今は夕方の115系快速(新潟~新井間)に名残をとどめている。
(特急「しらゆき」は特急「北越」の代替という考え方であるようだ)

2019年9月26日木曜日

新潟交通電車線 県庁前行

2019年9月22日 月潟駅 夜間撮影会で久しぶりに見かけた県庁前行
1982年秋頃までこの行先だったが県庁が移転して「白山前」に変わった。
人が降りて誰もいなくなった終電の車内のイメージで…
県庁前行最終電車・・・
往時を懐かしむ方々・・・親子だろうか?
月潟~東関屋間が廃止となりもう20年が過ぎてしまった。












2019年9月25日水曜日

キ116内部~新潟交通電車線旧月潟駅

2019年9月22日 月潟駅 保存車キ116の内部 運転席では乗務員が除雪の任にあたっていた。
暗闇に浮かぶ・・・キ116 

いまにも動き出しそうな光景!すてきなイベントを企画した保存会の皆さんに感謝。

2019年9月24日火曜日

荷役風景

2019年9月22日 旧月潟駅 改札口からホームを。 荷物の表示!
電動貨車モワ51に荷物の積み込みを再現。
秋のこの時期はコメや梨など農産品が中心だったろうか?
梨用のコンテナを積む作業の再現。ステップも一時撤去!
中には日中活躍した手押しトロッコが乗っているが・・・味方駅の駅名板も。
荷下ろしの風景を再現。
南区は梨が特産のためこの時期多数出荷されていた。1970年代後半にトラックが発達してそちらに移行するまでは・・・・







ステップを再設置。それでも籠が置いてあると雰囲気が出る。


一瞬感じた全盛期の記憶。
新潟交通電車線から貨物輸送が無くなったのは1982年の夏のことである。

2019年9月23日月曜日

コスモスと電車~月潟駅

2019年9月22日 新潟市南区 新潟交通電車線旧月潟駅
キ116型ラッセル車の手前にたくさんのコスモスが。来月半ばまで楽しめる。
縦位置で・・・タラップの付近にもたくさん咲いている。

 キ116の鉄道省 大宮工場の銘板。新たに鋳造されたものだ。昭和7年はキ116が造られた年。
モハ11と大きな西洋かぼちゃ。
暗闇に浮かぶキ116 照明装置が車体を照らす・・・・






2019年9月22日日曜日

月潟駅夜間撮影会

2019年9月22日 新潟交通電車線跡地旧月潟駅 保存されている電車の夜間撮影会。
小雨交じりの天気だったが撮影者や見学者も多く盛り上がっていた。
塗装がされたばかりのキ116にも明かりがともった。黒い車体が闇に浮かぶ。


2019年9月21日土曜日

DC92~くびき野レールパーク

 2019年9月14日 くびき野レールパーク
いかついスノープラウは本年5月公開の際から。



沖田祐作著機関車表から引用
DC92 協三工業=80118[114] 1954-11-00 D9tC(762)

車歴;1954-11-00改造(前1号蒸機=Koppel製7127)→
納入;頚城鉄道(新潟県);DC92→1971-05-00廃車→兵庫県の篤志家が保管→
2004-11-20(着)無償譲渡;新潟県頚城郡「頸城鉄道展示資料館」;DC92→
2005-06-19公開(所有者=頚城村)

2019年9月20日金曜日

コッペルひとりぼっち~くびき野レールパーク

2019年9月14日 コッペル2号 手前にいたニフ1が屋外へ。また左手の線の貨車もすべて屋外に出たためコッペルのみ留守番となった。お昼休みのひとこま。

2019年9月19日木曜日

保線作業~くびき野レールパーク

2019年9月14日 つるはしなどの工具を用いて線路の保守をされる「くびきのお宝のこす会」の方々。線路の保守は地味で脚光を受けにくいが最重要な作業である。
安全が最も優先されなければならない。

2019年9月18日水曜日

人力連結作戦!~くびき野レールパーク

2019年9月15日 くびき野レールパーク 時間はお昼!撮影タイム!
米俵を積んだニフ1 米俵の移送を兼ねて客車編成のことろへ。
移動はスタッフの皆さん。




無事に連結終了。いつもは外に出ないニフ1も日光浴ができる。
ニフ1の米俵は無蓋車へ! コメの輸送時期には有蓋者だけでは足りず無蓋車も俵を乗せて走った。

お昼休みももうすぐ終了!無蓋車からニフ1へ米俵を移送。

俵を背負ってニフ1へ。




13時からの運転開始のため客車編成も入庫。 ニフ1は切り離されて留置。


貴重な光景を楽しむことができた。

2019年9月17日火曜日

くびき野の風を楽しむ

2019年9月15日 くびき野レールパーク ハ6客車
ハ6型客車は1911年(明治44年)製造である。当初は魚沼鉄道で走っていた。新潟市中央区の鳥屋野にある「自然科学館」にて展示されているハ5型は頸城鉄道でも走っていた。
走行中の車内・・・・往年をイメージしてモノクロで撮影。
となりに地元の女性がおられたのでいろいろお話を伺うことができた。
この女性の祖父の代に鉄道が開通していたようで列車通過の際に竹筒で汽笛の真似をして遊んだこと。浦川原のバス車庫が当時の浦川原の駅であること。
黒井の駅前がさびれて店が無くなって不便になったこと。
山間部の温泉が営業をやめてしまったこと。バスが大幅に減って不便になったことなど…
北越急行も乗客が賑わうのは松代~十日町~越後湯沢の区間だけでこちらはそれほどでもないということ…

ほかに吉川の温泉は非常にいいのでぜひということだった。

二軸車輛のハ6は貨車そのままの乗り心地。だがこれが本物の軽便鉄道の味わいである。
ゴリゴリという線路の感触とポイント通過の揺れが遠い明治の頃の鉄道の記憶につながる。午前中は体験乗車の方々が多数やってきて臨時便も出さなければならない状況だった。

運転形態は駅を出てポイントを渡って浦川原よりに。そこから推進運転で黒井方向に走って浦川原方向に。同じルートをもう1回走って車庫に入る。
それ程速度が出ているわけではないが開放している窓から風が入り残暑の残るこの時期、涼しい風を浴びて昔日の鉄道旅行を思い起こすのは楽しかった。

2019年9月16日月曜日

闇に浮かぶ蒲原鉄道モハ61

2019年9月14日 加茂市 加茂山公園 AKARIBA2019 野外ステージに向かう途中の道で見かけた行燈から。 冬鳥越の旧蒲原鉄道モハ61の行燈。

モハ61の行燈はいくつかある。
公園内の神池の和傘のライトアップ。
AKARIBAのメイン 和傘

 猫とだるま
青海神社門前のあかりたち

腹ごしらえは継之助汁とさくら飯 加茂軍議にちなんだ料理。



2019年9月15日日曜日

初秋の「くびき野レールパーク」

2019年9月15日 上越市頸城区 百間町「くびき野レールパーク」
ホジ3型と有蓋貨車2両の混合列車風編成。
稲刈りが終わった水田と気動車ホジ3型
郵便荷物車 ニフ1の車内には米俵が。穀倉地帯の頚城地方の米が列車で運ばれた時代を再現したものだろうか?
客車ハ6と貨車 令和になってもこのような編成を楽しむことができるのはうれしい。




2019年9月12日木曜日

EF81100牽引コンテナ貨物 

1986年8月14日 北陸本線新疋田付近 EF81100〔長岡〕牽引のコンテナ貨物。
機関車の次位はコキフ50000型コンテナ車。

沖田祐作著機関車表より

EF81100 日立製作所水戸工場=10230-4 1974-03-22 E100.8tBBB(1067)
車歴;1974-03-22製造→納入;国鉄;EF81100→配属;東北支社→配置;酒田→
1985-03-14長岡→1987-04-01JR東日本;EF81100→配置;長岡運転所→
1994-12-07田端運転所→2008-04-01現在;田端運転所(保留車)→
2008-12-24廃車;JR東日本旅客鉃道田端運転所




2019年9月11日水曜日

485系の特急「雷鳥」新潟行き

1986年8月14日 北陸本線新疋田付近 新潟へ向かう特急「雷鳥」3号 
ボンネット特急が多数やってくる北陸本線は大動脈だった。

当時新潟~大阪間特急「雷鳥」は3往復あり大阪~青森間「白鳥」と合わせて日本海縦貫線のネットワークを形成していた。(ほかに新潟~金沢・福井間に「北越」もあり)

2019年9月9日月曜日

キハ58系 急行「野沢」

1982年6月 飯山線にて キハ58系の急行「野沢」 長野運転所 キハ58など3連で運転。
102D長岡7時24分十日町8時21分~23分長野10時37分
101D長野16時35分十日町18時40分~45分長岡18時39分

長岡と長野の区間を3時間と少々で結ぶローカル急行。
気動車は長野運転所の所属のためすべて冷房付きとまぶしい存在だった。
1986年9月 長岡行きを廃止直前に乗車したがさすがに気動車も冷房のないものも編成に加わりくたびれた感じだった。それでも乗客は比較的多かったように記憶している。
車内販売は無いので途中の戸狩(戸狩野沢温泉)の売店で何かを買い足した記憶がある。

2019年9月8日日曜日

クハ181-45 越後中里

1982年6月 181系「とき」2010M  スカート部分に丸い穴があって161系の設計であることがわかる。(ただしクハ181-44と45は161系の履歴を持たないで181系40番代として登場した.以後は181系100番代が増備される。
181系特急「とき」も日本海側と太平洋側・首都圏を短時間で結ぶ交通革命の象徴だった。それまで不可能だった日帰りが可能となったためである。
1962年の時点で新潟8時30分→上野13時10分 上野16時50分→新潟21時30分 4時間40分の乗車時間である。
3時間程度の滞在だったが都内での所用をすますことはできたかもしれない。14時から16時までの会議など・・・

1982年の時点ですでに特急「とき」は上野~新潟間を4時間10分程度で走っていた。(1978年10月ダイヤ改正以前は3時間55分で走っていたこともあった)
4時間だとやはり旅行のイメージになってしまい日常の延長ではないようだ。
「とき」に用いられた181系電車は老朽化するのが早く1958年製の151系改造車が1978年までにそれ以外も1982年の上越新幹線開業で役割を終えている。(一部は首都圏や九州で用いられたが)
冬の豪雪地での耐寒耐雪の問題で寿命を縮めたのであろう。
1975年には183系1000番代が登場し1978年ダイヤ改正までに主流となっている。



現在上越新幹線では東京~新潟間で大宮停車だけのものは2時間を切り、それ以外のものでも2時間10分程度のものが中心である。
首都への移動は利便性を増した。また新潟や長岡の発展にも寄与したと考えてよい。

まだ新幹線が工事中だったころ教員の方から今は4時間くらいかかる東京までの時間が半分になって午前中に東京で用務を行って午後に戻ってきて新潟で仕事をすることができる時代が来るという話を聞いた記憶がある。

先日東京に所用がありある役所にあることの申請をしに出た。行きとき302号~地下鉄で港区。帰りとき321号というコースで東京の滞在は3時間程度だった。ゆっくりしたかったがそれができない環境でとんぼ返りとなった。新潟市内には15時過ぎに戻っていた。
先に記した教員の方の話をそのまま実現したかたちになった。
所用だけを処理しよけいなことはせずに帰ってきた。
こうなると日常生活の延長(単距離の電車利用とおなじ)となってしまい旅の要素はないがそれでも2時間だと都会~山岳地帯(トンネルばっかり)~平野の風景の変化を見ることになり日常的な通勤電車と異なっていることは間違いはない。
この方法は新幹線の威力を最大限活用したことである。
もし、在来線利用や車利用の場合経費は安くなるものの万一の事故のリスクが大きくなるため確実に所用を処理するため新幹線利用とした保険の意味もあった。




EF81とEF62

1984年 長岡運転所 EF81の3両並び右手にはEF62 左奥に115系
当時の長岡界隈の日常であった。