5月4日撮影 雨の朝。以前から気になっていた磐越西線の大正時代にかけられた鉄橋が気になりまた日出谷付近で撮影をしたかったので出かけてみた。
会津若松と塩川の区間の平地。昼過ぎに雨がやんで残雪の飯豊が姿を見せた。
この区間電化区間であるが有名らしく各地から多くの撮影者が。
会津盆地のこの界隈私鉄買収線のような小さな駅があり大糸線あたりを思い出す。
雪山と列車だと大糸線の安曇野をはしる旧型国電であるが。
冗談はともかく遠目にまず1カット!
みごとな煙。この場所にいた方々大満足だったと思う。
ここでの撮影の後は磐越西線の歴史遺産(現役であるが)めぐり。
山都の鉄橋と釜の脇橋梁を眺めていったん国道49号で西会津に。ここで大きな栗の入った饅頭を土産に徳沢へ。そのあと国道459号線で日出谷に。
当麻橋梁を通過した下りの「ばんえつ物語」橋の右手には通信線(はえたたき)が残ることで知られている。
代掻きの澄んだ田んぼを入れて。この場所の撮影者は30人ほど。撮影の女性はミラーレス機がメインのようだ。
三川駅にて。津川で給水のため長く停車するのでのんびり走っても楽に追い抜ける。
停車中煙が上がったが・・・・
動き出すと煙はなくなる。三川駅のホームには見送る方々が多数。蒸気機関車は人気者である。
馬下駅を通過。編成がきれいに入り煙もそこそこ出してくれた。
キハ110の会津若松行きの普通列車と交換。キハ110223とキハE120そしてキハ110224のへんせいだった。かつて秋田リレーとして走った気動車たち。
ここで撮影を終了!
一般的にはこの近くの水田地帯で夕日で車体が赤く染まる画像を撮影するのが人気が高いようだ。
2016年5月5日木曜日
磐越西線 徳沢橋梁
2016年5月4日 磐越西線徳沢~豊美間に架かる「徳沢橋梁」をゆく233Dのキハ47型2連。
1978年11月に新潟日報事業社より刊行された「写真集新潟の鉄道百年」のP42~P43「岩越線全通」に記載された写真の一番最後に出ていた場所である。
ちなみにこの本では釜の脇橋梁と記載されていた。しかし実際には釜の脇橋梁は尾登駅と荻野駅との間に架かる橋梁であった。
大正(1914年)11月1日に津川と野沢の区間が全通して岩越線は新津~郡山間が1本の線路でつながった。新潟から東京へはそれまでの信越線経由15時間40分が岩越線経由では12時間47分となってこちらが幹線として脚光を浴びた。(大正13年にはまた信越線経由が早くなり昭和6年(1931年)には上越線が開業して7時間10分で新潟から東京に行けるようになった。
大正6年(1917年)に 磐越西線と改名して今に至るが上越線開業後は新潟と東北との幹線として機能することになる。
この岩越線は阿賀野川に沿って走るため多くの橋梁が作られたが水深が深く(15m)流れも速いため 架空式架桁法という工法が用いられたとある(P43の一番上の写真)
この一番最後の写真はキハ45とキハ20など5連の気動車で蘇生された列車が撮影されている。
またダムも作られて流れは穏やかになっているので急流ではない。
撮影場所は国道459号線から。この徳沢橋梁のあたりは流れの合流点で橋が架かっていてそこからの撮影。すこしいくと新潟県境である。 徳沢というとトラスではない橋梁の方が有名である。
撮影者にとってはトラスは車両が隠れるので好まれない。(もっともいまの「ゆる鉄」ブームでそれもうすまってきたようであるが)
1978年11月に新潟日報事業社より刊行された「写真集新潟の鉄道百年」のP42~P43「岩越線全通」に記載された写真の一番最後に出ていた場所である。
ちなみにこの本では釜の脇橋梁と記載されていた。しかし実際には釜の脇橋梁は尾登駅と荻野駅との間に架かる橋梁であった。
大正(1914年)11月1日に津川と野沢の区間が全通して岩越線は新津~郡山間が1本の線路でつながった。新潟から東京へはそれまでの信越線経由15時間40分が岩越線経由では12時間47分となってこちらが幹線として脚光を浴びた。(大正13年にはまた信越線経由が早くなり昭和6年(1931年)には上越線が開業して7時間10分で新潟から東京に行けるようになった。
大正6年(1917年)に 磐越西線と改名して今に至るが上越線開業後は新潟と東北との幹線として機能することになる。
この岩越線は阿賀野川に沿って走るため多くの橋梁が作られたが水深が深く(15m)流れも速いため 架空式架桁法という工法が用いられたとある(P43の一番上の写真)
この一番最後の写真はキハ45とキハ20など5連の気動車で蘇生された列車が撮影されている。
またダムも作られて流れは穏やかになっているので急流ではない。
撮影場所は国道459号線から。この徳沢橋梁のあたりは流れの合流点で橋が架かっていてそこからの撮影。すこしいくと新潟県境である。 徳沢というとトラスではない橋梁の方が有名である。
撮影者にとってはトラスは車両が隠れるので好まれない。(もっともいまの「ゆる鉄」ブームでそれもうすまってきたようであるが)
2016年4月3日日曜日
富山機関区EF81定期運用の消滅~3月27日の3093レ
2016年3月27日 3093レ ダイヤ改正で富山機関区EF81の運用は消滅したがまだ機関車が不足している関係でEF81の定期運用が残っている。この日は関門仕様の404号だった。
しかしカシオペアの機関車EF510-509と510がJR貨物に引き渡されているのでこれらの整備が終わり次第EF81が引退すると考えられる。
2016年3月13日日曜日
EF65 1043〔田〕12系白樺
1985年5月6日 東北本線 EF651043牽引12系座敷「白樺」 窓周りは淡い緑でそれ以外は白の車体で1983年に登場。所属は長野であり遠く日光方面への運用の様だった。
185系「新特急 なすの」4号 1985年3月14日ダイヤ改正でそれまでの165系急行の「なすの」を東北新幹線上野開業で余剰となった185系200番台で置き換えたものである。9往復が上野~宇都宮・黒磯間に運転された。停車駅は黒磯を出ると西那須野、矢板、氏家、宇都宮、小山、古河、久喜、大宮、浦和(一部列車)、赤羽、上野であった。写真の「新特急なすの」4号は黒磯が9時20分発で上野到着が11時30分であり2時間10分。改正前の急行が黒磯8時27分発で上野10時44分着なのでさほどスピードアップはされていない。また185系も「新幹線リレー号」のおさがりで急行から特急への実質値上げとなったため利用は伸びず、1988年3月改正では一部が快速「ラビット」に格下げ1989年3月改正では1往復が「おはようなすの」「ホームタウンなすの」として残ったにとどまっている。「なすの」は1995年12月1日のダイヤ改正で那須塩原までの東北新幹線に愛称を移動して新たに「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」となった。
「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」は2010年ダイヤ改正で列車そのものが廃止された。
「新特急 なすの」は1990年ダイヤ改正で上野から新宿に首都の発着を変更している。
「新特急」の愛称は2002年のダイヤ改正で廃止(高崎線方面の「草津」「あかぎ」「水上」など)
1985年ダイヤ改正では東北本線の上野日中の急行列車が すべて廃止されたので165系や455系はローカル輸送に用いられることになり東北本線のこの区間では見かけなくなった。
185系「新特急 なすの」4号 1985年3月14日ダイヤ改正でそれまでの165系急行の「なすの」を東北新幹線上野開業で余剰となった185系200番台で置き換えたものである。9往復が上野~宇都宮・黒磯間に運転された。停車駅は黒磯を出ると西那須野、矢板、氏家、宇都宮、小山、古河、久喜、大宮、浦和(一部列車)、赤羽、上野であった。写真の「新特急なすの」4号は黒磯が9時20分発で上野到着が11時30分であり2時間10分。改正前の急行が黒磯8時27分発で上野10時44分着なのでさほどスピードアップはされていない。また185系も「新幹線リレー号」のおさがりで急行から特急への実質値上げとなったため利用は伸びず、1988年3月改正では一部が快速「ラビット」に格下げ1989年3月改正では1往復が「おはようなすの」「ホームタウンなすの」として残ったにとどまっている。「なすの」は1995年12月1日のダイヤ改正で那須塩原までの東北新幹線に愛称を移動して新たに「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」となった。
「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」は2010年ダイヤ改正で列車そのものが廃止された。
「新特急 なすの」は1990年ダイヤ改正で上野から新宿に首都の発着を変更している。
「新特急」の愛称は2002年のダイヤ改正で廃止(高崎線方面の「草津」「あかぎ」「水上」など)
1985年ダイヤ改正では東北本線の上野日中の急行列車が すべて廃止されたので165系や455系はローカル輸送に用いられることになり東北本線のこの区間では見かけなくなった。
2016年3月6日日曜日
奥羽本線のキハ48
1984年11月3日 奥羽本線にて。キハ48と58の混成の普通列車。機関車牽引列車はEF71とED78が貨物と普通客車、寝台特急「あけぼの」などを牽引して山形まで運用していたが平坦なこの区間では1つエンジンの気動車も用いられていた。 今はこの区間は1435㎜に改軌され山形新幹線が通る路線となっている。
2016年2月28日日曜日
EF71 8牽引20系寝台急行「おが」
1986年5月3日 奥羽本線の寝台急行「おが」 福島駅で機関車の交換(DE75からEF71)を終えて発車を待っているところ。右手にはワキ5000らしき貨車も見える。
20系寝台車の臨時急行「おが」はJRになっても運転されたが1994年~1995年の年末年始を最後にには運転はなくなったようだ。
20系寝台車の臨時急行「おが」はJRになっても運転されたが1994年~1995年の年末年始を最後にには運転はなくなったようだ。
2016年2月27日土曜日
113系800番台 福知山線
1988年8月15日 尼崎 福知山線篠山口に向かう113系800番台。黄色と青の外観。ホロンピア88のヘッドマークの取り付けがされていた。また側面にも広告が。
福知山線の電化開業は特急が485系で各地からの寄せ集め。113系も同様だった。
113系も冷房のある編成はまだ少なくご覧のように窓全開で暑さをしのいでいた。
大阪の近郊でありながら2連の編成もあった。
電化に当たって各地から車両寄せ集めは新潟の越後線の電化を彷彿ささせた。尼崎の付近も当時はまだ開発もされてなく都会の田舎駅であった。
片町線と合体して福知山線から京橋方面に直通となり尼崎も接続駅として整備されこの界隈のひなびた風情も今は過去のものとなった。
この113系800番台はその後塗装変更がされまた一部は七尾線の電化のため北陸に転属している。
福知山線の電化開業は特急が485系で各地からの寄せ集め。113系も同様だった。
113系も冷房のある編成はまだ少なくご覧のように窓全開で暑さをしのいでいた。
大阪の近郊でありながら2連の編成もあった。
電化に当たって各地から車両寄せ集めは新潟の越後線の電化を彷彿ささせた。尼崎の付近も当時はまだ開発もされてなく都会の田舎駅であった。
片町線と合体して福知山線から京橋方面に直通となり尼崎も接続駅として整備されこの界隈のひなびた風情も今は過去のものとなった。
この113系800番台はその後塗装変更がされまた一部は七尾線の電化のため北陸に転属している。
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