2020年5月9日 上越線土樽
今はわずか5往復の列車が発着するだけのローカル線となったこの区間。
通過線を発着線にして列車の乗り降りをするように変更されもう10年になった。
かつてはこの駅で普通列車や速度の遅い列車を待避させて特急などが走り抜けていった。
土樽は清水トンネルの最寄であり、大正時代から昭和初期にかけて越後湯沢から軽便鉄道による輸送線が敷かれ、工事関係者でにぎわった。
清水トンネルの土樽坑口と松川トンネル坑口付近には事務所、職員官舎、購買所、倉庫、修理工場、機械工場、木工所、砕石所、火薬庫、ブロック工場など。
さらに現場で働く労務者用の飯場などが軒を連ねて一大市街を形成していた。
小学校の分教所(分校?)も設置されていた。
これらはトンネル完成まで存在した。
参考文献「湯沢町誌」P580
この日土樽駅の長岡よりにある発電所の改修工事を見聞したが比較的大きな仮設の建物が多数あった。ときどき工事の車両が出入りしていた。静かな山間のこのあたりも幾分にぎやかに感じていたが清水トンネルの工事の時にはもちろん及ばない。
さて湯沢から土樽までの軽便鉄道どんな印象だったか?写真はそこそこ公開されていて見ることができる。主に電気機関車が運財を運んでいたようだ・・・
写真は新清水トンネルで清水トンネルは左に見えているトンネルである。
川端康成の「雪国」に出てくる「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった ・・・」は左手の上りのトンネルのことである。