2018年4月30日月曜日

国鉄色気動車キハ48523+キハ47514

 2018年4月30日 新津駅にて 磐越西線の会津若松からの列車が到着。客扱を終えて入庫のため動き出した。急行色はキハ48523 窓の下の赤い帯が太すぎるのが今ひとつであるが2扉の車両のためかどことなく急行型に見える。
朱色のキハ47514 本日は珍しく国鉄風の編成だった。朱色の車体もだいぶくすんできた。
キハ471514 近郊型仕様の急行色編成キハ66、67を思い出させる。 車内は通常のボックス式の座席であるが。キハ66,67は転換式座席で冷房完備だった。国鉄時代としては大盤振舞な車両だったが重くて製造コストもかかるためか筑豊の15ユニットのみの増備だった。キハ40、47は冷房無で座席はボックス席の一般型として増備された。車体が重くなり機関出力もそれほど大きくなかった(220PS)がそれまでの気動車よりはましな構造だったため好評だったようだ。
キハ40587のATS=Pの表示。乗務員の扉の赤い帯の下に表示されている。新潟駅に乗りいれが可能な車両である。115系もATS-Pが無いものは全て使用終了している。

加茂川のこいのぼり

2018年4月30日 加茂川にて 今年の鯉のぼりは信越本線が望める部分にも設置された。
そのため取り合わせが楽になった。特急「しらゆき」2号のE653系

2018年4月29日日曜日

EF510-504+EF510-1 3097レ

2018年4月29日 気温は29度くらいに上昇。田圃はしろかきに大忙し。
EF510-504を先頭にEF510-1を無動に3097レがやってきた。

115系N40編成「上越線春のハイキング」号

2018年4月29日「昭和の日」祝日 本日のお題は115系N40編成の「上越線春のハイキング」号。東三条駅のハナミズキを入れて。
115系N3編成では運行できなかった上越線の「越後湯沢」の表示。ドア付近の号車標や愛称標には指定席の札が。

 東三条駅を発車して越後湯沢に向かう。弥彦線ホームには115系(226M)N35とN33の226Mが発車待ちしていた。

EF6627~2012年1月吹田機関区

2012年1月2日 吹田機関区で待機するEF6627 右手にはEF6626が。正月休みで貨物の運用がない機関車たちが静かに休んでいた。

2018年4月26日木曜日

頸城鉄道のホトク1

2017年5月5日  上越市頸城区 くびき野レールパーク内で見かけた頸城鉄道の特別和式客車 ホトク1内部 現代にも通じるお座敷仕様 客層はどのようだったのだろうか?
1914年日本車両で製造日本初のお座敷車。下駄箱と傘立てもあったという。

ホジ3は上記ホトク1を改造したものだが車両中央に突き出たエンジンカバーが客車改造だったころを証明しているという。1931年にホトク1を改造した。(書類上は改造認可後の1932年4月)


2018年4月25日水曜日

くびき野レールパーク ホジ3


2017年5月5日 上越市頸城区百間町のくびき野レールパーク かつての頸城鉄道の名車たちの舞台。ホジ3型機械式気動車。ホトク1という和式客車からの改造で車内にエンジンカバーがある。木目が美しい車内。

2018年4月24日火曜日

EF510-508

2017年3月26日 EF510-508の3097レ 現在本機は広島に入場中である。
外観に変化があるかどうかはわからない。

2018年4月22日日曜日

初夏の陽気を走る115系N37編成第一次新潟色

2018年4月22日 快速3481M 115系N37編成が初夏の陽気の中走り抜ける。
豪雪の後は暑い春となっている。異常気象の中桜は晩春の八重桜が見ごろ。
朝選挙に出た後撮影して一息入れた後快速列車のみを撮影した。

久しぶりにN37編成を。1986年の国鉄末期より登場した塗装。1990年代の半ばまではこの色が主流となっていた。1993年の暮れから第二次新潟色に追われて1996年頃には消滅して気動車用の色となっていた。
信越本線の115系は直江津~長岡~新潟の区間では快速列車1往復となっていて上り3374Mと下り3371M~3481Mだけである。

2018年4月21日土曜日

弥彦線終電

2018年4月14日 弥彦線E127系の吉田行き251M  東三条駅0番線で発車を待つ最終電車。途中の燕三条では上越新幹線とき345号の乗り換え客を拾って吉田には22時10分に着く。東三条の時点ではそれなりに乗車がありそれほど空いてもいなかった。

オコミからのお知らせ

2018年4月14日 新津駅 ばんえつ物語のゆるキャラのオコミと展望グリーン車の車内の写真。1999年の春に12系のオールモノクラスでスタートしたばんえつ物語も今では車種が増えてにぎやかである。現在展望車は3両連結それぞれ最後尾(グリーン車とオコジョルーム)と中間に1両である。とかく単調になりがちな道中これらの場所で気分転換できる。(グリーン車は利用者のみ)
普通運賃+普通グリーン指定なのでそれほど負担もかからなそうなので機会を見て乗ってみたいところである。

2018年4月19日木曜日

キハ110系3連

2014年4月14日 新津で発車を待つキハ110系3連の新発田行き 135D
JRになってから登場した気動車であるが最近はレトロに感じるようになってきた。
外観が2扉で国鉄急行型のような雰囲気を醸し出している

D51489と湘南色115系

1999年6月 高崎を発車するD51498の試運転列車と高崎線上り普通列車。
当時はありきたりな光景であるが本年3月のダイヤ改正では115系は運用が無くなり廃車が始まっている。D51498は1988年の暮れに車籍が復活して現在に至っている。国鉄時代末期は後閑駅で保存されていた。

2018年4月17日火曜日

JR北海道キハ130型気動車と東新潟港の貨物

1998年10月10日(祝) 新潟市東区 東新潟港
かつてこの近くに今は無い新潟鐵工所大山工場があり落成した新車両がこの駅に運び込まれた。JR北海道の軽快型気動車キハ130型が登場。新潟操車場までDE10で運ばれそのあとEF81牽引で北海道へ向かった。この形式は日高本線で走っていたが厳しい気候条件には太刀打ちできず短命に終わっている。

ひだりに見えているタンク車2両の貨物列車も今は見ることができない光景。

この東新潟港は現在休止路線となっている。実際には廃止路線といってもよい。
新潟鐵工所もその後聖籠町へ移転したが倒産の憂き目にあい現在は新潟トランシスという別会社になって鉄道車両の製造がおこなわれている。

2018年4月16日月曜日

雨の長岡快速

2018年4月15日 長岡からの快速3481M 先週に引き続き115系N40編成。
70系新潟色を纏ったN3編成はもうこの世にはない。鉄屑に帰っていった。
儚い夢の生涯。

闇に向かって走れ

2018年4月14日 EF510-511牽引4090レ 東三条の2番線を今発車する。
とくに追い抜く列車もなく停車時間も短いのに待避線に入る不思議な列車。

2018年4月14日土曜日

新潟駅高架化工事落成前日~夜の快速列車乗車

2017年4月14日 東三条駅 9461M新津行き

いよいよ新潟駅の高架工事の大部分が出来上がり念願だった上越新幹線と羽越線特急の接続が同一の乗り場で可能となり越後線も新潟駅から信濃川の手前付近まで複線化(この付近まで駅構内という説あり)がなされる。前日の14日は線路切り替えが発生バス代行が行われた。
東三条20時16分快速で新津へ。新津からはE653系の快速で東三条に帰る行程で夕食後列車に乗ることに。
東三条から新津は直江津からの快速3375Mで。E129系4連。乗車はあまり多くなかったが大きな荷物を持った人が多かった。北陸新幹線、トキめき鉄道、直江津快速の順で乗り継いでこられたのであろうか?かつてこの時間帯特急「北越」が走っていたがそのころの名残を感じた。

E129系の快速は初乗車。ボックス席の座り心地が今ひとつなのを除けば快適であった。
加茂~羽生田は丘陵地に沿ってくねくねで速度は上がらないが 田上付近の直線に入ると結構飛ばしていた。車内放送は肉声のみ。

新津ではキハ40系4連の 9587Dに乗り継ぐ人も多かった。この列車が最後の新潟行き列車でこれ以降は越後石山どまり。新潟駅に向かう人は亀田で降りて代行バスに乗り換えである。越後線は11時前から白山と新潟の区間がバス代行となっていて新潟交通のほか越後交通のバスも走っていた。(バス愛好家の方々は目が離せない一日だったのでは)


新津駅で見かけた越後石山行きの電光表示。新津行き電車は回送となって新潟車両センターに向かう。越後石山行きも同様である。
越後石山行きとなったE129系の列車は行先表示器を消して走っていた。越後石山の表示がないからであろう。
新津21時14分発直江津行き臨時快速9362M  通常は「らくらくトレイン信越」という名称で整理券310円が必要だが4月14日は整理券不要の自由席快速列車として運転される。
H204編成が運用についていた。
E653系の車内 座席はシーピッチは910㎜だが足元に余計なでっぱりが無いので485系よりはせまっ苦しさは無い。
新津は21時14分発 チャイムのあと放送が入る。そのあと英語の放送と続く。乗車している人は極めて少なく1両あたり5~6人くらい。(らくらくトレイン・・・)の放送を行い本日に限り全席自由席で整理券不要という案内であった。
久しぶりの特急型の乗車。E653系は初乗車。
座席部分にある黄色いものはチケットホルダーである。4月14日は単なる自由席の快速であるためチケットホルダーはいらないかもしれない。新潟駅始発ではないため乗車率も低迷し空席が目立った。乗り心地は悪くないがE653系もかなり使い込まれていた。

テーブルにお茶を置いて走りっぷりを楽しんだ。これからもE653系は乗車機会はあまりない。マイカーの守備範囲だからである。
しばらくぶりのJR在来線の特急型車両の乗り心地を楽しんだ





2018年4月12日木曜日

スハフ32 2131

1983年11月 新津駅の今は無い0番線に停車中の郡山行き普通列車のスハフ322131〔仙コリ〕 戦前の古豪が活躍する舞台が磐越西線であった。スハ32系は1984年4月8日の越後線と弥彦線の電化開業のダイヤ改正まで姿を見ることができた。越後線・弥彦線の電化開業により50系客車の越後線乗り入れが廃止されその運用は磐越西線に振り向かれたためである。

2018年4月10日火曜日

旧新潟交通電車線の月潟公開

2018年4月8日 月潟駅一般公開 普段は入ることのできない空間。古風な私鉄の駅の風風情を伝えてくれている。
月潟駅時刻表 1999年4月4日の廃止の時のまま。
モハ11保存電車から中ノ口川をみる。
運転台から見た満開の桜
キ116号車内
雨の桜とモハ11
 モハ11の中では保存会の方々が持ち寄った模型が運転されていて新潟交通電車線のほか越後交通長岡線 の模型もあった。





2018年4月9日月曜日

フィルムカメラで撮影した115系N40編成など

2018年4月8日 信越本線保内 長岡からの快速115系N40編成である。
製造後50年近い古カメラのOLYMPUS35SPで撮影。デジカメと違ってレンズが古いせいか
 やわらかめの画像となり車両本来のけばけばしさも和らいでいる。
この日は月潟の保存車両の一般公開がされていた。古いレンズで撮影するとどことなく現役の頃の風情に見えてくる。
モワ51とキ116 現役の頃を思わせるしっとりした色加減。

一眼レフカメラと違ってコンパクトカメラ(レンジファインダー式)は鉄道撮影には向かないと思いあまり使わないで押入れの片隅に・・・・捨てようと思ったが使ってみると意外な色加減で往時を楽しむことができるとわかった。
白黒フィルムがまだ手に入る今が一番いい時かもしれない。



現美新幹線とき452号

2018年4月8日 上越新幹線燕三条~新潟間 現美新幹線  最近車内をリニューアルしたらしい。カフェがありコーヒーやスイーツがいただけるコーナーがある。

黒い車体に長岡花火をイメージした絵を側面に表し新幹線車両としては異彩を放っている。

2018年4月8日日曜日

春の雪が満開の桜に降り注ぐ

2018年4月8日 東三条に到着した弥彦線227Mの115系N38編成。8時ころから雪が強くなってきた。線路上は一瞬にして白くなった。
屋根も真っ白。4月は冬と春と初夏が同居する厄介な時期。体調に気を付けないと。
信越本線の1323Mは途中に激しく吹雪かれて正面が真っ白になっていた。まさに冬。

越後線と弥彦線が電化開業したのが1984年4月8日。この日の朝も雪が降っていたことを思い出してしまった。この年も豪雪であった。なんとなく似たような年ではある。

東三条駅前の桜は見事満開で神社も祭りということになれば町内の方々総出で花見を兼ねて参加されるのだろうがこの雪と寒さではそれどころではないかもしれない。



2018年4月7日土曜日

消えてゆく白黒フィルム

 2017年3月25日 坂町駅 SL村上ひな街道の牽引機関車C57180が方向転換と点検のため坂町機関区跡地の転車台に向かうところ。



 無心に機関車を眺める人々。年配者は懐かしみ子供たちは(その親も)力強い蒸気機関車を見て感動する。
 蒸気機関車が多くの人々に愛されているのがわかる。
 転車台に乗って方向転換を完了。この後は点検と給水。
 かつては機関庫もあったが現在は取り壊されて存在しない。荒野のごとくの機関区跡地の転車台で機関車の点検整備が始まる。
おまけ 梅花。 この画像は富士フイルムのネオパンアクロス100というモノクロフィルムを使って撮影してみた。撮影機材はOLYMPUS35SPというコンパクトカメラである。
1969年に発売されおととし押入れの中を掃除していたら出てきたので使ってみたらまだ写るので思い出したように使っている。最近は白黒用のフィルターY1やレンズフードもつけてみた。1960年代に撮影機材だけにもともとが厳めしい外観であるがそれらを付けたらさらに精悍な印象となってしまっていた。このOLYMPUS35SPも都合上コンパクトカメラと言ってみたもののSP=スポット測光があり露出はEE(オート)を使わないばあいEV値を読んで絞りまたはシャッターを合わせて撮影する。完全フルマニュアルも可能でレンズは42㎜ F1.7である。家庭用のほかプロのサブ機も使用者の範疇に含んでいたのかもしれない。

1960年代はまだまだ白黒が主流(カラーはすごく高かった)カラーが安くなるのは昭和の終わり1980年代後半あたりではなかったろうか?平成時代に入ると高速仕上げ、高感度微粒子のネガカラ―が販売されカメラ店だけではなくスーパーでも写真の取次がされ価格もかなり安くなった。場合によっては数時間で同時プリントができたりの時代となった。
 かつては家庭の写真も白黒が主流だったようだがこのころになるとカラー写真に駆逐されて使う機会も減っていく。じつは当方も平成時代になってからは白黒はやらなくなったのであるが白黒用のフィルターを見つけたことや写真屋さんのデジタルのモノクロとフイルムのモノクロは違うという言葉 がきっかけでちょっと撮影をしてみた。

フイルム本体も現像代も結構高価であるがそれに見合う楽しみである。しかしその楽しみも先行きが怪しくなってきた。けさのNHKニュースで国産の白黒フィルム=ネオパンアクロスの製造をやめるというニュースが・・・・デジタル主流の昨今を考えるといたしかたないが戦前から戦後そして平成の現代まで写真の普及と発展を担ってきた白黒フィルムが消え去ってしまうのは惜しい気がする。

最近の蒸気機関車でも白黒で撮影すると1960年代後半からの蒸気機関車ブームの時代を彷彿させるから不思議な感じではある。