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2025年7月21日月曜日

DD51 661急行「おが」


1984年5月5日  奥羽本線秋田 8番乗り場 

新潟から特急「いなほ1号」2011M7時20分発秋田11時24分着そして青森行きの急行「むつ」613Dは秋田11時28分発 青森14時35分着。このダイヤで移動していたがDD51661〔秋〕牽引の20系がやってきたのを撮影してすぐに急行「むつ」に乗り換えた。

秋田駅8番乗り場はご覧の写真を撮影するしかなく、編成などを入れることは困難だった。

このDD51661牽引の 20系客車は季節急行「おが」であり、上野21時24分発6401レ秋田着8時34分秋田から8131レとなって9時発で男鹿着は10時9分。男鹿を10時24分発8132レ秋田着11時26分着の運用だった。上りは男鹿18時36分上野着6時54分である。男鹿線内は普通列車で一部通過駅ありであった。

運用番号は北東1で尾久客貨車区受け持ちで、車両は1980年10月改正まで10系寝台車(A寝台あり)と旧型客車、1980年10月改正以降14系10両編成で運転、1983年7月1日より急行「津軽」の混雑緩和のため「津軽」に使用している20系と交換した。男鹿線の乗り入れは1985年3月14日改正で終了し秋田~上野間の急行「おが」としてJR東日本に引き継がれた。

参考までに手持ちの1992年7月時刻表によると上野22時23分発9405レ北上発5時50分、秋田着は8時49分着 。秋田20時発9406レ北上23時1分、上野到着6時54分であった。すでに山形新幹線があり北上線経由となった。運転日数も少なく旧盆や年末年始の運転であった。

*20系客車としては1992年春臨までで、以降14系に置き換わったものの1994年冬で運転を終えたようだった。最晩年は14系の寝台と座席の混合だった。

 

参考資料 国鉄客車ガイド 1983年交通新聞社、時刻表各号 

2025年1月5日日曜日

妙高高原115系横須賀線色臨時列車雑感

2025年1月3日 しなの鉄道北しなの線 115系S9編成

昨年横須賀線色が復活。新春の初もうで列車に妙高高原~長野間に2往復運転。

山間部は大雪が予想されたが妙高高原は薄日が差して穏やか。寒いだけであって雪は豪雪地故たくさんあったが。 撮影者は30~40名列車で現れ思い思い行っていたというところであった。

115系の横須賀線色は別名「山スカ」(本家の横須賀線に対し山岳路線の中央本線の列車のため)と言って、最盛期にはサロ165を組み入れた急行「かいじ」なども運転されていた。1985年3月のダイヤ改正までは篠ノ井線で長野まで入線していたが、系統見直しで松本までに変更され中央東線(おもに高尾~塩尻)のローカル輸送に使われていた。

信越本線の妙高高原界隈は北陸新幹線開業前の数日間運用変更で直江津乗り入れを行っていたようだ。

この横須賀色は115系ではなく70系旧型電車 が長野~直江津間の主力だった時代の塗装だったようだ。そんなイメージで眺めている。えちごトキめき鉄道はねうまラインのET127系V8編成も横須賀色のラッピングで半室荷物車のイメージとなっている。

いったんは途絶えた横須賀線色 これも115系の終わりをイメージしての復活と言われているが末永く走ってほしいと思う。

2024年12月24日火曜日

戦前の気動車の黄金期 1940年(昭和15年)

弥彦線 弥彦~越後長沢間 一部列車に機械式気動車(ガソリンカー)が導入されたころ。弥彦線は4往復であった。ほかは木造客車による列車で一部には越後鉄道の買収車も用いられていた。

越後線の白山~柏崎間 気動車は4往復。白山~大河津の運転。

越後線に気動車(ガソリンカー)が配置されたのは1936年(昭和11年)4月1日から。

手持ちの時刻表は復刻版で1925年(大正14年)、1930年(昭和5年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)、1942年(昭和17年)、1944年(昭和19年)である。

1925年はまだ越後鉄道の時代、1930年はまだ気動車はなく、越後鉄道の買収車が使われていたと思う頃、1934年は気動車が登場したころで越後線や弥彦線にはまだ配置されていない時代、1940年は気動車の黄金期と言える時期、ただし日中戦争が勃発して燃料の節約が叫ばれる時代で、早くも減便が開始。また一部にはアルコール併用や木炭ガス併用の開始がされた。

1944年の時刻表では弥彦線の越後長沢~東三条間の時刻が無くなっていたがまだ気動車の運転はあった。越後長沢方面はこの年の10月16日には運転休止で線路撤去、復活は1946年10月1日となっている。この年の時刻表ではわずか3往復で混合列車だったという。1951年からは天然ガス車の運用が始まる。

他1943年には信越本線貨物支線関屋~新潟間の線路を使って越後線西吉田と東新潟港の区間で気動車の工員輸送が行われているほか、終戦後の1945年の暮れには新潟~新津間で気動車の運転が行われている。

参考文献 時刻表復刻版戦前、戦中編 時刻表復刻版戦後編、鉄道と新潟

2024年12月23日月曜日

越後線と弥彦線を走った可能性のある機械式気動車 キハ41000型

1983年6月 新潟交通電車線 燕 クハ37 画像は非運転台側で運転台側は2枚窓の「新潟交通仕様」となっている。車内はロングシートだった。

履歴(沖田祐作 機関車表から引用)

 キハ41080 新潟鉄工所= 1934-03-00 DC19.78t1A-21067

車歴;1934-03-00製造→納入;国鉄;キハ41080→配属;?→配置;?→1934-06-29現在;尻内→

1941-07-31現在;尻内→1942-01-31現在;長町→1943-03-31現在;長町→

1943-04-13[達第1133/18達発]長町発西吉田支区→1944-01-31現在;西吉田支区→

1947-01-31現在;大館→1949-07-22廃車;大館→譲渡;新潟交通(新潟県);クハ37→廃車



2013年1月2日 鉄道博物館 キハ41307

 この車両は戦前から戦後に西吉田に配置歴があった。ガソリンカーから天然ガスそしてDMF13ディーゼルの履歴がある。クロスシートは小さく、キハ42000型や初期のキハ450000型もこれらを継承している。

 履歴 沖田祐作 機関車表から

キハ41056 川崎車両兵庫工場= 1934-01-30 DC19.78t1A-21067

4300

車歴;1934-01-30製造→納入;国鉄;キハ41056→1934-01-26配属;名古屋局→配置;?→

1934-01-31現在;梅小路→1936-01-31現在;梅小路→1939-01-31現在;西吉田支区→

1943-03-31現在;西吉田支区(本区白山)→1944-01-31現在;中込→

1947-01-31現在;西吉田支区→1948-12-00長野工場改造;キハ41207(天然ガス動力化)→

配属;新潟局→配置;西吉田支区→1951-10-01現在;西吉田支区(本区白山)→

1952-10-01現在;西吉田→1952-11-00長野工場(大宮工場?)改造改番;キハ41307

(機関DMF13型)→配属;?→配置;?→1955-03-31現在;中込→

1957-04-01改番;キハ04-8→配属;長野局→配置;中込→1958-01-11廃車;中込→

譲渡;遠州鉄道(静岡県);キハ802→譲渡;北陸鉄道(石川県);キハ5211→

譲渡;関東鉄道(茨城県);キハ461→分離;筑波鉄道(茨城県)キハ461→廃車



2000年7月   蒲原鉄道クハ10 小さなクロスシートがある。

蒲原鉄道での唯一のクハそしてクロスシート車両であった。この年に蒲原鉄道の鉄道路線は廃止され一時村松駅近くに保存されたが個人所有であり2013年に所有者が亡くなられたことによって管理が難しいという理由で解体されて現存しない。

履歴 沖田祐作 機関車表から

 

キハ41120 川崎車両兵庫工場= 1935-09-00 DC19.78t1A-21067

車歴;1935-09-00製造→納入;国鉄;キハ41120→配属;?→配置;?→1936-01-31現在;長町→

1939-01-31現在;西吉田→1943-03-31現在;西吉田支区(本区白山)→

1944-01-31現在;大館→1947-03-01現在;借入;蒲原鉄道(新潟県);キハ41120→

1949-09-30廃車;大館→譲渡;蒲原鉄道(新潟県);クハ10


機関車表の履歴をまじまじ眺めていると判明した意外な事実。

ほかにキハ42000型も配置され、これも1951年に天然ガス改造され、越後線、弥彦線、信越本線新潟~新津間、磐越西線五泉~新津間などで運用され、さらにディーゼル化された。

これらは液体式キハ45000系列に置き換えられて1955年以降転出している。

2024年12月22日日曜日

昭和15年(1940年)磐越西線時刻表 


 磐越西線時刻表である。1940年のもので会津若松と喜多方の区間の小駅の停車列車が目立つことに注目。新津~会津若松の列車は喜多方を出ると塩川のみ停車で会津若松に向かう。

停留所相当小駅の会津豊川、姥堂、笈川、堂島は1934年11月1日請願駅として開業。ガソリンカーの停車駅となった。1日5往復が停車で新津方面とは系統が分かれていた。

これらの駅では会津若松や喜多方への通勤・通学輸送限定の便宜を図る目的で、1940年以降はガソリンの統制で区間運転のガソリンカーの運転も減少し1944年の時点で2往復が朝晩留まるだけとなった。

戦後は新津方面の客車列車の一部が停車するようになり以降は新津方面直通列車の一部の停車が当たり前となった。1950年では新津方面列車1往復が確認できる。このころの停車本数は4往復で1961年では3往復、1964年9月では2往復に減少となった。

2024年の時点では5往復停車で通型時間帯が中心となっている。新津方面列車の停車もある。

会津豊川、姥堂、笈川、堂島のこれら小駅のつくりは簡素で大糸線などでみられる私鉄買収の電鉄線を思い出させた。

2018年8月11日 磐越西線堂島を通過のDL快速。 踏切のすぐ左手に小さな駅舎がある。磐越西線の喜多方~会津若松間では架線設備が廃止され現在使われていないという。今後は架線柱も撤去されると思われる。



2024年12月20日金曜日

遠くに見えるものは


 2024年12月1日  長岡車両センター(現新潟車両センター派出?)

用事を済ませ帰宅する途中、ふと公道から構内をみると懐かしいマークを掲げたEF81138が見えた。大勢の人の動きがあるのでなにかイベントでもしているようだった。

2010年代に入るまでは当たり前に見られた光景だったが、夜行列車の相次ぐ廃止で見られなくなった。

*画像は2009年4月8日のもの

 

現在「喪中」であり華やかな場所に近づくのは許されないため数秒程度眺めると次の目的地の寺院へ向かった・・・


2024年12月8日日曜日

戦前の時刻表を入手してみました


2024年12月8日 復刻時刻表戦前編 日本交通公社

戦前の時刻が知りたくて入手。手持ちの時刻表は1964年9月が一番古いがそれ以前のものはない。

図書館をめぐっても出てこない。フリマアプリを動かすと手ごろな価格で出ていたので、購入。当初の発売価格程度で入手できた。

年表や歴史解説などではいまひとつわかりつらいことが一気に判明した。今調べていることは戦前の気動車のこと。

先週新津の図書館で国鉄新潟支社「三十年史」を閲覧、戦前に西吉田支区に機械式気動車(ガソリン車)が配置され越後線や弥彦線の一部列車に使われていた。

今はない弥彦線東三条~越後長沢間の列車運用を知ることが主たる目的で、昭和5年の時点ではすべて客車、機関車は越後鉄道からの買収のもの。以降、ガソリン車が一部の運用に入った。

昭和9年(1934年)時点では気動車の記載はないが、昭和15年の時点で弥彦線で3往復、越後線で4往復気動車の記載があった。気動車の運用開始は昭和11年(1936年)からであり、好評を持って迎えられたようだった。

東三条と越後長沢の区間は午後2往復の運用だったようだ。他は蒸気機関車の牽引する列車だった。

この区間は昭和19年(1944年)10月には線路を撤去され、終戦後昭和21年(1946年)線路復活となって3往復の運転が再開した。この時点では混合列車のため蒸気機関車に戻ったと思われる。以降は越後線も弥彦線も気動車が主流となり高度成長期を迎える。このころにはキハ17系の全盛期となっている。

参考

 http://ef510001.blogspot.com/2023/05/blog-post_27.html

 

 


2024年7月13日土曜日

オハフ332376 1984年直江津



1984年11月  直江津客貨車区  オハフ332376

1948年2月新潟鉄工で落成。新庄に配置、1963年8月長野工場で電気暖房改造。

以降直江津、長岡、新潟、長岡、新津、直江津という経歴を持つ。 近代化工事は1965年3月3日、体質改善工事B3を1974年5月30日に新津車両管理所で受けている。

2024年6月18日火曜日

トキ鉄荷物車もどき~ET127 V8編成横須賀色

2024年6月15日 直江津 トキ鉄ET127‐8の編成(V8編成)

田島ルーフィングの復刻塗装第二弾横須賀線色。ET127‐V1のなつかしの新潟色の方は窓枠は黒のままでクールな印象であったが、こちらは窓枠もラッピングされて、荷物標記、さらに扉と客室の一部に荷物車のイメージである鉄格子のアレンジが。パワーアップバージョンである。信越本線での横須賀線色は1977年頃まで直江津~長野方面の一部列車が長野鉄道管理局の70系が受け持っていて、クハ68も編成に入っていた。荷物車や合造車はさすがになかったと思う。これはどちらかというと飯田線や身延線のイメージとなろう。

ともあれまた素敵な編成が出てくれたことに感謝をしたい。

直江津駅の電留線で待機する田島ルーフィング第一弾と並ぶ。この組み合わせも新潟県内では長岡運転所の70系編成で転入車と在来車が編成に入っていた時当たり前にみられていた。

この日は柏崎でE653系「しらゆき」の上沼垂色、直江津で田島ルーフィングの2種類、ほくほく線の復刻イベントバージョン(かつてのHK100-8と9が最初に纏っていた色)、一番人気の大御所413系とクハ455の「観光急行」と一気呵成に見聞できた。ほか雪月花、shukuraも見ることができたので満足したところで本日の目的地無印良品直江津店へ向かった。


2024年5月8日水曜日

直江津客貨車区 オハフ33

1984年11月11日 直江津客貨車区 オハフ33

履歴票を写しに伺った際に許可を得て撮影したもの。左には夜行急行妙高の編成が待機。

構内は狭く、洗浄の台があって個別の形式写真を撮影することはできなかった。
 

2024年5月4日土曜日

直江津客貨車区 救援車


 1984年11月 直江津客貨車区 スエ3126 

種車はスハ32572で1938年10月小倉工場で製造 救援車への改造は1967年8月26日新津工場で行われた。

窓上にヘッダが無い変形車(スハ32系としては)で人気が高かった。

2024年4月2日火曜日

オハ472296~1983年9月

1983年9月 会津若松 新津行き普通 1233レ

会津若松15時46分発新津18時36分着の客車列車。

この日はオハフ33、スハフ32、オハ47、スハフ32 スユニ50の編成。

2両目のスハフ322357に揺られて秋の磐越西線を楽しんだ。新津付近は日没を迎え夕焼けがきれいだったことを記憶している。

オハ472296は当時仙台運転所の所属だったが借入車となって郡山にいたようだった。

客車扉はHゴム大型タイプでオハ47ではこれが標準だったようで、直江津のオハ472029のような木製扉は例外だったという。近代化工事時点ではHゴム扉に交換することになっていたが客車の廃車が進むにつれ余剰が出てときに近代化工事が行われていてもこれらの扉に帰られることがあったという。さらに履歴票にも記載される項目でもないためいつから変更されたかもわからないという。

昨日の研究会のオンラインでの発表はなんとかこなせたが、先輩各位のようなあか抜けた発表はできなかった・・・・

2024年3月17日日曜日

オハ472261~夕暮れの新津駅(SL村上ひな街道号入れ替え)

2014年3月23日 新津駅 オハ472261

1952年4月日立 スハ43138(笠戸) 広島に配置 1960年代に電気暖房設置スハ432138(1964年までに施行 履歴票に欠落あり)

1968年8月台車をTR47からTR23に交換してオハ472261となる。

TR23は43系に合わせて心皿と側受を改造したTR23F平軸受けの台車で1969年6月コロ軸受けのTR23Hに改造。 1973年12月に体質改善工事(B6)を施行。Bの体質改善工事ということであれば近代化改造されていてその時点で車体は青15号とされていた。

移動歴は広島、品川、1968年9月尾久、1982年11月水戸(常磐線方面普通列車など)、1987年3月高崎(JR東日本移行 イベント用のため)このころ色をぶどう色に復刻。
C57180は木立に隠れて見えない。蒸気機関車の次位は人気のオハニ3611。古い客車には目もくれず足早に家路を急ぐ女性2名。気温がさがって寒さが戻ってきた。
汽笛とともに入れ替えが始まり、客車編成は動き出した。日没間近な駅構内に蒸気機関車と客車が佇む光景は1972年頃の蒸気機関車の終焉気を思わせた。

2024年3月16日土曜日

オハニ3611 鋼体化改造車

2014年3月25日  「SL村上ひな街道」の代走運用を終えて帰路に就く。12系は改造工事で入場中のため旧型客車編成が羽越本線を走った。

鋼体化客車は木造客車の台枠や台車のみを利用して車体を新製した物を用いた客車。主だったものではオハ61、オハフ61、これを改造したスロ62、スロフ62、お座敷客車スロ81、スロフ81がよく知られている。

この荷物合造のオハニ61は1955年12月オユニ26289を汽車会社でオハニ6311として改造。車体構造は特急、急行に使用するため座席間隔はスハ43系と同じとした。当初TR11台車だったが1958年1月に長野工場で10系用の台車TR50と交換オハニ3611となって品川に配置以降伊勢、福知山と渡り歩いた。福知山では山陰本線の行商人輸送で活躍し1986年に高崎に移動しJR東日本に承継現在に至っている。上越線の臨時列車に運用されたとき乗車したことがあったが高崎に転属してきてから10年くらい経過していたにもかかわらず磯の香りが微量に漂っていたことが思い出された。

車内構造はニス塗りで白熱灯、貴重な荷物室もあって人気が高い。福知山にいたころは山陰本線の客車廃止で解体されると思っていたがそれから30年以上たってまだ健在なのがうれしい。5月の新潟駅開業120年号に運用されるかどうか?

2024年3月1日金曜日

富山平野に雪煙を上げて走るEF70牽引旧型客車列車1228レ


 

1985年1月27日 北陸本線 1228レ 旧型客車列車

EF70を先頭に10両編成 富山客車区の5両(金付2)と直江津客貨車区の5両(新21)の併結。早朝は長大編成がみられた。

雪原を雪煙を上げて長大編成の客車列車が行く光景は圧巻であった。

 

2024年2月29日木曜日

スハフ422029



 1985年2月 北陸本線東滑川

スハフ422029 履歴票   1951年5月 川崎

改造歴 

電気暖房改造 1964年8月4日 土崎工場

近代化改造  1964年10月2日土崎工場

体質改善工事 1974年9月9日

新製配置新潟1951年5月30日 最終配置直江津1980年10月22日

全検1983年6月16日長野工場

2024年2月24日土曜日

スハ402102 この客車が消えて39年


 1985年2月24日 北陸本線東滑川 230レ スハ402102 新ナオ

この写真は再掲載している。

運用終了まで一か月を切っていた北陸本線客車列車。 最後1両残ったスハ40をとらえることができた。かつていた残り2両の方は1982年11月ダイヤ改正で長野工場で鉄塊に帰り、スハ402102だけが残存していた。

この客車の履歴票を調べたことがあり記録をここに記す。

1950年10月18日 日本車輛 スハ42 102として登場。1960年3月31日 土崎工場 で軽量化改造がされオハ36102となる。スハ42はオハ35のTR40台車を用いて重くなったもので車内もオハ35と同じ、オハ36に改造する際に内部は軽量化された。扉もナハ10系と同じものとなっている。座席は43系と同じとなり快適になったと言われている。

1938年5月30日に長野工場で電気暖房改造がされ重量増加でスハ402102となった。 

1950年に落成した際には宮原に配置、1952年に品川、1953年に新潟 以降新潟管内を渡り歩き1980年10月22日に酒田から直江津に転属している。

碓氷峠の通過可能工事は1964年9月30日に長野工場で、体質改善工事は1977年7月25日 酒田配置時代に土崎工場で施行されている。トイレの締め切りは1983年7月31日に行われた。

客車履歴票の書き写しは苦しいが(ただ手を動かすだけのため)記載が完了した際は発見が多くあり感動ものだった。

ただ、窓の向こうを変わった列車が通り過ぎて行ってもただ眺めて過ごすだけであったが。

この履歴票調査の「所作」については鉄道ピクトリアル2002年7月 №719特集スハ43系ⅡP28「客車履歴票」との関わりあい雑感 勝村彰氏 で詳しく語られている。ご関心ある方は一読をください。

この勝村氏の文章中に「窓の外を行き来する客車にカメラを向けることなく、履歴票の書き写しをするのは根気を要するものだった」という記述がある。撮影活動と調査活動の分水嶺を垣間見ることができる。いま客車研究会へ文章を一篇を書き上げ送っており数日前にゲラが送られてきた、この研究会はプロ級の方の集まりであり当方の駄文が掲載されることは非常に心苦しいがどのようになっているか不安と楽しみが交錯するところである。

2024年2月9日金曜日

厳冬 弥彦線越後長沢


 1984年2月10日 弥彦線越後長沢 キハ30など

1メートルくらいの積雪。わずかな客を降ろして発車を待つ。弥彦線越後長沢~東三条間は輸送量が極端に少なく常に廃止が検討されていた。運転本数も朝2往復、夕方3往復。

越後長沢の周辺はこれといって何もなく水田と低山があるだけだった。そこに雪が積もると北海道のローカル線のような風景が展開していた。


2024年2月8日木曜日

弥彦線 キハ28 34 226D

1978年9月 弥彦線 キハ30、35の主戦場だった弥彦線であるが朝方2往復のみ越後線の間合い運用でキハ30、35以外の気動車で組成した列車が運転されていた。東三条発吉田行き226D この日は冷房付きキハ2834が連結されていた。冷房用エンジンを積んでいない車両で使い勝手がよくないためかのちに転属となった。ほかはキハ17とキハ55などの編成で1979年の秋にキハ47に置き換えられる。

弥彦線での急行型車両乗車は極めて難易度が高く乗車は難しかった。

この撮影場所は高架工事で廃線となり道路となっている。

2024年2月7日水曜日

越後線信濃川橋梁 1981年


 1981年越後線 キハ47とキハ30、35の編成。電化工事が始まる直前。

越後線にキハ47が配置されたのは1978年の秋から。