2020年1月4日土曜日

115系N40編成~越後線

2020年1月4日 正月気分であるが仕事始め。午前中は業務に。業務開始にあたり偉い方々から新年の挨拶があった。

休み明けの鈍った体が仕事に慣れたところで本日は終了。午後から時間ができたので越後線を攻めてみた。115系N40編成が午後越後線入りし、吉田から柏崎の区間に入る。
冬枯れで雲が多数流れ冷気が漂う越後平野。水田の切株は薄茶色になりまるで荒野のように連なる。傾きかけた薄日に向かって115系N40編成の普通列車が通過していった。

越後線の吉田~柏崎間は特に風光明媚というわけでないが人口希薄地帯を走るためローカル色の強い作画ができることで人気が高い。多くの傑作をSNSやWEB上で拝見することができる。

2020年1月3日金曜日

115系N40編成+N33編成

2020年1月3日 正月も本日まで。年末年始撮影の掉尾を飾るのは115系N40編成とN33編成の6連
まずは115系N37編成の225M~222M寺泊行き 雨降りで薄暗い中の撮影。
お目当てのN40編成先頭の6連227M 懐かしの70系新潟色と3が日付き合うことができて幸運だった。後ろには115系N33編成が連なる。
第一次弥彦線色のN33編成.
弥彦のもみじの赤と菊の黄色をアレンジし1988年(昭和63年)秋に登場し弥彦線ワンマン列車として登場し1993年(平成5年)冬までこの塗りわけが見られた。朝の6連はこの塗りわけとN37編成の青髭こと第一次新潟色だった。

当初この色が出たときは70系色の再来かと思ったが今まじまじ見るとかなり違うことがわかる。
赤と記したが実際は朱であろう。

吉田行きE127系224M 2連であるが非ワンマン。 列車右手には1984年2月まで貨物扱い所へ向かう線路が伸びていた。DE10〔東新潟〕が貨車を直接牽引して乗り入れていた。
洋食器産業の重要拠点だった。
 1984年2月ダイヤ改正(昭和59年2月)で弥彦線の貨物扱いが廃止使命を終えて貨物扱い所は公園に。
右手のアスファルト道路は新潟交通電車線の廃線跡転用。



JTrain76号は昭和末期の貨物列車が特集でありこの時代の解説がなされている。
ヤード系輸送・・・各地の貨物駅からヤード(操車場)に集められた貨車を組成していくつかのヤード(操車場)経由で 目的地に送り届ける方式だったが非効率的という判断がされ赤字が頑強のため廃止された。車扱い列車は直行方式となってJR前に専用貨物列車となった。(大方はコンテナまたは民間のトラックに移行した)
使われなくなった貨車や機関車が多数操車場に留置されたのもこの頃である。

信越本線 キハ110系5連入区~新津駅

2020年 新津駅構内を移動するキハ110系5連 今では貴重な長編成。磐越西線会津若松~新潟間の221Dの回送の入庫。キハE120が混じることも多かったが転属したのか見かけなかった。キハE120は留置線奥に1両が停車していただけだった。




キハ47の2両 車庫の中央部に停まっていたが留置線奥に移動していった。
キハ40585とキハ40587 会津若松からの223Dで新津到着 ロングシート2連

1990年代に改造されたものである。キハ47はロングシート改造車はなかった。

キハ40、47、48も廃車が急激に進行している。首都圏色のキハ47はミャンマーに輸送のため新潟東港に置かれている。
キハE120は会津若松へ転属のため見かけることがなかった。外観は東北色に変更される。

キハを軽く眺めた後はブックオフへ行って気になった書籍をあさった。以下余談

12月30日に放送されたNHKの「stranger(ストレンジャー)上海の芥川龍之介」の原案となった「上海游記」という作品を探したが見当たらなかった・・・・

久しぶりに見たTVドラマである。(年末年始に見た唯一のTV)

*ほかに上海を舞台にした小説は昨年購入して読んだ 武田泰淳の「蝮のすえ」 横光利一の「上海」
若干時代がずれるが「上海」つながりで関心がありこの番組を楽しみに年末を切り抜けた。(武田の作は戦後すぐ 横光は昭和戦前)

大正期の上海の躍動を垣間見ることができて楽しかった。(筆者としては上海というところのイメージをつかみたかった)
期待通り雑然とした街が描かれそこに生きる人々の様子が鮮明に描かれていたのがよかった。現地のスタジオでロケが行われたことでリアルに再現されたのであろう。
暴動の場面が多数出てきたがそれは現在の香港の様子に見えて仕方がなかった・・・・
建物室内も暗めの壁が用いられてどこか不気味だったが当時はこれが一般的だったのだろうか?
死体から流れた血にクッキーを落とし拾い上げて皆で分け与え食べる場面・・・

訪れたことのない都市、体験したことのない年代を垣間見れてよかった・・・




2020年1月2日木曜日

弥彦線朝練~N35編成+N40編成

2020年1月2日 弥彦線225Mは115系N33編成 暗くよどんだ空に映える。
折り返し寺泊行き 相変わらずどんより!乗車率は低迷。この編成も原型室内である。
第一次弥彦線色だが1000番代のため座席シートピッチ 1470㎜となっている。
1000番代がやってきた1978年乗って驚いたのはそれまでの0番代や70系と違って座席が大型になりゆったりしたことだった。
この第一次弥彦線色をまとったのは500番代車で初期型のため座席は1400㎜で小型だった。国鉄改革の一環として改造車が送り込まれた。座席は狭く小さくあまりきれいな車内ではなかった・・・・その後第二次弥彦線色になっても車内は変わらなかった。
115系N35編成とN40編成 227M 休日のため乗車は少ない。
115系N40編成 国鉄時代そのままの原型座席が存在。

ブックオフで購入!グリーン車以前の客車の2等車が多数載っていた。
 2等格下げ車はヨーロッパの車両を思わせ映画の中の世界がそのまま存在することで近親感を頂いていた。70系電車クハ75の非日常的な車内も忘れ難い。






2020年1月1日水曜日

雪の元日弥彦線朝練~115系N38編成

2020年1月1日 115系N40編成 
吉田からの225Mが到着。赤と黄色の2色は雪中でも目立つ?
115系N40編成 車内は原型に近く国鉄時代の頃をしのぶことできる。
元日朝故に乗客はほとんどなかった。暖房は絞り気味で少々寒い。
原型を楽しめるので贅沢は無で行こう。寺泊行き列車となった115系N40編成は定刻に発車。北三条を出たあたりで見える八幡宮の境内は提灯が多数装備されていた。夜間は賑わったのだろうか?
雪が屋根にうっすら積もった三条市内の高架線を経由して信濃川を渡って燕三条へ。北三条から乗車した新幹線乗りつぎの客が数名降りて乗車も3名程度。初詣に行く時間には早すぎるのであろうか?
雪が強くなった西燕で降りて227Mを待つ。
柏崎からの227M 前面に雪が付着した。薄暗く露出も上がらない。
車内はご覧の通り。元日の朝はゆっくり。新幹線で東京へ行こうという流れもないようだ。
東三条駅に到着。帰宅後は年始客の相手に追われた!








弥彦線二年参り号

2020年1月1日 東三条駅0番乗場 弥彦二年参り号 115系N33編成!
弥彦線久々の夜間の115系運転。

昨夜17時ころに、」のっぺと荒巻鮭、だて巻きなど年越し料理を食いつつ飲んでいたら眠気に襲われて0時50分頃目が覚めた。紅白の松田聖子氏の曲を聴こうと思っていたらそれどころではなかった!除夜の鐘は終わっていた。(除夜の鐘と言えば寺の近くに後で越してきた住人にうるさいからやめてほしいとクレームされ日中に廃止または日中に変更した事例が見受けられる。このクレームをした人たちは自身が死を迎えること、幸運が長く続かないことを意識していないかまたは社会全般が年中行事の意義そのものに目を向けることができないほど精神的な余裕のない荒廃した時世になってしまったかのいずれかなのだろう)年越し早々のポカミスだった。(松田聖子氏の歌を聞けなかったことと除夜の鐘が終わっていたことに関して)

急いで支度して神社に二年参りに。参拝してご神饌を頂く。風邪をひいて寝込んだか?あるいは県外(海外含む)等遠征時以外毎年行っている。すでにピークは過ぎていたが参拝者の姿があった。神社の関係者様はピークが過ぎたのでお茶でくつろいでおられた。

参拝後東三条へ。コンビニ以外は閉店し深夜の面持ちである。(鉄気盛んな若いころは深夜のコンビニにずいぶん世話になった)
 東三条駅では若い女性2名が電車の到着を待っていた。
弥彦からの115系「弥彦二年参り号」を。駅員氏に尋ねたところ間もなく到着との事。
115系N33編成。乗客30~40名くらいは足早に改札へ。115系の行先票は回送になっていた。(この電車の乗客は若い方々が多かった)
信越本線は終電が出た後で貨物列車は全て運休し始発まで上下とも列車はないはず。
扉をしめて運転台に向かう女性運転士。車掌は男性だった。
うっすら積雪があり正月らしくなった。



2019年12月31日火曜日

大晦日弥彦線朝練~ハコ乗り!

2019年12月31日大晦日!2010年代最後そして令和元年最後の大みそかでもある。
平成生まれ1996年製のE127系V12編成が信越中線に待機。7時37分弥彦線吉田行き。
 この列車はワンマン運転ではない。
東三条駅0番線に到着は115系N35編成 225M 折り返し寺泊行きとなる。
(雨のため本日の朝練は乗車=ハコ乗りにしました)
モーターの音を楽しみたいので吉田より先頭へ。大みそかであればほとんどの会社も学校もお休みのようで誰も乗っていない。この列車は燕三条で上越新幹線とき308号東京行きの接続しているがそちらの客もいなかった。

7時37分定刻に発車!列車は信越本線と少し並走してから右にカーブして高架線に入る。
車窓にはくすんだ三条の街が広がる。薄暗い車窓から見る町はまだ眠っているような感じだった。
北三条で2名乗車しよどんだ町並みに背を向けて信濃川を渡って国道沿い商業地を横切って燕三条着。東京方面の客はおりてまた空車状態に。

燕三条は水田にできた駅で開けたのは1990年代平成に入ってから。
ショッピングセンター、マンション、アパート群をながめ中ノ口川を渡って燕到着。
櫛の葉が抜けたように空き地が目立つが洋食器産業が華やかな時代は多数の町工場がひしめいていた。
1964年10月の時刻表を見ると 20往復以上列車があり廃止となった東三条~越後長沢の区間さえ11往復あった。この時代の弥彦線は幹線であり混雑が激しい故通勤仕様のキハ30、35が導入された。
いまの燕の街中はひっそり静まり返っているが随所に面影を見ることができる。
燕は職人の街・・・三条は商人町と言われているが正直高架線からは想像しえない。
単なる住宅街か寺院が多いので寺町のように見える・・・

燕では西燕~吉田間で強風のため 徐行運転することを案内が告げていた。
弥彦線の運転速度も東三条~燕間はモーター音を高らかに走り抜けたがそこから先は・・
2分遅れで西燕へ。そこで列車から降りて柏崎からの6連の115系に乗り移る。

東三条~西燕は建物がつらなり小さいながら町を形成しているが西燕~ 吉田間は水田を走り何もないため季節風が強いのかもしれない。
線路わきに風力計が設置されている。

吉田駅からの放送が西燕駅に流れ6分の遅れで発車したという内容だった。
寺泊行きの編成 N35編成
柏崎からの227M 115系N34編成とN38編成 
強風で体が流されれるが
足を広げて1カット!

吉田~西燕間は強風で遅れが出て10分以上となったが、西燕~東三条間は所定の最高速度で走るためか遅れは6分程度に縮まって東三条に到着した。
Mt54の重厚なサウンドが楽しめた。