2023年2月26日 EF510-12 4091レ
この日の朝も雪化粧。時間が経つにつれて減っていったが10時過ぎのこの時間まだわずかに残りそこを貨物列車が通過。EF510のモーターの音が響きその後に貨車のジョイント音が連なる。列車が通過した後日差しが途絶え雲に覆われた。
この日の朝も雪化粧。時間が経つにつれて減っていったが10時過ぎのこの時間まだわずかに残りそこを貨物列車が通過。EF510のモーターの音が響きその後に貨車のジョイント音が連なる。列車が通過した後日差しが途絶え雲に覆われた。
一旦は暖かくなったが再び寒気が入り、この撮影後雪が舞い始めた。寒さと温かさを繰り返しながら春を迎える。背後の丘はソメイヨシノが多数あり満開になると桜色が支配する。もうあと一ケ月後のことであるが・・・
誰もいない日・・・函館本線の特急「いしかり」として走り、粉雪で機器を破壊され後身の781系に北辺の輸送を託し本州に舞い戻る。今度は日本海縦貫線と東北本線の「白鳥」「はつかり」「ひばり」など長距離特急として走破徐々に走行区間は狭くなるものの盛岡~青森間「はつかり」青森~新潟間「いなほ」など東北地方の新幹線接続列車で 走り続けた。後に2001年新潟に転入して「北越」「いなほ」などで2015年まで使われたのち廃車となりこのクハ481-1508がこの場所で安住の地を得た。
冬の日を側面に受けながら厳しい北の大地を走ったことや東北地方や北陸地方の長い旅路を思い出しているのであろうか・・・・
この時代北陸本線の普通列車は客車列車と気動車列車が主力であった。しかし1985年3月のダイヤ改正では583系改造の419系と475系で置き換わり電車化することが決定した。
1984年の暮れから1985年のダイヤ改正直前まで、客車の履歴を調べ、客車列車を記録することを行うこととなった。北陸本線の沿線にはだれもおらず、一人淡々と行動することとなった。
豪雪のこの年3月に入っても雪は多く彼岸の頃まで消えなかった。
上野~青森間1往復運転 485系〔青森運転所 〕 1982年11月15日から1985年3月14日までの運転であった。1982年11月ダイヤ改正までの特急「いなほ」を「鳥海」に変更したもので前日までは夜行急行列車として上野~秋田間旧型客車で運転されていた。変則的な愛称格上げである。夜行急行列車は寝台特急「出羽」となったがこちらは上野~山形~酒田運転の気動車急行を転用しており複雑な愛称の格上げであった。
485系1500番代は北海道特急「いしかり」で運用されたが冬場の故障が多発のため1979年に781系に置き換えられ本州の特急として再出発した。現在新津鉄道資料館に先頭車クハ481-1508が保存されている。
「白い愛の祭典」の 看板と背の高い雪像。その奥に十日町駅。
その年の前年に購入した「写真集新潟の鉄道百年」に十日町駅構内の腕木式信号機の並ぶ光景の写真があり出かけたのであった。ほかに千手発電所や発電所への輸送線など。工事中の北越北線など見どころは多かった。
キハ58系5両の臨時快速で2時間半乗車して十日町にたどり着いた。車内はかなり混んでいて往年の急行列車の様だった。駅前の食堂で熱いそばを食べて雪まつりを見学し気動車列車を眺めた。長野のキハ58系はすべて冷房があり驚いた記憶がある。
十日町駅構内の腕木信号機 実際に見たときは感動した。
千手発電所への輸送線 使われていないため雪に埋もれていた。
千手発電所 霧で視界が効かない。
造りかけの北越北線
メイン会場の様子 小雨交じりの天候であったが混雑
十日町は着物の町 こんなもの撮影していた。
国道117号と商店街 渋滞していた。
十日町駅発車時刻表 長野方面は6本
新潟行きの快速十日町雪まつり号車内
DD200-901〔愛知〕 本形式の試作車
仕事から帰りドラッグストアへ買い物に行く途中に撮影。EH200の試作車に加えDD200の試作車も見ることができた。EH200といえばそろそろ早朝の2088レが狙えるかもしれない。この列車の運転も2~3週間間隔なのでそろそろと思ったが信号を見ると黄色から青に変わったので来ることが確定とかんがえ狙ってみた。この列車が行ってしまうと下り特急「しらゆき」5号55Mと貨物3093レ、上り普通長岡行きE129系6連となる。ローカル線にしては本数が多い楽しめる時間で四季島の運転が再開すれば密度がさらに増す。
2月18日ごろは雨水とされ二十四節季のひとつで雪が雨に変わることとされる。このは朝から雨模様で昼前一時日差しも見えたが再び雨が降りはじめた。ただしこのあたりでも大雪になることは多くまだ気が抜けない。
東海道貨物線の合流点。EF58146牽引の荷物列車が通過この列車の終点はいまはない汐留。
弥彦線北三条付近を走るE127系。かねてよりうわさされていた南武線支線への転属が決定した。弥彦線も金属産業路線で燕付近は工業地帯を思わせるロケーションがあるが南武線支線は京浜工業地帯のど真ん中であり弥彦線とは比べ物にならない。日本の工業地帯の総本山への栄転である。
EF58146撮影時はクモハ11が走っていたが同年101系に変更され国鉄民営化を迎え2000年代に205系電車になり現在に至っている。2023年にE127系に置き換えられるが扉数は3か所となりクモハ11の時代に回帰する。
キハ40系shu*kura、GV-E400
かつてキハ40がひしめいていた構内はGV-E400に取って代わられた。
キハ40の次に古豪のキハ110であるが置き換えの話は表面化していないが減便や編成縮小で影響が出てくることは考えられる。
昼下がりの運輸区を眺めた後会合の会場に向かった。
弥彦線は産業路線であり1984年2月ダイヤ改正で廃止されるまで貨物列車が3往復あり、同年4月8日に電化開業するまでの間は通勤型気動車キハ35が走っていた。1962年頃燕付近の金属産業の活況がピークを迎えて通勤需要が増えて一般型車両では対応できなくなって通勤型気動車の導入となった。
1966年に燕市の郊外に大規模な工業団地が造成され市街地から近郊に通勤の波が移って現在に至っている。利用者も減少し通学や通院需要が残ったが日中は満席の列車もあるようで一部は新幹線への乗り継ぎであろう。
中ノ口川を渡る列車、富山港線の岩瀬浜付近と類似した雰囲気があり日曜の午後撮影に出てみた。橋梁は足回りが見えないのでここで撮影する人は115系時代なかったと考えられる。
背後のステンレス工場と中ノ口川・・・ E127系がいたころにこのアングルで押さえたかったが手違いで叶わなかった。
車から降りるときに「もう50年も務めたし、今年で引退する」とのことだった。長年縁の下の力持ち的活躍をされた方だったが70歳代後半に差し掛かっての決意だった・・・
信越本線沿線で数本撮影。この日気温は10度を超え暖気を背に感じた。青空となり雪の心配もなく一月後に来るであろう春の気配を愛でつつ行きかう列車を眺めた。
上越線のスキー列車8702レ石打スキーの先頭に立つEF58134
ひさし、汽笛カバー、スノープロウ、原型エアフィルタこれらを武器に豪雪地帯と闘い続け多くの列車を牽引して大量輸送に貢献した。特急時代であってもスキー輸送は急行型車両が主力でEF58牽引のスキー列車が多数石打や小出を行きかっていった。
自動車の時代であっても列車でスキー場に訪れる人は多く週末は混雑していた。補助機関車連結無しで牽引できるぎりぎりの両数が12系9連でこれを従え午後の上越線を上野に向かって走っていった。ほかに165系電車のスキー列車も運転されこれらは上越新幹線開業後も運転されていた。
EF58の運用はこの1982年が最後だったがEF64に引き継がれ、上越新幹線の上野延伸まで活躍した。以降は新幹線と関越自動車道がスキーの足を担うが2000年代直前までスキー列車の運転は行われシュプール上越号や各種団体列車が冬の上越線を彩っていた。
新津運輸区のキハ40系は越乃shu*kuraを除いてこの年の3月ダイヤ改正で引退した。
多くは海を越えミャンマーに渡った。
残り少ない日本での日常・・・この姿が消えて3年。
かつてはここに貨車が入り荷役が行われていた。
新潟市秋葉区は雪は少なく、中旬後半に大雪が来たがそれ以降雪は積もらなかった。
2022年2月13日 宮内 信越本線の見附から長岡付近は雪が多かった。
115系N40編成懐かしの70系新潟色が最後の活躍をしていた。
大雪で枯れ草が倒れ遠望が利くようになった。雪の日であるが時々日差しが届く。
この時期の日差しは「光の春」と呼ばれ幾分力強く感じる。
雪国に生きる者にとって春ほど待ち遠しい季節はない。
福岡貨物ターミナルからの長距離列車。終点まであと少し。
12月から貨物列車の最後尾は反射板になった。降雪期でも問題なしと判断されたのであろうか?コストはかからないが・・・
越後駒ケ岳 右手に八海山が見える。
吉田行きの6連 左手の山塊が八海山。やっと明るくなった。
新潟市西区のこのあたり雪は少ないが1月下旬は30センチ程度積もっていた。寒気で凍結して道路はガタガタになっていた。消雪パイプもなく除雪の技術も悪いためいつまでも雪の処理が進まない。
この先また大雪になるかどうかわからないが足早に春になるかもしれない。朝焼けの越後三山を背に走るE129系を眺めた後出勤した。
開業25周年のマーク付きHK-100型 ダイヤ改正では乗り入れが取りやめられこの列車の時刻ごと削除される措置が取られる。
高速運転で知られた北越急行ほくほく線もダイヤ改正後は最高速度が95km/hに引き下げとなる。高速運転による軌道、車輛の損耗を減らすことが目的であるという。
この区間の廃止は1985年4月1日以後38年間その姿を残していたが老朽化のため姿を消すこととなった。
右手は駅に向かう階段。左手に駅があった。重機の前に廃材があり解体で出たコンクリートの塊が多数置かれていた。
覆いの中にわずかに見えるホーム跡
この駅は加茂駅を出て加茂川を渡り信越本線新潟方向に進路をとったのち左にカーブして、築堤で右に曲がって信越本線を乗り越えて並行する道路を渡りきったところに駅が置かれた。
蒲原鉄道は陣ケ峰を出るとトンネルをくぐって東加茂駅に入る。この区間はかなりの難工事だったと考えられるが加茂から他に地域に向け路線延長が考えられていたようでこのような線形がとられたという。