会津鉄道お座トロ 会津田島行き AT350型
最後尾はキハ40からの改造 AT400型この季節あえて冷房のない車両に揺られ、開け放たれた窓からの風を感じながら走るのは気持ちがいいことであろう。
会津鉄道お座トロ 会津田島行き AT350型
最後尾はキハ40からの改造 AT400型この季節あえて冷房のない車両に揺られ、開け放たれた窓からの風を感じながら走るのは気持ちがいいことであろう。
2025年7月19日 HB-E300「あいづSATONO」 8251D会津鉄道AT700型 会津田島行き普通 8216D
キハ111‐203 4254Ⅾ 飯豊の山に残雪が見える。山に雪があっても盆地は真夏日を超えた。
わずかにまだ雪がある飯豊の山を背にC57180「ばんえつ物語」煙はもう薄くなった。
架線やブラケット、き電線が外され非電化路線に戻った喜多方~会津若松間
いくらかはすっきりした風景をあまり煙を上げないで走り去っていった。猛暑の日でも撮影者は10名以上あった。
残雪の飯豊の山々・・・
会津坂下町から見た磐梯山
3連休となったので会津へ出かけてみた。猛暑であっても観光客は多い。
2025年6月14日 加茂市冬鳥越 スキーガーデン併設のバラ園蒲原鉄道ED1とバラとの組み合わせも今年で最後ED1のほかにモハ61とモハ1も 数年前にモハ1は屋根の下になって印象が変わった。
ED1の後ろにバラ園を入れてみる。
バラ園・・・咲いてから時間がたっていたんだものも見受けられた。バラ園はかなり広い面積を持ちモハ61とモハ1を入れることも可能である・・・この日イベントが行われるようで大勢の人がやってきていた。この賑わいもこれで最後である。7月以降バラはすべて撤去されるという。跡地はどうなるのか?蒲原鉄道の車両たちと共演してきたバラを来年以降は見ることはかなわなくなる。
浴衣の人々、撮影者、親子連れ・・・様々な人が電車の前に集う
左手の堤防の上の木造建築が月潟駅跡。ぼんぼりの向こうに祭りの山車が望める。19時過ぎであるがまだ明るい。普段は人通りのない町もこの日は賑わいを見せていた。こどもの日の公開運転。 伝説の存在であった頸城鉄道車両が動く光景を見た日。背後の丘は新緑に覆われ初夏の風情。水田では田植が進んでいた。1971年に廃止になる前はこのホジ3も初夏の風を受けて走っていた。遠い日の幻想。
南海電鉄のキハ55は1960年から紀勢本線乗り入れように製造され1985年3月のダイヤ改正まで難波~新宮間で運用されていた。
次のダイヤ改正で姿を消す超快速スノーラビットのえちごトキめき鉄道はねうまライン新井行きに乗車した。HK-100‐9とHK-100‐2の編成。直江津は10時17分発。長岡発8時4分1328Mで直江津9時40分着。ここでET127系の見聞をした後売店でコーヒーとトキ鉄カレンダーを購入。
北越急行HK-100型の新井行き2324Mのホームは6番線で乗務員交替が済むとすぐに発車。はねうまラインでET127系と413系以外に乗るのは久しぶりのことである。直江津で乗客の大半が降りてガラガラの状態で発車。
ひすいラインから別れて春日山。駅名の由来となった春日山方向は雪でかすんでいた。この付近の水田地帯は線形がよく100キロで飛ばして高田へ。雪は多くはない。高田で413系と交換。マークは「越後」この日で一旦運用が終了し検査に入る。
転換クロスに腰を下ろし雪景色を楽しむ。上越妙高で新潟行き「しらゆき」3号と交換して矢代川を渡って北新井、ダイセルの工場が見えると終点新井。
HK-100‐9の行先は「新井」
ワンマントキめき線普通の表示
妙高はねうま普通
ダイヤ改正で表示されなくなるであろう行先を記録。
新井駅前 駅前の新井信用金庫のビルの脇に道が左右2本。左手はレトロな雪国の街並み。誰も歩いていない。
アーケード街の右側の道。大きな建物がある。この右手は旅館もある。その向こうはダイセルの工場が広がる企業城下町。
ETR新井駅 改札の奥に北越急行HK-100型が待機。
このあと新井11時4分発2325MのHK-100型で越後湯沢まで乗車。転換クロスシートは快適で北越急行ほくほく線内ではくびき付近の直線の水田や長大トンネル内で110キロ運転を体験。
帰省のため浦川原付近からは上越新幹線に乗り継ぐとみられる人が各駅から乗車。見送りに来た家族も。信越本線では見ない光景だった。雪は丘陵地帯で深くなり上越線沿線は1メートル以上の積雪があった。六日町では交換のため若干遅れ越後湯沢は13時4分の到着となった。この列車は上越線内は塩沢のみ停車の快速電車であり、スキー場最寄りの上越国際スキー場と石打も通過するあたりかつての特急「はくたか」を思わせた。
2023年3月ダイヤ改正で「超快速 スノーラビット」は越後湯沢発の1本も廃止されて、2015年に鳴り物入りで始まった国内最速の快速列車の歴史が終わる。
はねうまラインの乗り入れも終了し、最高速度は110㎞/hから95㎞/hとなる。
北越急行もこれまでは急行の名に恥じない高速運転で健闘してきたがこれからは実を取り地域輸送に専念することとなる。
沿線の人口も急激に減少し都市間輸送はやはり新幹線となれば止むを得ないことである。
外観は国鉄キハ20の車体にキハ30の塗装で、車内は首都圏通勤区間らしくすべてロングシートとなっている。 乗客たちのいる付近に排気が見えているがこの車両が縦型エンジンであることを示している。
気動車の後ろに隠れるように貨車が3両。真ん中は緩急車の様だ。無蓋車には荷物が積まれて物品保管に使われているように見えた。
これらの木造車は蒲原鉄道や新潟交通でも見かけたことがあったが廃止され今は見ることができない。くびき野レールパークの軽便仕様の貨車が保存され公開の際に展示されることがあるようだ。
小湊鉄道木製貨車は一部が里見に移動しているとの事だった。
バッファの穴が残る貴重な貨車。
以前上げた画像から 自動連結器横にくっきりとバッファ痕跡が確認できる。大正13年(1924年)日本車輛で製造 小湊鉄道の開業は大正14年(1925年)3月であり、当初から連結器は自動連結器が採用された。一方鉄道省のバッファ付きの連結器(螺旋連環連結器)の自動連結器の交換は大正14年(1925年)7月でありその間の国鉄貨車との連結の関係でバッファが用いられて片側だけ取り付けられ控え車として使われた。その時代の名残だったという。
キハ200型気動車と無蓋車 無蓋車にはねじ式連結器のバッファの痕跡が。
五井機関区 小湊鉄道の主力気動車たちが待機をしている。奥には木造の貨車が見えた。成田空港に向かう途中立ち寄った一コマ。
今帰属している客車研究会の1年に一回の見学会が小湊鉄道で今月末行われるが参加できないのでかつての姿をながめて過ごそうと思う。
小湊鉄道のキハ200型の塗装は国鉄型キハ30系の塗装と類似していて、五井機関区の風情も越後線の吉田駅裏の車両基地に似ていて懐かしかった。
この日午前中は天気がよかったが午後からは雷雨になった。 トロッコから見る雨の風景如何に見えたのであろうか。
会津鉄道のフラッグシップ車両で車内はリクライニングシート完備。先代は名鉄から来たキハ8500系で2010年に交代して現在に至る。
リクライニングシートで構成された優等車両。喜多方から乗車した客は会津若松駅までの人が圧倒的に多いと考えられるがこの列車は会津田島から野岩鉄道に接続して首都圏に行くことができる。
AT701のリクライニングシートにもたれて会津盆地をながめる。線路沿いではこのあとやってくる「SLばんえつ物語」号を待つ撮影者の姿が多数あった。
会津若松を発車して会津鉄道の会津田島へむかう。会津マウントエクスプレスは現在各駅停車となっているためリクライニングシートの普通列車となっている。乗客は会津若松で入れ替わり会津鉄道方面の客が多数乗り込んでそこそこ乗車率で会津若松を離れていった。
北越急行で上り2本、下り1本の運転がされていた「超快速 スノーラビット」であるが、3月12日ダイヤ改正で上り1本に減便された。
上りの2本のうち越後湯沢を9時56分に出て直江津10時53分に到着する列車は国内最速の快速列車であり表定速度99キロを誇った。
わずか1両の列車だが越後湯沢を発車後は雪壁の上越線を走り六日町には停車せず、北越急行ほくほく線に入り最高速度110㎞/hでトンネル区間を走破して途中十日町のみに停車のダイヤ。乗車率は110%ほどで十日町で95%くらいになった。運転台の風切も勇ましく 雪原とトンネル区間を走破する。乗客は家族連れを中心に新幹線から乗り継いだと思われる人々が主だったがおなごり乗車の人もいたようだった。列車内の雰囲気は良き時代の急行列車を思わせた。
雪原が尽きると無雪の頸城平野でありところどころに白鳥がえさをついばむ姿が見られた。
くびきをすぎて水田地帯を通り抜けて犀潟から信越本線に。国道8号を挟んだ松林の彼方に日本海を望み10時53分に直江津に到着。
直江津13時53分発越後湯沢14時54分着 夢空号連結。
鳴り物入りでデビューし 話題となった超快速スノーラビットであるが昨今の減便の嵐の前には太刀打ちできずあっさり引退となったのは残念なことであった。
最後の最後で乗ることができたのは幸運なことだった。完全消滅ではないが1本のみ残存し新井まで走る。この列車がスノーラビットの血脈を守ってくれることを願う。