2017年10月31日火曜日

リゾートやまどりはかつてはときだった!

2017年10月8日 新津に到着した臨時列車。高崎の485系リゾートやまどりである。
先頭新潟よりはクハ485-703  かつてはクハ481-1105という経歴があり、さらにさかのぼると、
サロ481-1504さらにさかのぼるとサロ181-1102となる。サロ181-1102は1978年秋に181系電車の新車として登場した。
特急「とき」181系編成に用いられ、それまでの181系食堂車や電動車のグリーン車を置き換えて183系編成に合わせるため登場した。外観はグリーン車のみが目立つ凸凹編成であった。1982年11月15日ダイヤ改正で181系は任を解かれてサロ181-1100番代はすべて485系の編成に転用された。
当初から転用することを前提に造られた。サロ181-1102はサロ481-1502となりその後先頭車改造されてクハ481-1105となった。
その後リゾート
列車の種車となりクロ485-5(お座敷せせらぎ)そしてリゾートやまどりとなっている。

一番後ろのクハ485-クハ484-703もかつてはお座敷車両せせらぎのクロ484-7その前がクハ481-1107であった。こちらもサロ181-1104で1982年11月15日改正後は当初の予定通りサロ481‐1504として走りさらに先頭改造されクハ481-1107となっている。

車体は東急車輛製造で改造を受けているためかつての面影は全然ないが・・・・






2017年10月30日月曜日

月潟晩秋~新潟交通保存車両




2017年10月29日  月潟にて  桜やダウダンツツジが色づいた。


冷たい雨に濡れるモハ11  桜の木も黄色くなっていた。

キ116の屋根の上では作業をする人が。まもなく冬を迎える。




雨の日であっても見学者がやってくる。撮影後家族連れが駅舎の方に・・・・

駅舎は開いていたので往時をしのぶことができる。

2017年10月29日日曜日

機械式気動車

2017年5月5日 くびき野レールパーク 機械式気動車ホジ3  いまでは希少価値の高い機械式気動車。クラッチとシフトレバーで変速するマニュアル車。(DB92も含む) くびきのお宝のこす会の古参の方によると相当な貴重品との事であった。
ホジ3の運転席  左側にシフトレバー 中央にクラッチペダルがある。

鉄道博物館のキハ41307  キハ41000型は機械式気動車でガソリンカーであった。
昭和の初期から活躍を開始している。
機械式気動車内部  座席間隔の狭い小さなボックス席が並ぶ。
鉄道博物館のものは筑波鉄道から引き取られたもので1987年3月31日廃止。
すでに液体式気動車に改造されていたと思われる。

新潟県内では戦前から気動車の運転が始まっている。昭和11年(1936年)4月1日越後線及び弥彦線に気動車を運転する(写真集新潟の鉄道百年 年表より 1978年新潟日報事業社)
さらに戦時中の昭和18年(1943年)11月1日 信越本線貨物線が新潟~越後線関屋間開通。越後線と信越本線の区間に貨物列車の運転が開始。臨港地帯の工場労働者の輸送のため越後線から東新潟港まで旅客列車の運転が開始( 越後の停車場 朝日新聞新潟支局編  朝日新聞社 1981年)
この運転に使われたのがキハ41000型機械式気動車だった。 写真集 新潟の鉄道百年 P79には戦前のキハ41103の写真が。気動車の前には女性車掌3名も。
機動性に優れた機械式気動車は昭和26年(1951年)4月1日 新潟~新津~新発田~馬下に天然ガス気動車の運転を開始してさらに越後線などにも運用を拡大している。
昭和26年12月15日 信越本線貨物線新潟~関屋間は越後線に編入、従来の関屋~白山の区間は廃止された。12月31日白山機関区廃止で翌年1月1日西吉田機関区を新設。昭和29年5月1日には越後線はすべて気動車になった(貨物列車と他線区から関屋に乗り入れる列車を除く)

 西吉田の機械式気動車はキハ41614~41619とキハ42523と42538が配置されていた(鉄道ピクトリアル938 2017年11月号 P152 絵葉書の中の国鉄ローカル線 第33回 弥彦線 白土貞夫)
これらは昭和31年(1956年)キハ45000系(キハ17系)に置き換えられている。

さて機械式気動車は私鉄に引き取られることも多かったが
新潟交通のクハ37はキハ41080で1934年3月28日新潟鉄工にて製造され大館機関区に1944年7月22日には新潟交通に。

蒲原鉄道のクハ10はキハ41120で1935年9月 川崎で製造され大館へ1949年9月30日蒲原鉄道へ。

新潟交通の方はロングシートだったが蒲原鉄道はクロスシートで廃車まで勤めている。

現在どちらも解体されて現存していない。



2017年10月28日土曜日

EF65535~新津にて

2010年10月  新津駅で発車待ちのEF655358〔高崎機〕DD51822(愛知〕 東新潟機関区の一般公開のため遠路はるばるやってきた。上越線経由で帰すこととなったが牽引は南長岡までEF510牽引。
 

2017年10月27日金曜日

只見線 第二鉄橋

2007年6月 只見線第二只見川鉄橋 会津西方~会津宮下  キハ48とキハ40の2連。

2017年10月26日木曜日

EF641005牽引車扱い貨物列車

1985年信越本線 EF641005が牽引する今は無い車扱い貨物列車。 この時代はヤード系が廃止されて解結貨物列車などはなくなり車扱いは拠点区間を走る直行と集配に再編された。JR移行後専用貨物列車となった。ただ専用貨物列車といってもセメントや石油専用のピストン輸送タイプと異なり一部貸し切りのような性格であった。そのため旧来の貨物列車のイメージをそのまま引きずっていたが2007年以降高速化の妨げとなるためかコンテナ列車となるかもしくは廃止されるかとなった。
現在はこのような列車の姿を見ることはできない。

2017年10月25日水曜日

EF81 103牽引12系団体列車

1988年1月1日 EF81103〔敦賀〕牽引12系6連の団体列車。 12系は姫路の所属だった。
この12系は12月30日新潟到着の臨時夜行急行「越後」の編成であった。
冬にしては雪のない真っ青な空を背に走る編成はまるで常磐線の様だった。
EF81103は1989年(平成元年)トワイライトエクスプレスの運転開始に伴い塗装変更がされる。

2017年10月24日火曜日

快晴の越後平野を走る115系第一次新潟色

1988年1月1日 115系第一次新潟色と湘南色の編成 長岡行き普通列車。
1987年4月1日に国鉄が分割民営化された。当初は湘南色で引き継がれた115系も徐々に第一次新潟色への変更が進んでいった。

この日はこの列車のすぐ後にやってくるEF81103〔敦賀〕牽引の12系団臨を撮影するためにこの場所に立っていた。穏やかな年の始まりを喜びつつ撮影した1カット。

2017年10月23日月曜日

鉄道ジャーナルの特集は日本海縦貫線

1985年9月 信越本線青海川~笠島の日本海沿岸を走るEF81貨物列車。貨車は車扱いのため雑多であった。
昨日書店で鉄道ジャーナルNo614 2017年12月号の特集は日本海縦貫線である。
主なテーマは大阪・青森普通列車乗り継ぎと貨物輸送の基地富山機関区。
表紙はEF510-6牽引のコンテナ列車。

すでに北陸本線の直江津~金沢間は第三セクター路線となったので通しでの切符を買うことはできない。旅客列車では大阪から青森まで通す列車もない。
いまは湖西線の列車、北陸本線の列車、IRいしかわ鉄道の列車といった具合にそれぞれの路線の列車になる。

また新幹線の開業で日本海縦貫を経由する必要もなくなった。
2001年の時点では特急「白鳥」12時55分金沢発青森到着は22時59分だった。
2017年の現在は12時56分「はくたか」564号で大宮へそこで「はやぶさ25号」乗り換えで新青森は18時43分の到着である。

貨物列車の方も大阪~青森間通しの列車は4往復
4060~4061レ、4091~4090レ、3099~3098レ、4075~4976レである。
これ以外は金沢、新潟、秋田付近で運転が終わるものが多い。
単線の区間が無く冬の悪天候の影響がない東海道~東北経由が主力で新潟から北の白新線、羽越本線、奥羽本線は単線区間が多数あり冬の気象条件は悪い。
それが原因で他線区転属も行われたり船便に変更されることもあった。
現在の日本海縦貫線の貨物列車の本数は下り17本で上りは16本となっている。




2017年10月22日日曜日

なぜ人々の記憶から消えたのか? 頸城鉄道百間町駅舎

2017年5月5日  旧頸城鉄道の本社 現在は頸城鉄道の資料を展示した資料館となっていて一般公開の日に限って見学できる。(一般公開=保存車両などの運転のことで年5回)




本年の大きな収穫はこの頸城鉄道保存車両たち。2004年に神戸より帰還を果たし地道に整備がされ現在は復活運転をしている貴重な機械式気動車ホジ3


NPO法人「くびきのお宝のこす会」は今年設立10周年である。「くびき野レールパーク」がオープンしたのは2010年10月。

くびき野レールパークの存在は各種サイト、新潟日報など新聞記事、TVのニュースなどで存じてはいたが公開も年に5回と少ないためつい後手に。
しかし積年の疑問を解決すべくやっとの訪問となった。
動いているホジ3の姿を見たときは感動したというより幽霊に遭遇した気分だった。すでに復活して存在しているという知識はあるにしても。実物を眼前でみると・・・・
頸城鉄道の車両や駅舎はいずれも幽霊に遭遇的な出会い方をしている。

1981年7月今の県道33号新井~柿崎線が増田地区で通行止めになって迂回した結果百間町にでてしまい鉄道のない場所に残る駅舎に遭遇・・・・急いでいたので見る暇もなく走り去ったが・・・
1988年11月長野県須坂市井上の自動車解体店に鉄道車両みたいなものを発見(国鉄貨車とは違うもの)しかし急いでいたのとそもそも駐車場所が無いのでパスそしてホハ3型客車と判明したのは2年後1990年10月。
ほかに廃線跡を発見したのもそのころ・・・・
いずれにしても1969年の5月に全線廃止とくれば当時幼少の身とあってはその存在を知りえることもなかった。頸城鉄道の存在を知ったのは新潟日報事業社刊行の写真集「新潟の鉄道百年」に記載されていたことによるからである。
新潟県下越から上越は遠い場所でそこに私鉄があったことも知らなかったし子供時代はそれほど鉄道に関心があったわけでもないので・・・・・
新緑に輝く「くびき野レールパーク」の車庫(旧頸城鉄道の百間町車庫)


人々の記憶から百間町の旧駅舎が解体された時代のことが出てこない理由は駅舎と旧本社が棟続きでさらに車庫もきちんと存在していたからだろう。駅舎の建物は付属建物的な感じで壊されたとしても記憶に残らなかったのかもしれない。

古老の先生方も「さあていつだったかな?」という回答でほかの話題にすり替えられそうになったし。
地元の女性たちの答えも「あの建物じゃないの?」と車庫や旧本社を指さす・・・
長年にわたって残っていても影の薄いものだったのかもしれない。
1981年にここを通過したときはまだ駅舎が存在していたわけなので解体はそれ以降だとおもわれる。
1990年(平成2年)頃この付近を通った時は駅舎らしきものは見当たらなかった。
そのときは偶然頸城鉄道の廃線跡の橋梁(ごく小さなもの)を見つけてこのあたりを散策してその後信越本線を走る貨物列車でも撮影に行く途中通過したのかもしれない。


伝説のような存在だった軽便鉄道が構内だけとはいえ動き回る姿は感動的である。
本年の一般公開は終ったが来年も期待である。






115系越後線普通列車

2017年10月19日  115系更新車6連 越後曾根発村上行き  
最近様々な塗装の組み合わせが見られるが現在最も一般的編成である。
115系もあと数年で運用を終了し鉄屑に帰る時が来るがもっとも人々の記憶に残るべき編成かもしれない。当たり前に存在する日常生活の記憶の一部として。
この場所も稲の収穫も終わって冬を待つ間つかの間の緑地帯となっている。

2017年10月20日金曜日

25‰を行く~えちごトキめき鉄道はねうまライン二本木駅前

2017年10月14日 二本木駅のすぐ近くの踏切りから 雪月花がやってきた。
二本木駅は25‰急こう配の区間に存在するスイッチバックの駅である。




勾配を上っていったん引き上げ線に入る。
直江津行き普通列車と並走して駅構内に進入。

駅構内に入らなくてもスイッチバックだとわかる場所。

撮影者が多数待つホームに到着。




直江津行きが発車。引き上げ線に入った後本線に合流する。
下り勾配を直江津に向かう。しばらく進むと左手に上越市を一望できる場所があり日本海も望める。


スイッチバック二本木駅鉄道まつり2017~3

2017年10月14日 二本木駅からみた日本曹達二本木工場 大正9年(1920年)に日本の電解ソーダ製造の草分けとして操業を開始した。寒村であったこの地域に雇用の中核をなす存在となり最盛期は1万人を超す従業員を抱えてその乗降でホームは大いににぎわったという。
深夜並走する国道18号線から見る工場の夜警も見事で不夜城の様だった。
平成19年(2009年)までは原料や製品の輸送も鉄道で行われていて本線から分岐した専用線をコンテナ車やタンク車が行き違い機関車が貨車の入れ替えでせわしなく動く光景が見られた。

トラック輸送に切り替わった今専用線の跡を眺め往時をしのぶのみ。土曜のせいか工場は静かだった。
 一旦改札を出て喫茶コーナー「さとまるーむ」でコーヒーを頂く。200円(税込み)お店の人たちと雑談をしながらいただくコーヒーは格別。地元の女性たちが運営している。コーヒーのほかにせんべいやかりんとう饅頭をすすめられた。おいしかったです。
喫茶コーナーはかつて待合室であった場所を利用しているとの事。
天井が高く開放感があった。また二本木駅のジオラマも展示されていた。喫茶コーナーは第2日曜と第4日曜の営業で12月まで。他に駅前には二本木駅スイッチバック市も開催(10月第4日曜)
日本曹達設立100周年記念事業のラッピング電車。
リゾート列車「雪月花」の発車を見送る方々。大勢の人が見送っていた。
二本木駅から北国街道を見る。奥の建物の後ろにえちごトキめき鉄道はねうまライン(信越本線)の25‰の急こう配区間があり右手にしばらく進んだところでスイッチバックして二本木駅に到達する。
スイッチバックによって町ができたので商店や住宅、裏手は日本曹達工場と生活の匂いが漂う空間である。篠ノ井線の姨捨のような風光明媚な雰囲気はない。






2017年10月17日火曜日

スイッチバック二本木鉄道まつり2017~2

2017年10月14日  二本木駅の改札から地下道までの連絡通路。長い庇の下にある。
このあたり豪雪地帯である。
ホーム先端で警備に当たる駅員氏無線で連絡業務の最中。満開の花壇を見つつET127系普通列車が発車していった。右手に見えるのは除雪機械である。ロータリとラッセルを兼用。
二本木駅のヤード群。2008年に廃止されるまで貨車がひしめいていた。左手に日曹工場への専用線があったが現在は撤去されている。

ホームの待合室。昭和10年(1935年)に設置。
 二本木駅駅本屋 国鉄時代は通勤輸送駅の扱いで特急「あさま」「白山」急行「妙高」「とがくし」「赤倉」などは停車しなかった。「二本木駅?さあどこだろう?」という人も多かった。

 


2017年10月16日月曜日

スイッチバック二本木駅鉄道まつり2017~1

2017年10月14日 鉄道の日  くびき野レールパークの見学後上越市中郷区二本木に。
天気がはっきりしない日であまり暖かくない。おこわやおやきを買ったがなんとなく食欲がわかない。
さらにへたに食べると眠気に襲われて事故の危険もある。頸城平野を走り抜けて妙高市旧新井市を経由で二本木に。(とちゅう姫川原のコンビニでコーヒーを)
お目当ては赤レンガの油庫の公開と駅舎内の荷物扱い所の展示品見学さらに展望デッキも。
二本木駅前には看板が多数・・・・えちごトキめき鉄道になってからは二本木駅のスイッチバックも観光資源になったようだ。 昼時が過ぎたが結構な人でにぎわっていた。受付を済ませて書類を出して駅舎に向かうと「縄文汁」のお振る舞いが。大きな寸胴から少しから目の豚汁が。
となるとおこわも食べても良かったかもしれないが・・・

先にレンガの油庫を。
ご覧のように油脂類が若干。かつては保管量は多かったのでは。庫内には柱は無い。レンガの頑丈な建物は防災上油脂の保管には最適だった。

 財産標によると明治43年の9月とあった。開業当初か?二本木は隣の関山や新井より後にできている。駅本屋の財産票も明治43年9月となっている。
駅の窓口の隣には荷物の扱い所が。これらは1986年1月のダイヤ改正で国鉄の小荷物扱いの営業が終了した際に多くはふさがれた。このたび復元されたようで二本木駅ゆかりの鉄道関連の品々が展示された。駅の裏手にある日本曹達の製品もあった。
窓口で入場券を・・・・駅員氏「普通のでいいですか?」「普通じゃないのもあるんですか?」
ということで貴重な硬券の入場券のセットが。(210円なり)

雪国特有の雁木を思わせる通路を経由してホームに出る。
ホームの屋根を支える鉄骨の支柱・・・・1950年に設置。まだ戦後で鋼材が不足していたので線路を使用した。
ET127系の直江津行きと妙高高原行が並走してやってきた。左手の電車の後ろにスイッチバック引き込み線があり木製スノーセットがある。



2017年10月15日日曜日

コッペル2号機~くびき野レールパーク

2017年10月14日  鉄道の日。 上越市頸城区百間町にある「くびきのお宝のこす会」の「くびき野レールパーク」にて。
旧頸城鉄道車両の公開も残すところ10月14日と15日のみ。また「くびきのお宝のこす会」設立10周年のイベントも開催され多くの来場者でにぎわっていた。普段は庫の隅っこでじっとしているコッペル2号機も外に出て走り回る。(ただし煙はダミー)

 ホジ3が試乗のため動き出す。コッペルと顔を並べるのも久しぶり。
有蓋貨車ワ7が後部に。 頸城鉄道でかつて見られた混合列車の姿。

復元された荷物郵便車ニフ1は子供たちの絵本の読み聞かせ会場となっていた。普段は駅内留置でこども図書館となっている。
コッペル2型・・・自走はできないのでディーゼル機関車のDC92が後押しする。
DC92の運転を担当された方によると死重となっているコッペルを前に後ろには乗客多数の客車2両が連結されてとにかく重たくて運転は大変との事だった。(エンストなどあり)
コッペルを先頭にDC92と無蓋車さらに2軸客車ハ6が満席の乗客を乗せて走る。
短い距離の構内運転であるがそれでも軽便鉄道の乗り心地を体感することができる。
(2軸のハ6に乗るとポイント通過の時に振動が大きく伝わってくる。線路からのゴリゴリという音とディーゼルエンジンの息遣いも・・・・現代にあっては決して快適ではないが、昭和40年代の生活を思い起こしながら楽しむのも悪くはない。
撮影の跡、コッペル先頭の編成に乗車・・・・偶然に1967年=昭和43年9月30日(新黒井~百間町、飯室~浦川原の区間廃止の前日)の乗車された方とお話することができた。乗車されたのは鵜木までの区間で4歳の時だったこと。大瀁小学校に進学され校庭にあった「ホハ3」客車に入って遊んだことを懐かしんでおられた。大瀁小学校はその後移転して(かつてはP&G海洋センター付近)にあったが移転で現在地になったということだった。現在はこの地を離れられ違うところで生活されておられるということだった。奥様と愛犬とともに往時を思い起こされている姿が印象に残った。
ところでこの方に1990年に長野県須坂市の井上地内で「ホハ3」型を目撃したことを伝えたら驚いておられた。いまは須坂市井上のこの場所も大きく変貌して「ホハ3」があった時代を思い出すのは厳しくなってしまった。

構内ではお店が多数並んで「ぽっぽやき」「おやき」「五目おこわ」「くびきの押しずし」 「牛丼」「いくら丼」「ゴーゴーカレー」など多数。野菜なども販売されていた。他に餅つきも行われていた。

お昼の「おこわ」と 「おやき」を買い求めた。
聞いてみるとお店の方々は地元の方が大半の様で頸城鉄道に乗られた方が多かった。
百間町の駅舎がいつまで残っていたか尋ねたが車庫と旧社屋の建物の存在にかすんでしまっているようでいまひとつわからなかった。駅舎が使命を終えてしまった後はとくに利用するわけではないので昭和の何年に解体されたかはもはや記憶には残っていないのかもしれない。
駅舎はシェルのガスステーションと旧本社(資料館となっている。この日設立10周年の記念式典が行われていた)に間に挟まれた場所にあった。 いまも道路が右に一旦曲がってからガスステーションの左を曲がって頸城鉄道の廃線跡を利用した県道に出る構造になっていることそして周辺が舗装されていることを考えると1980年代の早い段階で駅舎は消えていたのかもしれない。

12時過ぎに次の目的地二本木に向かった。