このEF5861の後ろにEF551も。新津駅での展示ための配給で主役はD51498。この年新津~村上の区間でSLうるおいの新潟が運転されたがその件に関係するものだった。
EF5861は現在大宮の鉄道博物館において収蔵され一般公開されている。車籍は残っているので修繕がなされれば本線上に出ることが可能ではあるが、台枠を損傷しているため復帰は厳しいらしい・・・今後の技術の進化を待つよりないかもしれないが・・・
EF551そしてJR東日本では僚友のEF5889も鉄道博物館で余生を送っている。
このEF5861の後ろにEF551も。新津駅での展示ための配給で主役はD51498。この年新津~村上の区間でSLうるおいの新潟が運転されたがその件に関係するものだった。
EF5861は現在大宮の鉄道博物館において収蔵され一般公開されている。車籍は残っているので修繕がなされれば本線上に出ることが可能ではあるが、台枠を損傷しているため復帰は厳しいらしい・・・今後の技術の進化を待つよりないかもしれないが・・・
EF551そしてJR東日本では僚友のEF5889も鉄道博物館で余生を送っている。
1983年12月29日 弥彦線最終列車 年末に振り出した雪は翌年大雪になった。
弥彦線の最終列車はわずかな客を乗せて発車していった。翌年の電化開業に備え架線設備が張られ気動車列車にとっては最後の冬となった。
この通勤型気動車は1960年代弥彦線の沿線燕市の洋食器産業が全盛の頃押し寄せる通勤客をさばくことができなくなり1962年に導入された。また新潟市の人口も伸びて通勤客が多くなったことで新潟市近郊輸送の増強のため増備された。
1965年以降自動車交通が台頭し、燕市の洋食器も工場の郊外移転で弥彦線の利用も大幅に減少していく。そのため弥彦線でのキハ30系の全盛期は短いものに終わっている。
このキハ30系通勤型気動車は人気が無く、追いかける人もなかったようだが今にして思うと撮影よりは研究題材向きだったと考えられる。人気がないということは消息などが途切れやすく経歴を追うことが難しくなるためだ。
酒田からの特急で新潟駅で上越新幹線で乗り継ぐ乗客で満席であった。国鉄特急色485系は3編成あり、フル回転で運用に入っていた。
白新線のこの場所は海岸部に近く降雪は少なかった。わずかに残る雪の中を特急「いなほ」は走り去っていった。
先頭車は181系サロ181‐1100番代からの改造で1978年に特急「とき」に用いられた181系の体質改善のため製造、1982年11月特急「とき」廃止後は本来の目的である485系として運用がなされた。以後特急「ひたち」に先頭車に改造され末期にはご覧の姿で各地を走り抜けた。先日すべてのミッションをおえて郡山に送られた模様。またひとつ国鉄改革を知る車両が「非情の掟」に消えていった。
新潟駅まで回送のためEF81140が牽引。ことし駅舎が完成し地平のホームは全て取り払われた。かつてSL列車が地平ホームから発車していたことも記憶から薄れていきつつある。
2022年も押し迫ってきた。国鉄時代には12系を用いた帰省列車が運転されていた。EF81の牽いたものでは急行「あおもり」「越後」などがなつかしい。
左手の光跡は東京行き寝台急行「銀河」20系のもの。
急行「立山」のヘッドマーク下には雪がある。この1981年も豪雪の年で北陸地方に甚大な被害をもたらした。敦賀第二機関区の車庫の倒壊などの事故も起きている。
雪のない大阪から再び北陸へ向かう急行「立山」
暮れも押し迫り暴風雪。12月18日に襲った寒波では新潟県中越は豪雪となりJR運転見合わせのほか高速道路の閉鎖、国道は柏崎と長岡での渋滞と立ち往生で災害救助法による自衛隊出動という事態。通勤経路だった国道8号や17号の立ち往生を見ると背筋が凍る。
一方豪雪の聖地の妙高や越後湯沢付近は小雪だった。冬が始まって早々の異常な降り方である。波乱に満ちた本年を象徴する冬の始まりかも知れない。
豪雪になったかと思えば春は爆発的にやってきて桜の開花も一気に満開、本来の桜の季節より早く咲いて一気に散り、また寒い日がやってきて、いきなり猛暑で、梅雨が早く開けたと思ったら豪雨災害、残暑が長く続いて突然寒くなる・・・今年の気候はこのような展開で、今は異常な雪の降り方積もり方・・・例年通りの異常気象。おそらく異常気象にならなかった年はここ数年は記憶にない・・・
さて115系であるが新潟からはすべて解体処分されもう存在していない。最も近くではしなの鉄道北しなの線の接続地点妙高高原に出入りするものだけになっている。あとは山陽本線だろうか・・・記憶から遠ざかりつつあるがあれだけあった115系がすべて引退したのは感慨深いことであった。何の未練もなく静かな引き際は地域輸送に貢献した115系にとって最高の散り方だったと言える。
画像は非情の掟に従って消える数週間前の撮影のものである。厳しい冬を長年にわたって走るつづけた115系の最後の冬。
冷房付きのキハ58系3連は1982年11月改正で廃止された金沢~松本間急行「白馬」の再来に見えた。北陸と信州白馬地域を結ぶ貴重なスキー列車だった。JRになってからも臨時快速として数年間運転されて末期は七尾線色の編成だった。
1982年11月ダイヤ改正で登場。通勤時間帯において特急の間合い運用の利用で実現。扉が1箇所のため乗り降りに時間がかかったと考えられるが地方では無償で特急車両を利用できることでおおむね好評だったようだ。この界隈電車は475系他に客車列車と気動車列車が主力だった。
1987年2月 信越本線を走るEF81牽引14系15型客車 わずかに雪煙がみえる。
向日町運転所の14系15型と福知山スハフ12の6連。
関西と妙高地域を結ぶスキー輸送の団体列車で、乗客を降ろした後は上沼垂運転区での滞留だった。翌日上沼垂から妙高高原へ向かい客を乗せて関西に戻るダイヤ。国鉄末期にわずかな期間発生した列車だったが民営化後は関西方面もしくは金沢運転所に回送となり信越本線を走ることはなかった。
1987年は前年よりは雪は少なかったがそれでも2月には70センチくらい積もった日もあって気の抜けない冬であった。
電化を翌年に控えた越後線。この時点では架線は張られていない。
キハ45は1966年度に造られて導入。当初は新潟~羽後本荘間列車などにこの形式だけで組成して走っていたとされる。後にはキハ10系やキハ58などとの混成となってしまったが。
1983年時点では新潟運転所にはキハ35系、キハ45、キハ52、キハ28、キハ58、キハ40系と形式が絞られてキハ45だけの編成も出現していたようだった。このキハ45も翌年の越後線電化により転属する。
キハ45は電車111系、401系の気動車バージョンとされ近郊型仕様が特徴であった。
電車基地のある府中から乗り湯田村で下車。特に何もない平凡な田園地帯。やってきたのは都会を追われた70系電車。沿線の人々の足として使命を果たしていた。福山市という人口の多い都市の近郊であり列車本数は比較的多い。
日没近くまで列車を眺め温暖な地域の年の瀬を満喫した。
2023年3月ダイヤ改正で「超快速 スノーラビット」は越後湯沢発の1本も廃止されて、2015年に鳴り物入りで始まった国内最速の快速列車の歴史が終わる。
はねうまラインの乗り入れも終了し、最高速度は110㎞/hから95㎞/hとなる。
北越急行もこれまでは急行の名に恥じない高速運転で健闘してきたがこれからは実を取り地域輸送に専念することとなる。
沿線の人口も急激に減少し都市間輸送はやはり新幹線となれば止むを得ないことである。
南小谷を出た大阪方面行きシュプール白馬・栂池は平岩駅で南小谷へ向かうDD16牽引のシュプール回送と交換し動き出す。山あいに汽笛とエンジンの音が響きゆっくりと181系が走り出し、やがて視界から消えていった。
手前の川は姫川で右手には平岩の町が見える。左手には温泉街もあった。1995年の水害でこの付近も様変わりし急激に過疎化が進んだ。
シュプール号が走っていた時代はまだ希望を感じることができた。長大編成の列車が頻繁に通過し大阪方面と白馬地域を結んでいたが、夏にも運転がされたこともあった。北小谷では待避線も作られ輸送力増強もされた。さらなる発展を夢見ることができた。
しかしマイカーへの移行が急激に進み 列車での移動が敬遠され衰退の方へ流れていく。2001年には運転も終わり大糸線は過疎路線となり現在に至っている。
JR西日本キハ181系7連シュプール号が通過。2連が標準な大糸線では長すぎる編成。当時はスキーブームで利用者も多く長大編成が必要だった。
列車はJR東日本大糸線南小谷で折り返す運用が多く、多くは金沢運転所または向日町運転所まで回送することが多かった。
キハ181系は山陰本線の特急「はまかぜ」の印象が強く、奥信濃の山峡のローカル線にこの列車が表れたときはずいぶん遠くにやってきたように錯覚した記憶がある。
外観は国鉄キハ20の車体にキハ30の塗装で、車内は首都圏通勤区間らしくすべてロングシートとなっている。 乗客たちのいる付近に排気が見えているがこの車両が縦型エンジンであることを示している。
気動車の後ろに隠れるように貨車が3両。真ん中は緩急車の様だ。無蓋車には荷物が積まれて物品保管に使われているように見えた。
これらの木造車は蒲原鉄道や新潟交通でも見かけたことがあったが廃止され今は見ることができない。くびき野レールパークの軽便仕様の貨車が保存され公開の際に展示されることがあるようだ。
小湊鉄道木製貨車は一部が里見に移動しているとの事だった。
かつては新潟と仙台を結んだ急行「あさひ」をルーツに持つ都市間列車。1982年6月に現在の「べにばな」に改称。廃止された「あさひ」は上越新幹線速達タイプに採用された。
上越新幹線開業後は冷房車編成の急行として走破していたが、1985年3月ダイヤ改正で山形止まりになり、新在直通運転開始後は軌間の関係で米沢までの快速列車となって今に至る。
現在の「べにばな」は都市間列車の面影は薄くローカル輸送になった。道路の整備が進んでマイカーに乗客が転移、沿線の人口減少でさらに利用が減るという状況で米坂線そのものの存在意義が問われることとなった。
この日の乗客の数も単行運転で十分な人数だった。その代わり存分荒川渓谷の車窓を楽しむことはできたが。
本年の7月豪雨で現在不通となってしまった。復旧の見込みもない・・・・再び列車が走る日は来るのか?
バッファの穴が残る貴重な貨車。
以前上げた画像から 自動連結器横にくっきりとバッファ痕跡が確認できる。大正13年(1924年)日本車輛で製造 小湊鉄道の開業は大正14年(1925年)3月であり、当初から連結器は自動連結器が採用された。一方鉄道省のバッファ付きの連結器(螺旋連環連結器)の自動連結器の交換は大正14年(1925年)7月でありその間の国鉄貨車との連結の関係でバッファが用いられて片側だけ取り付けられ控え車として使われた。その時代の名残だったという。
10月1日に努力の甲斐あって全通した只見線であるが現在ちょっとしたブームになっており結構な混雑が続いているという。
機械を見て乗車したいと目論んでいるが・・もちろん不通だった区間を含めて。今は悪いことに磐越西線も野沢~喜多方間が不通になったままである・・・
只見線の復旧区間はわずか3往復。使いにくいダイヤの路線である。
配8788レはEH200-3とDD200-7、さらに門司機関区のEH500-45、その後ろにEH200-9というにぎやかな編成だった。門司機関区EH500の当地入線は特に珍しいものではない。EH500の検査は大宮で行うため時々回送されているようだ。通常は日本海縦貫線経由で大宮に向かう。出場も同様。
もっともこの異様な編成を見たときEH500の試運転がらみと思ったら何のことはない門司機関区のEH500の入場だっただけで驚くに値はしなかった・・・
それでもこの澄んだ初冬の快晴の中を走る列車を存分に味わえ、配給列車も編成が長く充実した撮影となった。
日常と非日常の交差する光景・・・・
E001「トランスイート四季島」の今期の運用は終わったようだ
キハ40系「ビューコースター風っこ」と並ぶ719系「フルーティア」が来年老朽化を理由に引退することが決まった。
現在定期の電車の入線が無い会津若松~喜多方間においての唯一の電車であるが、この列車が引退することでついに電化設備が不要になるとされる。非電化に向けての一里塚となる可能性が出てきた・・・・
719系も残るは奥羽本線の標準軌 5000番代だけになる。
平原の彼方からEF510の前照灯の光が見えて、枯野を通り過ぎていった。このあたり華やかなものは何もなく冬を待つ水田と低い丘陵地帯。小さな集落が点在するだけ。
人の気配のない集落を貨物列車はいつものように通過して走り去っていった。毎日展開する光景。しかし季節は進んで師走となり1年が終わる時が近づく。荒れた天気が多くなり大地は雪に覆われる。
ふとみると線路わきに小さな柿の木が。実を付けていたが渋柿のようで誰も収穫されない。
渋柿は焼酎で渋抜きをしてしばらく置いておくと絶妙な味わいとなる。柿の木の脇には長ネギがたくさん。これもこの時期が本番の野菜。たくさん食べて厳しい冬を乗り切りたいものである。
通過した3098レは北海道の農産品を多数積載している。この列車の旬は秋でコンテナの積載が100%のことも多い。短い汽笛を鳴らし走り去っていった。
天候が下り坂のこともあり列車が通過後一気に暗くなりその後1時間経過したころ激しい雨が降ってきた。
2022年11月27日 下り「しらゆき」3号
昔買った上越線関連の写真集に渋川付近を走る特急「とき」183系が側面に斜光を受けて榛名山を背に右手にカーブを切り、ススキが斜光に白く輝く写真があった。先頭部はなく中間車両のみが反逆光の中を走る。上野を出て2時間平野から山間に入るあたり、乗客たちは何を思っていたか・・・・それらをイメージしたが短距離ローカル特急では難しいテーマである。短時間乗車で乗客も少ない。
2022年11月27日 「しらゆき」6号
E653系4連のあまりに短い編成で上越妙高までの短い区間を走る特急。利用者は少なく本来の目的である北陸新幹線連絡はほかの交通手段に持っていかれ、県内輸送中心であり、結局利用は伸び悩んで本年の3月ダイヤ改正で1往復が廃止されるに至った。
上越新幹線と北陸新幹線の接続特急も画餅に終わるように感じる。
わずかな客を乗せて走る短距離特急「しらゆき」と冬枯れ。車窓から見えるのは間もなくやってくる冬を前にした枯野。黄色い草原は稲の「ひこばえ」が枯れたもの。落葉した樹木と誰も食べない渋柿の実・・・
線路わきのすすきをあしらって。ここ数年は線路わきに雑草、雑木が目立つようになった。
すすきを右手に見ながら列車は走行する。
上りの3098レが通過すると一気に暗くなった。日没が早い11月下旬。雨の日が多くなり憂鬱な時期。
カジュアルなスタイルの方々が上越新幹線に乗車していく。多くは首都圏へ向かわれるのであろう。2時間程度の乗車で東京に着く。40年前は上越線特急「とき」で4時間越えの長時間の移動だったが現在はその半分まで所要時間が減った。冬は豪雪で運休は大幅遅れで悩まされたが上越新幹線開業により豪雪で悩まされることはなくなった。