刈り取られる直前の水田。黄色く色づいた水田を見ながら列車は通過していった。
今年の稲の作柄はいかに・・・・
昨年9月1日重い腰を上げて乗車した。もう1年が経過・・・・
2014年に登場した越乃shukuraもう11年が経過。そろそろ後任の話題が出そうであるが今のところそう言った話題もない・・・・」
刈り取られる直前の水田。黄色く色づいた水田を見ながら列車は通過していった。
今年の稲の作柄はいかに・・・・
昨年9月1日重い腰を上げて乗車した。もう1年が経過・・・・
2014年に登場した越乃shukuraもう11年が経過。そろそろ後任の話題が出そうであるが今のところそう言った話題もない・・・・」
クハ455‐701の座席はクッションが柔らかく国鉄時代の急行を思わせた。一例ではこの区間を走った急行「とがくし」165系直流電車の座席を思い起こせる。
クモハ413‐6の座席も青いモケットであるがこちらは今はない115系の座席に近い座り心地であった。
この妙高高原行きは直江津の時点で上越妙高から新幹線乗り継ぎと思われる乗客が多数あった。普段使い的な利用のされ方となっていた。(この列車は平日は二本木止である)
二本木付近では撮影者もちらほら、有名ポイントに10名くらいだった。今や貴重な国鉄型車両・・・・
クハ455‐701から殉職者慰霊碑を・・・この区間建設で犠牲になられた方々の慰霊のための建立である。
妙高高原にて クモハ413‐6
ヒスイラインではよく揺られた413系であったがはねうまラインでは直江津~上越妙高間だけの乗車だったので今回ようやく妙高高原まで乗車できた。きっぷはえちごツーデー きっぷ2800円を利用。この日はひすいライン、ほくほく線も乗車のため額面価格以上の使い方ができた。
今は架線が取り払われた会津若松~喜多方間であるが、このころはグリーン車を備えた編成が快速ばんだいとして行きかっていた。1985年の東北新幹線上野開業時にグリーン車サロ455の運用が無くなり、455系は普通列車の運用だけになりJR東日本に承継。JR東日本になってから観光需要に対応するため先頭車1両をグリーン車(半室で残りは普通指定)クロハ455‐1として運用された。
この時代会津若松と喜多方の区間は455系が11本行きかい全盛時代だった。
1987年より運転開始。大阪~金沢間「雷鳥」に無動力で連結。金沢から和倉温泉まで単独運転。1991年に七尾線が電化するまでこのような運行形態がされていた。
雪のない冬雨が容赦なく降り続ける中走る。この日はほかにDE10牽引の「能登」もあった。これは上野からの列車の延長運転で14系寝台と座席の4両が使われていた。
キロ65型「ゆうとぴあ和倉」は1987年1月1日金沢から吉田まで団体列車で乗り入れている。これは市振地区の漁業関係者の初詣列車だった。翌年「ゴールデンエクスプレスアストル」が落成するとこの編成に引き継がれ1月1日の越後線の花形となった。
弥彦線での急行型車両乗車は極めて難易度が高く乗車は難しかった。
この撮影場所は高架工事で廃線となり道路となっている。
この頃は急行がキハ58とキハ28 普通列車はキハ53、キハ20、キハ26 他にキハユニ26とキユニ26が七尾線と能登線に運転されていた。気動車の配置は七尾機関区(金ナナ)
2011年5月4日 JR西日本金沢駅 415系 七尾行き 単色塗装が進行中だったがまだこの旧塗装があった。金沢駅は高架になっていた。
七尾線能登二宮付近 キハ58など 4連 通勤改造車
津幡から七尾の区間は平野部を走るため単調な区間が中心だった。この区間で蒸気機関車列車(C571とC56160重連のSLやまぐち号編成)を狙ったが激しい雨の日で苦戦を強いられた。露出も上がらない眠い写真ばかりが残るだけ。
七尾線はいまに至るも乗車歴はない 。輪島へ行ったことがあるが「社員旅行」という仕事の一環であり写真撮影などをしている余裕は全くなかった。バスでの移動であり世話役をするため車内の状況を監視したり、イベントをしたり、バスガイドさんと打ち合わせをしたりで気が休まることはなかった。宿に着いたらすぐに宴会の段取りに入りそれらに忙殺され疲れだけがたまっていく最悪な状況だった・・・・自己管理できない方々が多数のため苦労が絶えない。ケガ人でも出たら大変なことになるわけで・・・
行程は北陸自動車道経由で富山市内で昼食(ますのすし)夕方和倉温泉泊 翌朝和倉温泉から輪島朝市 ここで朝市を見学しやっと旅らしい気分を味わう。 輪島から能登金剛を経由して金沢市のはずれから北陸自動車道経由で帰路に就いた。柏崎の手前で「トワイライトエクスプレス」に抜かれたから帰宅は20時近かったかもしれない。
このような劣悪な旅行だったがこれ以降はいくことはなかった。転職しこのようなイベントもなくなってしまったからである。バブルが崩壊し雇用体系も大きく変化しこのような旅行をする余裕などなくなってしまったと考えられる。それが今日にも至っている。思えば一時のはかない夢だったと思う・・ただなぜか帰路に就く際は鮮やかな晴れの空が広がりそのことが思い出される。いまは行くことの叶わぬ北陸への憧憬となっている。
1日の地震でこの地方は瀕死の状況となってしまったが再び復活することを夢見ている。朝市や千枚棚田、穏やかな内海と激しい外海、能登の素朴な光景がよみがえってくることを願って。
167系4連の海水浴臨時列車。7月の後半から8月上旬の運転で信州や首都圏から日本海沿岸に多くの海水浴利用者を乗せて臨時列車が運転されていた。
この編成は信州から日本海を目指す「スカイビーチ」で 小諸~柏崎の運転。167系は田町電車区所属。
167系は修学旅行電車として知られたがいったん湘南色となったあと画像の塗装に変更。車内もリクライニング席となっていた。クハ167の前面も補強がされたりライトが旧型前照灯の台座を流用したものがあった。167系「スカイビーチ」は当初湘南色の編成だったが1990年代に改造車に変わった。
朝の魚沼線列車。来迎寺から121D~122Dで西小千谷往復後、123D~124Dで片貝まで、125D~126Dで西小千谷往復したのち来迎寺から長岡へ回送され機関区で待機し夕方再び回送されて129D~130D、131D~132Dと走り長岡に回送。客車列車1323レ最後部に連結されて新潟に回送する運用。朝の列車は前日の急行「うおの」に連結され長岡にて切り離して機関区取り込みであった。 1983年の時点では十日町快速、信越本線下り普通455Dに変更されている。画像の西小千谷は小千谷市街はずれで人けもない場所だった。現在は商業地となっている。
魚沼線運用は気動車2連でキハ58、キハ52、キハ47が末期に用いられていた。
長岡駅で待機する気動車2連。3番線と4番線の間にある通過線。長岡駅を通過する貨物列車や寝台特急「日本海」が通る線路。夕方入れ換えで長岡機関区から入線し来迎寺に向けて発車していく。魚沼線は翌年4月1日廃止されるのでこの光景は1年後見られなくなった。どこでも見ることができたキハ58と長岡駅ではレアな一般型キハ47。一般型はほかにキハ35、45、52もあったが1983年の時点では見かけなかった。
キハ58の後ろの115系は新潟行き普通列車で14両の長大編成。実際客扱は8両のみで残り6両は回送だった。
今はこの付近に乗場が増設されて奈良線の乗り場となっている。
スロ81系は鋼体化改造客車60系客車からの改造車で品川と宮原の2編成が画像と同じ車体様式であった。(旧型客車であるが城帯を入れ12系と同様の塗装となったもの)この頃12系改造のお座敷客車も多く登場し今では古豪となって後継 の車両が登場するといううわさもあった。
この81系お座敷編成は1979年9月高砂工場にて落成している。1986年に後継の14系お座敷「みやび」に置き換えられ引退。
鳥栖15時34分発長崎20時17分着
かつて準急型1等車キロ25の格下げ車キハ26400番代を通勤仕様としたもの。旧型国電クハ47のように全ロングシートであった。車体は朱色5号1色。長崎機関区配置。
履歴はキロ2540として1960年4月18日帝国車輛で落成し北海道の苗場機関区に配置。車内は回転式クロスシートで電車のサロ110など同様だった。
普通車に格下げされキハ26440に なるがその時点での配置は美濃太田機関区。1968年7月23日のこと。改造は名古屋工場。1976年6月30日小倉工場で通勤仕様の改造がされ、筑肥線の運用のため東唐津配置その後長崎機関区に転属し1983年10月30日廃車となっている。
この車両を見かけたときには朱色1色で優等車両の面影は窓の配列だけ車内ロングシートとあれた雰囲気が漂い近づく気にもならずにさっさとその場を立ち去った記憶がある。
当時の配置表によると長崎機関区には606~613と615、616と10両も配置があった。この改造はキハ26400番代だけ行われそれ以外はされなかった。また九州のみで行われたのみ。
優等車両格下げ車の通勤仕様変更は珍しいことではなく客車では旧1等車のオールロングシート改造のオハ41型が多数存在していた。
飯山線は十日町~森宮野原間は一日7往復の閑散区間となる。通学時間帯が終ると2両編成が主流になった。キハ20とキハ55の2連が長野まで走る。キハ20は1980年の配置表で確認すると、332、472、475、509~512、651が記載されている。1983年版ではキハ40の554~558と593、594ならびにキハ48559、1560が配置されキハ20は651だけになった。1981年版の配置表は所有していないので推定であるがすでにキハ40をこの日十日町構内で見ていたので1980年の秋ごろキハ40が入り始めていた可能性がある。キハ20332は1982年4月1日廃車となっているので472または475の可能性がある。500番代は愛称標差しと号車標差しがついているが画像の車両には見当たらないので該当しないと考えられる。
朝の通勤時間帯のため2連運用だったものをつないで4連にしたためキハユニ26は編成の中ほどに挟まれてしまった。飯山線のような本数の多くない路線でも朝方は混雑していたのであろう。キハユニ26は地方路線での荷物郵便輸送に多くもちいられ郡山(只見線など)、富山(大糸線など)にも配置がなされていた。長野ではほかに全室荷物車キニ56も配置されていた。
1960年8月15日富士重工で落成し高松に配置。晩年は長野に転入し飯山線で運用。廃車は1983年1月26日。一灯式シールドビームとバンパーが特徴。
当時は全く意識をしていなかったが長野のキハ55も一癖ある車両が多いようだった。初期車や変形塗装は姿を消したがこの時点でもバンパー付きがいたとは・・・
入れ替え作業で4連となりキハ55204のうしろはキハユニ26、キハ55191、キハ58となって通勤輸送を支えていたのであろう。日中閑散時間帯は2連が中心だったようだ。これらキハ55系も 1985年3月までには静かに引退している。キハ55を撮りに大勢集まったということもなかった。
1982年の十日町駅はほくほく線もまだなく効果ができるであろう場所はヤードが広がっていてワム70000らしき貨車が見えた。車庫にはDD16がいて出番を待っていた。
構内の腕木信号機はすでに消滅していたがローカル線の拠点の風情はまだ健在だった。
1960年3月30日新潟鐵工所にて落成し小郡に配置され、晩年は長野に配置され飯山線で運用。廃車は1984年2月8日。
1979年以来3年ぶりに十日町を訪ねた。キハ55は健在だったが初期車は廃車になり見かけなかった。
1984年2月 キハ55254 有間川駅 428D
北陸本線普通列車の主力は客車列車であったが、気動車列車も数本あった。気動車は富山第一機関区(金トヤ一)所属のキハ52、キハ55、キハ58など。高山本線の車両と共通運用されていたかもしれない。
キハ52254は1961年2月7日新潟鐵工所落成、当初和歌山機関区配置だった。1984年4月28日に廃車となるので残された日はわずかだったがこのころはそんなことを知る由もなかった。
気動車2連が実際の北陸本線末端区間の輸送量に合致していたと考える。富山から直江津までは人口が少なく農村や漁村が中心。県境を越え人口が比較的多いのは糸魚川だけだった。この列車も直江津で乗った客は各駅で降車し、糸魚川手前で乗車が増え糸魚川を出ると降車が続くという流れが中心だったようだ。
左手の光跡は東京行き寝台急行「銀河」20系のもの。
急行「立山」のヘッドマーク下には雪がある。この1981年も豪雪の年で北陸地方に甚大な被害をもたらした。敦賀第二機関区の車庫の倒壊などの事故も起きている。
雪のない大阪から再び北陸へ向かう急行「立山」