2019年10月31日木曜日

70系電車 全金属車内部

1980年12月31日 福山 70系電車全金属車内部。
通路に金属のポールがあるほかはほぼ111系と同じ全金属車の近郊型電車といった構造。
初期型車のニス塗りの木製車内と比べると近代的な進化を感じた。
ただしモーターは吊り掛け式であり音も大きく前時代的であった。

2019年10月30日水曜日

サハ85004~日常の中の非日常

1978年5月7日 サハ85004 かつては湘南型80系の2等車サロ85004であった。
70系電車ではなく80系湘南型の一党だが横須賀線ではサロ85も用いられていて、この編成がそのまま転入した。

車内は 旧2等時代のままでゆったりした欧風の座席が特徴であり海外を連想されたためよく乗車していた。

サハ85は6両編成では編成の中間付近でしかもデッキ付のため 乗降しずらかったが、サハ75の改造車クハ75は乗客の少ない最後部のため好んで乗っていた。

旧2等車の車内は欧米の映画の世界を思わせた。当時日常的に走っていたローカル電車に非日常の世界が存在していた。

鉄道に関心を抱くきっかけになった車両の一つ・・・

2019年10月28日月曜日

EF510-510牽引の4061レ

2019年10月27日 EF510-510牽引の4061レ 連日の雨のせいか車体が汚れていた。

2019年10月27日日曜日

キハ47国鉄色(首都圏色)只見紅葉満喫号

2019年10月27日 キハ47514+キハ47515の2連。只見線直通の「只見紅葉満喫号」
首都圏色2連。復元されてから10年以上が経過した。
新型気動車導入により本年限りで運用を退く。
東三条での115系湘南色N38編成とのすれ違い。国鉄時代末期1980年代の記憶がよみがえる。
雨が強まる中一路只見線へ・・・沿線は見ごろだと言われているが雨が強くては・・・



2019年10月24日木曜日

特急「白鳥」青森行き

1984年1月2日 大阪発青森行きの特急4001M「白鳥」3号 
大阪9時55分新潟17時08分(17時25分発)青森23時51分
青森運転所485系12連

うららかな冬の日を浴びて走るこの列車も湖西線そして近江塩津から北陸本線に入ると雪との闘いとなり終点の青森まで続く。
この頃食堂車があって琵琶湖や日本海を眺めながら食事を楽しむことができた。

2019年10月23日水曜日

第一次弥彦線色115系N33編成

2019年10月20日 3481M 長岡~新潟快速。時間はかつての「くびき野3号」より少し早い時間。北長岡付近を弥彦の菊の黄色と弥彦神社鳥居をイメージした赤で彩られた列車が晩秋の信越本線を走る。

2019年10月22日火曜日

南長岡貨物駅界隈

2019年10月20日 南長岡駅付近 手前にはコンテナのヤードが。
EF510-503は臨時貨物牽引機 さらに奥にはコンテナが多数。
架線下荷役で貨物列車から直接コンテナを積み込んだり降ろしたりの作業が見られる。
この場所は長岡駅から最初の通りを宮内方向に歩いて跨線橋を渡って少し行った場所の階段から撮影したものである。

かつては南長岡貨物駅と長岡操車場があったが1984年2月ダイヤ改正で操車場が廃止、以降基盤整備がされて1995年に新しい南長岡駅として生まれ変わった。
一気に階段を降りたところ。
跨線橋前の通りに合同庁舎のビルや新潟地方法務局長岡支局やスーパーがあるあたりが旧南長岡駅だった。このEF510がいるあたりが長岡操車場で信越本線下り線があった。
一気に下まで降りてみた。南長岡駅と上越新幹線が見える。砂利の場所には入ることができない。ここもかつての貨物駅の跡地。
EF510牽引の下り貨物列車が到着。乗務員が交替後すぐに発車した。東新潟機関区南長岡派出が設置されていて乗務員の交替ができるようだ。
コンテナの向こうにはEH200がパンタグラフをおろして待機。これも臨時貨物列車牽引のようだ。奥の建物はJR東日本の長岡車両センター。
かつての長岡第二機関区時代の遺構の赤い屋根の建物。機関車のたまり場だった場所の名残。長岡車両センターの配置は機関車若干あるだけ。それも定期運用を持たない。
EF641030 長岡車両センターで待機。おもに配給列車の運用を受け持つ。
こちらにはJR貨物の機関車は見ることができなかった。
新津運輸区のキハ40系 運用は只見線である。来年までに只見線以外のキハ40系気動車が使用停止になると言われている。
右手2本が信越本線の線路で新幹線高架付近のものは長岡車両センターから長岡駅に向かう線路。中央は長岡車両センターの出入り、左手は南長岡駅の線路でコンテナ車の留置線もある、
(貨物列車のウォチングは可能だがアクリル板越しになることに留意が必要)






2019年10月21日月曜日

E653系「しらゆき4号」

2019年10月20日 上越妙高行きの「しらゆき4号」
稲も刈終わり再び青々した水田が・・・利用者の中心は上越新幹線と北陸新幹線の連絡の方々。

2019年10月20日日曜日

EH200牽引の信越本線黒井貨物80レ(前川の記憶)

2019年10月20日 信越本線 前川付近 南長岡~黒井貨物の牽引が一時的に80レ~85レに戻ったので見聞に。鯨波付近も検討したが天候不良で海がすっきりしないのとケーブルの処理などで難しいと判断して以前よく行ってた前川付近に。駅前はかなり住宅が立ち込めたが駅間はそこそこ余裕があり昔と変わらない。長岡では比較的有名なポイントである。

この界隈に一番最初に来たのは40年以上前免許取得のためである。かつては試験場がこの近くにあり受験生や更新に来た人で賑わっていた。個人経営の自動車教習所や写真屋、代書屋(行政書士など)、さらに「合格屋食堂」などどいう格安の食堂まであった。食堂も数件あって道路一帯が小さな町の様だった。撮影に来たついでにこれらの食堂で食事をしたこともあった。コンビニなどが多くなかった頃だ。

免許は午前に試験が終わり合否を待つ間に食事をした。焼肉定食を食べたが500円くらいだった。
試験場からは信越本線と上越線が見えてオール冷房の飯山線直通の急行「野沢」を見送ったのも懐かしい記憶である。
いまは試験場は前川駅から500メートルくらい行った場所に移動して旧試験場は住宅地となってかつての面影は消えた。

そこから400メートル程度進んだ場所が撮影地である。宮内よりは前川の方が近い。
ここで朝練をして貨物が80レと4076レ、E129系普通電車、E653系「おはよう信越」、キハ40系shukura回送などを見聞。
前川からは上越線列車も見ることができた。上越線は急行「野沢」はもうないがキハ110の単行気動車が見えた。その後ろには上越新幹線のE2やE4が走り抜ける。
この界隈は丘陵地が迫り鉄道が込み入った地帯であり東海道線の近江長岡に界隈を思い出す。「長岡」というつながりである・・・・あちらも山あいで新幹線と在来線が輻輳しさらにセメント工場の専用線もあった。(現在は廃止)
当地も越後交通の貨物列車が来迎寺まで来ていたので雰囲気が近い。

復活直流機80レはEH200-2牽引で貨車は9両程度の短編成だった。4076ㇾはEF510-513牽引。

雨が降ってきたので場所を前川駅に移して・・・
こちらでは快速3371M 直江津~長岡間快速 115系N33編成弥彦線色(1988年採用のもの)を。平成の初期弥彦線でしょっちゅう見かけたものにつきこれという思い入れはないが終わり間近な115系運用で「第一次弥彦線色復活後撮影第1号」となるので・・・
このあたりでこの塗装もちょっと不思議な気分となる。
弥彦線では2両ワンマンだったが復刻編成は3両であり感触も異なる。

このあと4095レと特急「しらゆき」1号を・・・
しらゆき1号の自由席は立ちが出ていた。北陸新幹線の台風被災による不通区間発生で上越妙高から乗り継がれた方々だろうか・・・
所定なら8時30分から9時30分には東京に着けるが乗りつぎのため長岡経由だと10時30分頃になってしまう・・・
全線で運転再開後も長野の水没車両が10編成ということで車両不足のため減便が多数発生したり所定ダイヤには簡単に戻れそうもないようだ。
今日は朝食なしだったので近くのコンビニへ・・・免許センター近くにセブンイレブンがあるのでそこで買うことにする。
今の試験場=免許センター長岡支所の前を通過。駐車場には更新にこられた方々の車が。長岡でも日曜日の更新ができるようだ。今度はこっちで更新をしてみようと思う。
免許センター前は個人教習所(届出教習所=道路交通法98条1項の公安委員会に届け出をした教習所で具体的には技能試験も試験場で受けなければならない教習所のこと)
が多数あり旧試験場=旧免許センターの通りと変わらないが代書(行政書士事務所)や食堂が全くない。このあたり時代を感じた。
40年前は無事試験に合格しても免許証を受け取るのは数週間待ちという時代だった。即日交付の今とは全く異なる。食堂は免許センターにはなく、申請書も代書のきれいに整ったものが優先されたらしい。申請の書式も書きにくかった。(免許試験の申請書は教習所で作成してもらったものを持参して受験した。たまたまそれで合格できたが不合格の時は代書を利用するほかなかったのだろうか?なお、昭和の頃は免許更新は警察の脇の免許更新の事務所で書類を提出して行った。更新費用にはタイプ使用料というのがあり申請書は手書きで持って行ってたかもしれない。日曜日の更新ができるのは平成になってからだった)


今のの試験場=免許センター長岡支所は近くにラーメン屋やコンビニもあるし、申請書も簡単になったので代書の必要もないそうである。手続きがすべて免許センター内で完結して写真も必要ない。(免許センター長岡支所内の食堂は廃業したようだ)

コンビニで朝食を済ませ南長岡界隈の取材に・・・・





弥彦線 北三条駅

1984年3月21日 春分の日 この年の4月8日の電化開業で退役するキハ35など7連の普通列車と吉田行き普通列車の交換がこの駅で行われていた。架線柱が本線のみで交換列車が入ってきている副本線に無いので電化後は交換が無くなることを意味していた。
写真のキハ35など7連の普通列車の北三条駅進入は223D越後長沢行き3連と東三条どまり4連で交換している列車は224D越後長沢発弥彦行き4連であった。
(北三条交換は223D折り返しの226Dと新潟発吉田経由東三条行き225Dの交換があった。225Dは越後線の間合い仕業でキハ47系の運転)

現在北三条駅は高架になっていてこの写真の面影はない。線路が存在するあたりに高架がたって様相は一変している。

223Dが北三条駅6時57分発、224Dは北三条駅を6時56分に発車する。
朝の通勤通学時間帯は本数が多く設定されていた。当時上越新幹線もすでに大宮まで開業しているので乗りつぎにも利便性があったと考えられるが実際は燕三条での駐車場使用が多かったようで在来線乗りつぎはあまり増えなかったようだ。

4月8日の電化によるダイヤ改正で朝の列車は大幅削減され北三条交換は廃止された。
増発は本数の少なかった昼前後に振り分けられていたがJR移行後は臨時列車に格下げになっている。(彌彦神社の祭礼や花見、紅葉時期の週末または初詣の頃に運転)

雪の塊の向こうの建物は浄土真宗本願寺派の西別院で現在は与板の別院と統合され廃止今は三条鍛冶道場となっている。この西別院は洋風の一風変わった寺院であった。弥彦線の踏切りは「西本願寺」で遠く京都を連想させた。(京都の西本願寺には踏切りはありません)

2019年10月18日金曜日

DD1544 東三条駅

1984年2月 東三条駅で特急待避のDD1544  この年は豪雪であり屋根の雪の通り平野部でも2メートル強積もっていた。写真のDD1544 は新津機関区から長岡機関区への回送と考えられるがもしかしたら除雪運用があったのかもしれない。

沖田祐作著機関車表より引用
DD1544 日本車輌名古屋工場=2454 1965-11-08 D55.0tBB(1067)
車歴;1965-11-08製造→納入;国鉄;DD1544→1965-11-08竣工→配属;新潟局→
配置;新潟→1966-03-05酒田→1968-03-31現在;酒田→1968年度;長岡一→
1982-03-31現在;長岡→1987-04-01JR東日本;DD1544→配置;長岡運転所→
2008-03-31現在;長岡車両センター→2008-12-31現在;長岡→
2010-07-31廃車;長岡車両センタ

2019年10月17日木曜日

東三条を発車した大阪行きの特急「白鳥」

1985年3月 信越本線東三条駅 特急「白鳥」大阪行き 向日町運転所485系10両。
食堂車も廃止され精彩を欠いた姿になった。

ただし向日町運転所持ちということでボンネットのクハ481が入ることが期待された。
意外と入りそうで入らないことが多々あり結構難しい列車だった。
白鳥のマークは水面の白鳥でありボンネットでは引き立ったようだ。

*現在このアングルでは撮影できません。弥彦線がこの位置を走っているためです。

2019年10月16日水曜日

キハ58系 弥彦線東三条~越後長沢間さよなら列車

1985年3月22日(春分の日)3月31日限りで廃止される弥彦線 東三条~越後長沢間の臨時列車。日中は運転が無かったが廃止直前には3往復ほど臨時列車が運転されていた。
キハ58などの4連で運転。弥彦線東三条~越後長沢間は1984年4月8日の電化に伴うダイヤ改正で区間運転のみとなっていて吉田方面に向かう列車は運転されなくなっていた。

2019年10月15日火曜日

東三条駅のキハ45型

1978年6月 東三条 キハ17キハ55キハ20キハ45の4連 一日2往復ある越後線間合い運用の列車。キハ30系だけで組成のする列車が多い中この列車はクロスシート車両に乗れる貴重な列車だった。

2019年10月14日月曜日

越後線吉田の115系並び

2019年10月14日 越後線吉田 N40編成懐かしの70系新潟色とN35編成第2次新潟色並び。N35編成は柏崎~東三条~吉田間の朝の6連の運用。N40編成は吉田~東三条~寺泊の運用となるべきものだったが台風19号の寺泊~分水間の増水による氾濫の恐れがあるため吉田~柏崎間は終日運休。そのため吉田始発となったものである。
N40編成は9時56分の新潟行きとして発車していった。寺泊からの列車は通常は2番線からの発車である。N40編成は9時40分頃まで締め切られていて到着した乗務員が扉を開けて乗車できる体制を整えていた。駅の放送も9時56分発の新潟行きは「本日は4番線からの発車です」と案内をしていた。



弥彦線燕三条 1978年

1978年11月 弥彦線燕三条 撮影機器はOLYMPUS35SPという家庭用レンズシャッターレンジファインダーカメラ。オート露出のほかマニュアル撮影もできシャッターは1/500でレンズはF1.8(16まで絞れる)逆光には弱い。そんな性能。この写真もオートにしたつもりが間違えてマニュアルになっていたのか露出不足だった。


弥彦線の燕三条駅付近のキハ45、35、17、17?の4連で午前2往復ある越後線の編成の間合い運用だった。線路は現在と違って左手だが燕三条駅開業時には右手になっている。

後ろの真新しい高架橋は長岡まで開通した北陸自動車道。いまや新潟県県央の商業地で多数のお店が並ぶこの界隈は建物は全くなかった。このあたりが賑わうのは平成の時代になってからだった。
DE101675〔東新潟〕牽引貨物列車 弥彦線には1日3往復貨物列車が燕~東三条間に設定されていた。貨物は鋼材やハウスウェア製品、農産品など。
燕の貨物扱い所は燕駅から吉田方向に500メートルくらい進んだ場所に設置されていて貨車が多数ひしめいていた。

DE10の後ろは空だけだが今は電化されてさらに新幹線の燕三条駅ができているのでこのような写真にはならない。

国道289号線 奥の白い橋は北陸自動車道でインターは右手の工事関係の建物に隠れてしまっている。
上越新幹線燕三条駅の建屋の工事。送電線は大きなものに替えられた。左手に弥彦線が走る。
燕三条駅の工事現場。手前に枕木が多数。
鉄道建設公団の看板があった。現在この付近はショッピングセンターがひしめいている。
41年前の燕三条駅付近は水田の中にあって発展には時間がかかった。



2019年10月13日日曜日

上越線越後川口駅

2019年10月6日  DD16を撮影後立ち寄った。ここも2004年の中越地震では甚大な被害を受けた場所だったが現在は復旧。駅前は居酒屋やスーパーがある。
撮影を終えた方がスーパーから買ったお弁当を持って出てくるところが見えた。
長岡方面への列車がもうすぐ来るためか人通りも多かった。
改札からは地下道で各乗場に向かう。
越後川口駅 長岡方面  手前の線路は保守機材の引き込み線
保守機材車庫  左手は飯山線と上越線の乗り場 現在朝2往復飯山線から上越線経由で長岡まで乗り入れている。 
長岡行き列車 E129系 1982年11月14日特急「とき」の最後をこの駅で見送った。
人だかりも多かった。すでに36年が経過している。
上越線小出方面と飯山線十日町方面  上越線はすぐにトンネルへ。飯山線はカーブして国道17号を超えて信濃川を渡って十日町へ向かう。
かつて、上越線も単線時代は右手の山すそを通っていたが複線化の際にトンネルの新線に切り替わっている。

宮内で大判焼きを・・・
行きの道中で看板があったので帰りに買おうと思って・・・
あんことクリーム、チーズの3種がありあんことクリームを購入。
 手焼きのため
15分ほど待って店主と雑談しながら過ごした。

今ではすっかり珍しくなった大判焼きであるが以前は街中にてよく見かけた。
交通体系が変わり郊外に店が移り市街地では見かけなくなった。
駐車場がないことまた賃料も高いことが理由だと店主さん。

さめないうちに帰宅して仏前に供えた後食べた。





2019年10月12日土曜日

かわいい! 鯨波を走る工事機材

1990年3月 鯨波で 保線区の工事用機材の編成 当時あまり気を留めていなかったがいまでは貴重なものとなっている。(臨時列車の撮影の合間)
現在、保線はJRが専門の企業に委託しているようでカラフルな車両が多く機材そのものの性能も高度になっている。国鉄風の黄色も見かけない。

2019年10月10日木曜日

DD1611 戸狩野沢温泉

1978年2月 戸狩 DD1611「奥信濃パノラマ号」車掌車ヨ8000とオハフ33の編成。
この駅でイベントの餅つきが行われてごちそうになった。また硬券の入場券も発売されていて購入した。

この時代駅に売店があって前年に急行「野沢」に乗車した際飲み物を買った。

構内外れの踏切りから・・・
この年は雪の降り方にばらつきがあった。どちらかというと少ない方だったがそれでも山間部は豪雪であり積もっていた。

2019年10月9日水曜日

DD1611 飯山線冬を走る

1987年2月 飯山線桑名川付近をはしるDD16牽引のヨ8000とオハフ33型のイベント列車。冬の飯山線の風光を楽しむ列車。一般の人々が乗ることができない車掌車に乗れるのが目玉だったようだ。国鉄末期にはこのような列車が多数運転され、JR移行後もしばらく運転されていた。牽引のDD1611まだまだ元気だったがさらに30年以上頑張るとはこの時期夢にも思わず・・・・
JRに承継されたDD16はJR東日本4両、JR西日本3両、JR九州2両だった・・・
うち4両は除雪用300番代でありこれらは現在姿を消している。

沖田祐作著機関車表より引用

DD1611 川崎重工大阪工場=3721 1972-09-00 D48.0tBB(1067)
車歴;1972-09-00製造→納入;国鉄;DD1611→配属;長野局→1972-09-08配置;長野→
1987-04-01JR東日本;DD1611→配置;長岡運転所→
1995-04-01現在;長野総合車両所→2003-03-00現在;長野総合車両所→
2008-04-01現在;長野総合車両所→
2011-04-01現在;JR東日本旅客鉃道長野総合車両センター

2019年10月6日日曜日

DD1611 飯山線開通90周年記念号

2019年10月6日 長岡車両センター(旧長岡運転所) 公道より DD1611とEF641051
朝9時、多くの撮影者が集結しご近所の方々も集まりお祭りの様。
スハフ422173 高崎の所属 長岡~十日町間2号、十日町~長野間4号の運転。
長岡で旧型客車も久しぶり。(国鉄時代1982年11月改正まで北陸本線直通の普通列車が2往復あり日中の1往復は長岡に到着後運転所に留置され公道からも見えた)
DD1611の撮影は1979年が最初で以降時々見る程度だが今年は2019年ということで40年が経過した。最初は貨物列車で以降は飯山線内のイベント列車だった。
超低速運転の「だいろ列車」(だいろとはかたつむりのこと)や車掌車を用いたパノラマ列車やお座敷列車「白樺」など・・・
上越線内を走る。
上越線越後川口付近
飯山線に入って信濃川橋梁をわたる。
撮影者と乗客との交流・・・・(100名以上が集結か?)

楽しい記念列車を企画された方々に感謝。






2019年10月5日土曜日

DD1611 飯山線貨物

1979年11月 飯山線越後田沢付近 DD1611牽引の貨物列車でチップ輸送のトラ90000を連結していた。