1991年6月 塚山駅を発車したEF81139牽引のお座敷「白樺」 ちょっとくたびれた原色のEF81139が牽引。赤いEF81はまだ多くなく152号だけだったかもしれない。
この列車は飯山線の十日町が始発で越後川口までDD16301牽引、越後川口~長岡はDE101124牽引だった。
塚山駅はこの当時まだ待避線があり特急などの待避が行われていた。その後待避線は撤去され棒線駅となっている。
山間の小駅である塚山駅 上越線や信越本線の県境付近に比べると規模は小さいが柏崎と長岡のエリアを分ける峠の駅だった。
2018年8月30日木曜日
2018年8月29日水曜日
塚山峠を走る
1995年7月 EF81151牽引の14系「サロンエクスプレス東京」 蒸し暑い夏の一コマ。
ジョイフルトレインといわれる客車たちが多数あった時代よくこのあたりで撮影していた。
1993年6月 下り特急「北越」3号 上沼垂色485系9連が人口希薄な山村の風景を行く。
2017年4月7日 定番のアングルで まだ冬枯れである。
この日は通る車もなく鴬のさえずりと小川のせせらぎだけが聞こえる秘境ムードだった。
最近はこのあたりに行くこともないので今月発売された「鉄道ファン誌」に紹介されたこの界隈の写真を見て懐かしんでみた。
最近は訪れる人もあまりないらしいがそれはそれで新たなチャンスが到来したと言えよう…
ジョイフルトレインといわれる客車たちが多数あった時代よくこのあたりで撮影していた。
1993年6月 下り特急「北越」3号 上沼垂色485系9連が人口希薄な山村の風景を行く。
2017年4月7日 定番のアングルで まだ冬枯れである。
この日は通る車もなく鴬のさえずりと小川のせせらぎだけが聞こえる秘境ムードだった。
最近はこのあたりに行くこともないので今月発売された「鉄道ファン誌」に紹介されたこの界隈の写真を見て懐かしんでみた。
最近は訪れる人もあまりないらしいがそれはそれで新たなチャンスが到来したと言えよう…
2018年8月28日火曜日
晩夏を走る
2018年8月18日 お盆も終わって幾分しのぎやすくなった(ただしわずかひと時だけだったが相次ぐ台風で記録的な猛暑がすぐに戻ってきた)なんとなく夏の終わりが近づいた雰囲気が。
急行色のキハ47が入れ替えをしていた。
上越新幹線「とき330号」黄金色に色づいた水田を見ながら・・・
MAXとき332号?いまも16両が活躍するE4系。しかしそれも長くはない。
月潟の保存電車モハ11 角兵衛獅子の銅像とからめて
夏の花さるすべりとモハ11
さるすべりの赤と白
月潟駅に大きな看板ができた
締め切られて中に入ることができないが入り口のガラス越しに・・・
1999年4月4日に廃止となり東関屋から月潟駅に来る際に取り付けられたヘッドマーク
このような光景も昭和の頃を思い起こさせる。まだ貨物列車が多数運転していた時代は日常的だったのかもしれない。
新潟市の青山から月潟まで走ってきたバス 現在電車の代替としての機能をわずかに残す。月潟の図書館の前がバスの終点である。
バスはわずかな客を降ろすとすぐに回送となって潟東の車庫に帰っていった。
急行色のキハ47が入れ替えをしていた。
上越新幹線「とき330号」黄金色に色づいた水田を見ながら・・・
MAXとき332号?いまも16両が活躍するE4系。しかしそれも長くはない。
月潟の保存電車モハ11 角兵衛獅子の銅像とからめて
夏の花さるすべりとモハ11
さるすべりの赤と白
月潟駅に大きな看板ができた
締め切られて中に入ることができないが入り口のガラス越しに・・・
1999年4月4日に廃止となり東関屋から月潟駅に来る際に取り付けられたヘッドマーク
このような光景も昭和の頃を思い起こさせる。まだ貨物列車が多数運転していた時代は日常的だったのかもしれない。
新潟市の青山から月潟まで走ってきたバス 現在電車の代替としての機能をわずかに残す。月潟の図書館の前がバスの終点である。
バスはわずかな客を降ろすとすぐに回送となって潟東の車庫に帰っていった。
2018年8月27日月曜日
夕暮れ上越線
2018年8月13日 横川14時10分普通列車で高崎へ。211系の3+3の6連。混雑もなく快適であった。
高崎到着後は16時33分発の上越線水上行きで帰ることにし、しばらく高崎界隈を眺めてくることに。改札を出て上り方向左手に進んで新幹線の下をくぐってベストリアンデッキに。高崎駅のショッピングセンター街も見事なものである。(新しい新潟駅も比べるとかなり貧相に・・・)
鉄活動なので高崎車両センターを眺めてきたいと思う。雨はやんでいた。
10分程度新幹線高架の道路を経由で左に回って競馬場通りという道に出てさらに高崎線の線路を目指す。競馬場とはかつて高崎にあった地方競馬のことで現在は廃止。三条よりは大きかったような気がする。
さて高崎車両センターのレアな色のキハ111+112 公道から1カット(トリミングしている)1986年に登場したキハ38型にちなんでいる。キハ38はキハ30系とともに高崎で八高線などで走った後八王子~高麗川間電化とキハ110系導入で久留里線に転出しさらにキハE130の投入でいまはミャンマーに転出するに至った。
DD51842(左)とDD51888 高崎車両センターの人気機種。DD51842は御召機関車。
EF6019 右手に少しEF65501奥にEF641052 高崎のスターたちも休息中。
ちなみに市道の踏切から。交通量が多いので自動車にはねられないように注意。
さてここで駅の方に折り返して線路伝いの道に進んで上信電鉄の鉄製貨車とついこの間まで走っていたJR107系。
名車オハニ3611 1986年11月改正までは福知山にあって山陰本線で行商列車として走っていた。車内は魚介類の行商人が香住から豊岡あたりまで利用していた。その後高崎にJR東日本管内でレトロ車両として活躍している。
1956年鋼体化客車のオハニ63のTR11を軽量客車用のTR50と同じ溶接構造を持つTR52に交換して登場した。
座席間隔が急行と同じため急行や特急「さくら」「あさかぜ」などにも用いられた。
伴走車 オヤ12-1 SLの回送で連結される。 塗装は12系色のまま。
高崎駅東口?ベストリアンデッキからの眺め。前橋とともに北関東の雄都である。
この時間まだ雲行きは怪しくなかったが南側から雨雲が近づいてきていたようだ。
このあと土産店で仏前に供える菓子を購入(その前にベストリアンデッキ前のセブンで飲み物を)みどりの窓口で東三条まで普通乗車券のみ購入。3350円なり。通しで買うと4000円だが横川~高崎で500円、今の3350円で計3850円ということでペットボトル1本分浮いたことになる。
高崎16時33分発水上行きに乗車。211系3000番代ロングシート。結構混雑していた。
天気は雨が強くなってきたうえたち客が多数のためペットボトルの飲料を飲んで、横川で買った鉄道ピクトリアル「アーカイブセレクション 国鉄幹線の記録上越線信越線」を読む。列車はできてまだ歴史の浅い高崎問屋町に停車、井野を過ぎて新前橋。お座敷電車宴が停車していた。他は211系のみ。両毛線を右手に分かち山手に進む。遠くに赤城山が裾を広げ丘陵と平地の境目を進んで渋川。吾妻線の乗換駅。幾分車内が空いてきて、利根川を渡って敷島、津久田、岩本、沼田と進む。利根川の流れと鉄橋が多数あって見どころを形成しているさらに険しい岩肌と深い谷筋がここが上越線南部のハイライトであるがあいにくの雷雨で暗くて電車の窓もきれいとは言えないため撮影できず。水上は17時38分到着、ここで長岡行き17時49分発に乗り継ぐ。乗り継ぐ人はかなりあった。
高崎行きの211系と長岡行きのE129系4連。
水上も随分寂しくなった感じがある。行楽客も多くないし駅前の店は閉店している店もあった。
ここ数年で急激に衰退した。
蒸気機関車のをイメージした駅名標 いまや蒸気機関車は重要な観光資源。
水上を出て左手に水上機関区の跡地。わずかにD51745と転車台も。
東京から列車でやってくるといよいよ山深いところにぶち当たり旅の憂いを感じさせる場所にやってきたことになる。雨の日は特に梅雨く感じるかもしれない。
利根川を渡って深い山間へ。新清水トンネルに入って湯檜曽。
湯檜曽の次は「モグラ駅」の土合。何名かの人が降りて行った。下り線は改札口まで462段の階段ででなかればならないことで有名。
新清水トンネルを出ると新潟県に入り土樽。湿気と地上とトンネルとの温度差で窓が曇って外が見えにくくなった。越後中里でがらんとしたスキー場と休憩用の客車を眺め、防雪林や大カーブを通って越後湯沢。新前橋から延々と上越線の撮影聖地を巡ってきたが 越後湯沢で大休止。
18時22分着で18時47分発。新幹線の乗り継ぎの便宜だろうか?
越後湯沢駅前 水上よりこっちが活気がある。ここからタクシーでホテルに向かう人も多いのか?ただ在来線ホームががらんとして活気は全くなかった。
特急「はくたか」もすっかり過去の話。
在来線は改札口の仕切りもなかったのでうっかり切符を見せないで通過してしまい女性駅員に切符を見せろと言われる始末。(新幹線の乗り換え口は自動改札がある)
越後湯沢ではセブンでおにぎりと飲み物と小さな弁当を1個。E129系の中で食べるためである。越後湯沢ではほくほく線電車も停車していたが客扱がされていなかった。
電車に戻ると乗客も増えてラストコースに。
魚野川沿いに走り石打に。全く活気無。スキーは車で来る人がほとんどだろうか?
駅の構造も簡素化が進んで上下本線と電車留置線1本のみ。
塩沢はレトロ街が付近にあるが駅からは見えない。「北越雪譜」の作者鈴木牧之の出身地。
六日町が一応の中心駅でかなり降りていった。ほくほく線列車も待機あり。
すっかり日の暮れた上越線を走り長岡に着いたのは定刻20時2分。長岡到着前にEF510-507の貨物4090レが停車していた。
長岡で新潟行き463M E129系6連に乗り換え東三条着20時36分 久しぶりの在来線の長時間乗車が終わった。
高崎到着後は16時33分発の上越線水上行きで帰ることにし、しばらく高崎界隈を眺めてくることに。改札を出て上り方向左手に進んで新幹線の下をくぐってベストリアンデッキに。高崎駅のショッピングセンター街も見事なものである。(新しい新潟駅も比べるとかなり貧相に・・・)
鉄活動なので高崎車両センターを眺めてきたいと思う。雨はやんでいた。
10分程度新幹線高架の道路を経由で左に回って競馬場通りという道に出てさらに高崎線の線路を目指す。競馬場とはかつて高崎にあった地方競馬のことで現在は廃止。三条よりは大きかったような気がする。
さて高崎車両センターのレアな色のキハ111+112 公道から1カット(トリミングしている)1986年に登場したキハ38型にちなんでいる。キハ38はキハ30系とともに高崎で八高線などで走った後八王子~高麗川間電化とキハ110系導入で久留里線に転出しさらにキハE130の投入でいまはミャンマーに転出するに至った。
DD51842(左)とDD51888 高崎車両センターの人気機種。DD51842は御召機関車。
EF6019 右手に少しEF65501奥にEF641052 高崎のスターたちも休息中。
ちなみに市道の踏切から。交通量が多いので自動車にはねられないように注意。
さてここで駅の方に折り返して線路伝いの道に進んで上信電鉄の鉄製貨車とついこの間まで走っていたJR107系。
名車オハニ3611 1986年11月改正までは福知山にあって山陰本線で行商列車として走っていた。車内は魚介類の行商人が香住から豊岡あたりまで利用していた。その後高崎にJR東日本管内でレトロ車両として活躍している。
1956年鋼体化客車のオハニ63のTR11を軽量客車用のTR50と同じ溶接構造を持つTR52に交換して登場した。
座席間隔が急行と同じため急行や特急「さくら」「あさかぜ」などにも用いられた。
伴走車 オヤ12-1 SLの回送で連結される。 塗装は12系色のまま。
高崎駅東口?ベストリアンデッキからの眺め。前橋とともに北関東の雄都である。
この時間まだ雲行きは怪しくなかったが南側から雨雲が近づいてきていたようだ。
このあと土産店で仏前に供える菓子を購入(その前にベストリアンデッキ前のセブンで飲み物を)みどりの窓口で東三条まで普通乗車券のみ購入。3350円なり。通しで買うと4000円だが横川~高崎で500円、今の3350円で計3850円ということでペットボトル1本分浮いたことになる。
高崎16時33分発水上行きに乗車。211系3000番代ロングシート。結構混雑していた。
天気は雨が強くなってきたうえたち客が多数のためペットボトルの飲料を飲んで、横川で買った鉄道ピクトリアル「アーカイブセレクション 国鉄幹線の記録上越線信越線」を読む。列車はできてまだ歴史の浅い高崎問屋町に停車、井野を過ぎて新前橋。お座敷電車宴が停車していた。他は211系のみ。両毛線を右手に分かち山手に進む。遠くに赤城山が裾を広げ丘陵と平地の境目を進んで渋川。吾妻線の乗換駅。幾分車内が空いてきて、利根川を渡って敷島、津久田、岩本、沼田と進む。利根川の流れと鉄橋が多数あって見どころを形成しているさらに険しい岩肌と深い谷筋がここが上越線南部のハイライトであるがあいにくの雷雨で暗くて電車の窓もきれいとは言えないため撮影できず。水上は17時38分到着、ここで長岡行き17時49分発に乗り継ぐ。乗り継ぐ人はかなりあった。
高崎行きの211系と長岡行きのE129系4連。
水上も随分寂しくなった感じがある。行楽客も多くないし駅前の店は閉店している店もあった。
ここ数年で急激に衰退した。
蒸気機関車のをイメージした駅名標 いまや蒸気機関車は重要な観光資源。
水上を出て左手に水上機関区の跡地。わずかにD51745と転車台も。
東京から列車でやってくるといよいよ山深いところにぶち当たり旅の憂いを感じさせる場所にやってきたことになる。雨の日は特に梅雨く感じるかもしれない。
利根川を渡って深い山間へ。新清水トンネルに入って湯檜曽。
湯檜曽の次は「モグラ駅」の土合。何名かの人が降りて行った。下り線は改札口まで462段の階段ででなかればならないことで有名。
新清水トンネルを出ると新潟県に入り土樽。湿気と地上とトンネルとの温度差で窓が曇って外が見えにくくなった。越後中里でがらんとしたスキー場と休憩用の客車を眺め、防雪林や大カーブを通って越後湯沢。新前橋から延々と上越線の撮影聖地を巡ってきたが 越後湯沢で大休止。
18時22分着で18時47分発。新幹線の乗り継ぎの便宜だろうか?
越後湯沢駅前 水上よりこっちが活気がある。ここからタクシーでホテルに向かう人も多いのか?ただ在来線ホームががらんとして活気は全くなかった。
特急「はくたか」もすっかり過去の話。
在来線は改札口の仕切りもなかったのでうっかり切符を見せないで通過してしまい女性駅員に切符を見せろと言われる始末。(新幹線の乗り換え口は自動改札がある)
越後湯沢ではセブンでおにぎりと飲み物と小さな弁当を1個。E129系の中で食べるためである。越後湯沢ではほくほく線電車も停車していたが客扱がされていなかった。
電車に戻ると乗客も増えてラストコースに。
魚野川沿いに走り石打に。全く活気無。スキーは車で来る人がほとんどだろうか?
駅の構造も簡素化が進んで上下本線と電車留置線1本のみ。
塩沢はレトロ街が付近にあるが駅からは見えない。「北越雪譜」の作者鈴木牧之の出身地。
六日町が一応の中心駅でかなり降りていった。ほくほく線列車も待機あり。
すっかり日の暮れた上越線を走り長岡に着いたのは定刻20時2分。長岡到着前にEF510-507の貨物4090レが停車していた。
長岡で新潟行き463M E129系6連に乗り換え東三条着20時36分 久しぶりの在来線の長時間乗車が終わった。
2018年8月26日日曜日
弥彦線115系N38とN40
2018年8月25日 226M 115系N38編成
この付近も最近変化があったようで重機が見えた。
信越本線の3374M 新井快速 115系N40編成 どんよりした空と蒸し暑い空気。
2018年8月26日 229M E129系A2編成 E127系の代走。
朝方激しい雨が降っていた。
115系N40編成 弥彦線のもなじんだようだ。現在N35編成は大宮に入場中で出場後は第2次新潟色に(115系N33と同じ色に) 次いでN36編成も115系第2次弥彦線色にに塗り替わることになっている。
115系N37編成 登場してから1年近くになる。 115系はすべて長野からの転入車両であり1978年6月以降に旧型国電70系の置き換えに導入されたものは全て廃車になっている。
N3、N17、N18編成は本年の4月3日、N13編成は本年の4月6日、N30編成は本年の4月10日となっている。新潟車両センターでの解体である。 また長野色の115系4連のL99編成は今月1日廃車となって古巣の長野へ解体のため移送された。
この付近も最近変化があったようで重機が見えた。
信越本線の3374M 新井快速 115系N40編成 どんよりした空と蒸し暑い空気。
2018年8月26日 229M E129系A2編成 E127系の代走。
朝方激しい雨が降っていた。
115系N40編成 弥彦線のもなじんだようだ。現在N35編成は大宮に入場中で出場後は第2次新潟色に(115系N33と同じ色に) 次いでN36編成も115系第2次弥彦線色にに塗り替わることになっている。
115系N37編成 登場してから1年近くになる。 115系はすべて長野からの転入車両であり1978年6月以降に旧型国電70系の置き換えに導入されたものは全て廃車になっている。
N3、N17、N18編成は本年の4月3日、N13編成は本年の4月6日、N30編成は本年の4月10日となっている。新潟車両センターでの解体である。 また長野色の115系4連のL99編成は今月1日廃車となって古巣の長野へ解体のため移送された。
横川夏時雨
2018年8月13日 碓氷峠鉄道文化むら EF6310の前でツアー客に開設をする職員。
解説内容は碓氷峠の険しさ、歴史、アプト式のことなど・・・・
EF3020、EF58172、EF532、EF631・・・ミニSL乗り場で雨宿り。時折雷鳴が聞こえる。
お座敷列車「くつろぎ」の内部。ジョイフルトレインとして各地を巡った12系お座敷列車くつろぎも今は休憩室として余生を送っていた。家族連れ様各位が休憩。
旧機関区建屋内で見かけた普通旋盤 機関車の部品作成に活躍したのであろう。穴をあけるボール盤や、駅にあった行先表示器、運行データーを入力する機器、タブレット式閉塞機、など貴重なアンテーク機材も多数あった。
機関庫内を見学後は資料館へ。雨のためフードコートは埋まっていたが朝方ほどは混んでいなかった。資料館で見たラックレール模型。ラックレールに関していえば群馬県のあちこちで目にすることができ渋川でも見た記憶があった。
構造は奥に集電用レール(660V )車輪の線路中央にアプト式機関車の歯車を通すためのラックレールとなる。日本では大井川鉄道の井川線の一部で用いられている。
めがね橋を走るED42と奥は信越本線の新線を走る189系あさまとEF63 ここも一度はお連れてみたい場所だが実現していない。
1978年10月13日に運転されたお召し列車に関する資料。
「昭和天皇御召列車全記録 」P148によると第33回国民体育大会の御行幸のため、10月13日朝9時40分原宿を発って長野は13時39分に到着のダイヤ。
原宿~高崎はEF5861で高崎~長野間はEF6211、補助機関車はEF6313+EF6311
(翌14日はEF6458が篠ノ井線長野14時30分~松本15時50分、16日はEF6458で塩尻12時07分~原宿14時40分となっている)
熊ノ平駅の模型
ED42貨物とキハ57系急行など
キハ57系はアプト式区間通過のため台車が空気ばねとなっていて急ブレーキ時にラックレールと干渉しないようになっていた。横川~軽井沢間が新線に切り替わった後は中央線などで活躍した。新潟県の大阪急行「越後」でもその姿を見ることができた。
晩年は全車冷房完備でほかの気動車急行「赤倉」新潟~名古屋間、「しらゆき」金沢~新潟~青森間に勝る内容だったが1978年に廃止され「雷鳥」12号、13号に格上げされた。
それ以降は四国や名古屋、中込で余生を送り四国のものはJRに引き継がれJR四国色のまま1990年8月臨時列車で大阪に来たのを目撃することができた。
おもえば一番最初に碓氷峠に来たのが1985年の1月14日のことだった。全くの平日だが休みがもらえたので行ったことのない碓氷峠を見たくなり気まぐれで出てみた。
高崎から115系の普通列車で横川に。多数たむろするEF63をながめ、丸山変電所あたりまで歩いた。特に臨時列車もなく、1984年2月の時点で貨物輸送も廃止となりいっときのエアポケット状態だったこともあり誰もいなかったのでのんびり撮影をすることができた。
但し身を切られる寒さだったが・・・・撮影終盤になりこんもりした場所に上がって特急「白山」や廃止予定の169系急行「信州」を待っていたら同年代くらいの方々が通りかかり「寒いですががんばってください」との励ましを頂いた。
撮影後は閑散とした横川駅で「峠の釜めし」を買い求め115系の中で食べた。
碓氷峠はその後2回程度来ただけでその後は廃止になるまで訪れなかった。したがって廃線間際の喧騒とかかわりを持っていない。
最後は売店をのぞいて・・・グッズも多数あって見ごたえがある。ちょうど鉄道ピクトリアルの別冊「アーカイブセレクション35 国鉄幹線の記録 上越・信越線」があったのでこれを買い求めた。(ほかレプリカのサボや鉄道模型、文具、ぬいぐるみ?その他多数 また歴史研究資料もあったが財布の中身が情けない状況なので・・・)
資料館を出るとまたまた雨が強くなり雷が再びなりだしたので急いで駅に。
高崎まで切符を購入そのあと遅い昼食。「おぎのや」の峠の釜めしはテント内のフードコートは無人になり売り切れたようだった。蕎麦屋がやっていたので天そば420円を。
雨は激しく雷が鳴り続けたが落雷は無いようだったのでのんびり食べられた。
東南アジア系のインバウンドさん(女性2名)が休日限定のメニューを注文して断られたが言葉が通じなくて要領を得ない様子だったので「月曜なのでやっていない」と 告げた。
それでもあきらめきれない様子だったがなっとくして普通の蕎麦を注文できたようだった。いまではどこでも海外のインバウンドさんたちに遭遇する時代となった。
この2名さんどこを巡ってこられたのか? 軽井沢からバスで来ることもできるが。
高崎行きの普通列車。107系も115系もすべて撤退し今は群馬県のローカルの主流になった。3000番代のロングシートである。高崎から帰るため上越線に乗ったが水上までロングシートの道中だった。べつに慣れてしまえば座席にこだわる必要もないが。
高崎に着いたらまだ雨は降っていなかったが甲信地方はかなりの土砂降りだったようだ。
解説内容は碓氷峠の険しさ、歴史、アプト式のことなど・・・・
EF3020、EF58172、EF532、EF631・・・ミニSL乗り場で雨宿り。時折雷鳴が聞こえる。
お座敷列車「くつろぎ」の内部。ジョイフルトレインとして各地を巡った12系お座敷列車くつろぎも今は休憩室として余生を送っていた。家族連れ様各位が休憩。
旧機関区建屋内で見かけた普通旋盤 機関車の部品作成に活躍したのであろう。穴をあけるボール盤や、駅にあった行先表示器、運行データーを入力する機器、タブレット式閉塞機、など貴重なアンテーク機材も多数あった。
機関庫内を見学後は資料館へ。雨のためフードコートは埋まっていたが朝方ほどは混んでいなかった。資料館で見たラックレール模型。ラックレールに関していえば群馬県のあちこちで目にすることができ渋川でも見た記憶があった。
構造は奥に集電用レール(660V )車輪の線路中央にアプト式機関車の歯車を通すためのラックレールとなる。日本では大井川鉄道の井川線の一部で用いられている。
めがね橋を走るED42と奥は信越本線の新線を走る189系あさまとEF63 ここも一度はお連れてみたい場所だが実現していない。
1978年10月13日に運転されたお召し列車に関する資料。
「昭和天皇御召列車全記録 」P148によると第33回国民体育大会の御行幸のため、10月13日朝9時40分原宿を発って長野は13時39分に到着のダイヤ。
原宿~高崎はEF5861で高崎~長野間はEF6211、補助機関車はEF6313+EF6311
(翌14日はEF6458が篠ノ井線長野14時30分~松本15時50分、16日はEF6458で塩尻12時07分~原宿14時40分となっている)
熊ノ平駅の模型
ED42貨物とキハ57系急行など
キハ57系はアプト式区間通過のため台車が空気ばねとなっていて急ブレーキ時にラックレールと干渉しないようになっていた。横川~軽井沢間が新線に切り替わった後は中央線などで活躍した。新潟県の大阪急行「越後」でもその姿を見ることができた。
晩年は全車冷房完備でほかの気動車急行「赤倉」新潟~名古屋間、「しらゆき」金沢~新潟~青森間に勝る内容だったが1978年に廃止され「雷鳥」12号、13号に格上げされた。
それ以降は四国や名古屋、中込で余生を送り四国のものはJRに引き継がれJR四国色のまま1990年8月臨時列車で大阪に来たのを目撃することができた。
おもえば一番最初に碓氷峠に来たのが1985年の1月14日のことだった。全くの平日だが休みがもらえたので行ったことのない碓氷峠を見たくなり気まぐれで出てみた。
高崎から115系の普通列車で横川に。多数たむろするEF63をながめ、丸山変電所あたりまで歩いた。特に臨時列車もなく、1984年2月の時点で貨物輸送も廃止となりいっときのエアポケット状態だったこともあり誰もいなかったのでのんびり撮影をすることができた。
但し身を切られる寒さだったが・・・・撮影終盤になりこんもりした場所に上がって特急「白山」や廃止予定の169系急行「信州」を待っていたら同年代くらいの方々が通りかかり「寒いですががんばってください」との励ましを頂いた。
撮影後は閑散とした横川駅で「峠の釜めし」を買い求め115系の中で食べた。
碓氷峠はその後2回程度来ただけでその後は廃止になるまで訪れなかった。したがって廃線間際の喧騒とかかわりを持っていない。
最後は売店をのぞいて・・・グッズも多数あって見ごたえがある。ちょうど鉄道ピクトリアルの別冊「アーカイブセレクション35 国鉄幹線の記録 上越・信越線」があったのでこれを買い求めた。(ほかレプリカのサボや鉄道模型、文具、ぬいぐるみ?その他多数 また歴史研究資料もあったが財布の中身が情けない状況なので・・・)
資料館を出るとまたまた雨が強くなり雷が再びなりだしたので急いで駅に。
高崎まで切符を購入そのあと遅い昼食。「おぎのや」の峠の釜めしはテント内のフードコートは無人になり売り切れたようだった。蕎麦屋がやっていたので天そば420円を。
雨は激しく雷が鳴り続けたが落雷は無いようだったのでのんびり食べられた。
東南アジア系のインバウンドさん(女性2名)が休日限定のメニューを注文して断られたが言葉が通じなくて要領を得ない様子だったので「月曜なのでやっていない」と 告げた。
それでもあきらめきれない様子だったがなっとくして普通の蕎麦を注文できたようだった。いまではどこでも海外のインバウンドさんたちに遭遇する時代となった。
この2名さんどこを巡ってこられたのか? 軽井沢からバスで来ることもできるが。
高崎行きの普通列車。107系も115系もすべて撤退し今は群馬県のローカルの主流になった。3000番代のロングシートである。高崎から帰るため上越線に乗ったが水上までロングシートの道中だった。べつに慣れてしまえば座席にこだわる必要もないが。
高崎に着いたらまだ雨は降っていなかったが甲信地方はかなりの土砂降りだったようだ。
2018年8月23日木曜日
碓氷峠鉄道文化むらの機関車
2018年8月13日 碓氷峠鉄道文化むら EF65520 高速貨物用のEF6500番代。
1960年代に高速貨物列車を牽引して上越線に入線。寒冷地対策として庇や汽笛カバーを付けた。1966年2月23日東芝電気で製造。
EF3020 かつて門司機関区にあって下関から関門トンネルを経由して文字までの列車を牽引していた。ステンレス製車体が特徴。
EF58172 1983年の栃木植樹祭で日光線のお召し列車をけん引した。
EF591 山陽本線の瀬野八の補機として活躍。山岳機関車。
(山岳機関車といえばここにEF64やEF71がいないのが惜しい。そういえばEF16は同じ群馬県だが水上に保存されている)
戦後の一時期(EF58などの増備が進むまでの間)高崎線の輸送を担ったEF532。のちにEF59に改造される。
EF53としては信越本線の高崎~横川間にも走っている。
蒸気機関車D5196と左手にEF8063 D5196は初期車で煙突の後ろのドームが流線型の「なめくじ型」である。D51498とはかなり異なる。
EF8063は常磐線で活躍した交直両用機。
DD511 初期型で思索的要素の強い形式。登場当初の塗装となっている。
雷鳴がとどろく中急ぎ足で見学をしてみた。機関車の運転台は比較的見られたが肝心の客車の内部が見学できなかったのが痛かった。
1960年代に高速貨物列車を牽引して上越線に入線。寒冷地対策として庇や汽笛カバーを付けた。1966年2月23日東芝電気で製造。
EF3020 かつて門司機関区にあって下関から関門トンネルを経由して文字までの列車を牽引していた。ステンレス製車体が特徴。
EF58172 1983年の栃木植樹祭で日光線のお召し列車をけん引した。
EF591 山陽本線の瀬野八の補機として活躍。山岳機関車。
(山岳機関車といえばここにEF64やEF71がいないのが惜しい。そういえばEF16は同じ群馬県だが水上に保存されている)
戦後の一時期(EF58などの増備が進むまでの間)高崎線の輸送を担ったEF532。のちにEF59に改造される。
EF53としては信越本線の高崎~横川間にも走っている。
蒸気機関車D5196と左手にEF8063 D5196は初期車で煙突の後ろのドームが流線型の「なめくじ型」である。D51498とはかなり異なる。
EF8063は常磐線で活躍した交直両用機。
DD511 初期型で思索的要素の強い形式。登場当初の塗装となっている。
雷鳴がとどろく中急ぎ足で見学をしてみた。機関車の運転台は比較的見られたが肝心の客車の内部が見学できなかったのが痛かった。
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